第127話 『玉屋山三郎と荻江節(三)、山田山三郎』

 花柳園山三郎が亡くなった後、次代の山三郎の時に江戸幕府は崩壊し、明治の世になった。

 明治政府の下、東京は大小区制が布かれ、吉原は第五大区第十二小区に編入された。

 明治四年十一月二十八日のことである。

 その第十二小区の戸長(小区長のこと)に山田山三郎の名があった。

 玉屋は山田姓であることから、それは玉屋山三郎に違いないと直感した。

 都の公文書館に行って調べたところ、山田山三郎は第十一小区の戸長も兼任していることがわかった。

 明治政府は、明治五年十月二日に「僕、婢、娼妓解放令」を布告し、人身売買を禁じたが、それによって吉原は大打撃を受け、多くの妓楼が癈業に追い込まれた。

 中万字屋をはじめ、和泉屋、山城屋、久喜万字屋、大黒屋等々、いずれも店を閉め廓を去った。

 玉屋も御多分のもれず、閉店の止むなきに至ったが、その正確な日付は今のところ分からない。

 明治六年十二月二日付で、山田山三郎を第五大区第十一、第十二小区の戸長に任命する旨の書き付けが残っているが、湯島天神三丁目山田山三郎とあるので、玉屋の店を閉じたのはそれ以前で、廓を去った山三郎の移転先が湯島であったことが知られる。

 その後の山三郎について、公文書館の書類から分かることは、山三郎は明治十年に病気に罹り、療養中の業務を高木六蔵という書記に代行させたようで、「事務代理申付」の伺い書が出されている。

 どんな病気だったのかは書類に書いてないので分からないが、療養は長期にわたったようで、明治十一年七月二十二日公布の「郡区町村編成法」が同年十一月二日から実施に移され、旧大小区制は癈止、東京府は麹町区以下の十五区と、荏原郡以下の六郡で構成されることになった。

 明治十一年十一月二日付で、山田山三郎は浅草区役所に雇われ、同四日に書記に任命されている。

 給料は月給十二円とある。

 しかし、その同じ十一月二十九日に辞表を出している。やはり病気のせいかもしれない。

 翌日の明治十一年十一月三十日に辞表は受理され、正式に退職。以後、山三郎は公の場から姿を消す。

 その後の山三郎についての情報は皆無である。

 かなり以前のことになるが、『吉原雑話』に次のような記述があるのを見つけた。

「玉屋山三郎元祖山田宗順。
 正徳四年二月二十九日死(小文字添書)
  山田次郎左衛門
 此説未詳、玉屋次郎左衛門は本家三之丞家、玉屋山三郎、玉越太郎兵衛先祖よりして親類也、故に其墓本所押上大雲寺中、撞鐘堂のむかふ俳諧士の祇徳が墓とむかひあって有る也、山桐屋の墓也」

 これを見て、玉屋の菩提寺は大雲寺ではないかと思い、機会があったら行って確かめたいとかねがね思っていた。

 大雲寺は別名役者寺とも云い、市村羽左衛門、坂東彦三郎、瀬川菊之丞、尾上菊五郎、松本幸四郎、中村勘三郎などの歴代の墓があるので有名な寺で、関東大震災後、押上から江戸川区の瑞江に移転して、今は瑞江葬儀所のすぐ目の前にある。

 墓碑史蹟研究会を主催しておられる星沢豊子さんから、例会で大雲寺に行くという御案内を頂いたのは昨年十一月のことである。  勿論、悦んで参加させて頂いた。

 私は会員の皆さんとは別行動で、大雲寺ご住職の西城宗隆氏にお目にかかり、お話を伺った。

 結果を先にいってしまうと、残念ながら大雲寺は玉屋の菩提寺ではなかった。『吉原雑話』にあった山田宗順の墓も既に無く、万延元年六月二十五日に亡くなった花柳園山三郎についても過去帳を調べて頂いたが、該当する人物は見当たらなかった。

 大正の大震災の折、膨大な量の過去帳をすべて持ち出すことが出来ず、比較的新しいものだけ持って出たそうで、その中に幕末のものもあったので、花柳園山三郎について調べて頂くことが出来た。

 玉屋に限らず菩提寺が分かれば、過去帳を調べて貰え、はっきりすることも多い。

 例えば、没年月日、行年がわかる場合もある。

 大雲寺は玉屋の菩提寺ではなかったが、西城住職が大変ご親切に応対して下さったので、後日お礼に拙著をお贈りしたところ、ご丁寧な返事のお手紙を頂戴した。

 その中に、

「先日申したように、浅草蔵前榧寺さんが玉屋の本家筋の檀家であったということを、随筆で読んだことがあります。江戸時代は正覚寺が正式名で、現在の寺名は俗称であったと思います」

 とあったので、この二月の初めに榧寺を訪れた。

 榧寺は春日通りに面した大変モダンな感じのする寺で、バスで春日通りを通る時、いつも目にしていたので、地図などで確かめる必要もなかった。

 榧寺では、寺の方々が方丈さんと呼んでいるご住職がご婦人だったので、びっくりした。

 私が伺った趣旨を述べると、すぐ携帯電話をかけて何か話しておられたが、電話した先はは七十年榧寺に勤めて榧寺のことなら何でもご存知という方だそうで、その方も玉屋のことは全く知らないということだった。

 榧寺では過去帳はすべて揃っている由で、花柳園山三郎についても過去帳を出してきて調べて下さったが、該当する人物は見つからなかった。

 方丈さんのお話では、浅草のお寺さんの集まりがあって会場は榧寺なので、その時に玉屋の菩提寺について訊いてあげましょう、といって下さった。

 名刺を置いて行ってくれれば、後で連絡して下さるというので、名刺と一緒に持って行った拙著を差し上げて帰った。

 偶々私の他に、方丈さんのアポイントメントをとって来ているセールスマン風の人が待っているので、あまり突っ込んだ話が出来ず残念だった。

 結局、何の収穫もなかったのだが、携帯電話をかけ終わった時、方丈さんが私に向かって、

「玉屋じゃなくて、三浦屋じゃないんですか」

 といわれたのが、耳に残った。その時、

「いや、玉屋です」

 と私は答えたが、後で考えると、もしかしたら、榧寺は三浦屋の菩提寺だったのかもしれない、と今は思っている。

 三浦屋といえば、高尾太夫や助六でお馴染みの揚巻などを抱えている吉原を代表する大妓楼だったが、宝暦年間(1751~1763)に突然断絶した。

 原因はいろいろいわれているが、未だにはっきりしないようだ。

 榧寺が三浦屋の菩提寺だったとすると、三浦屋を調べる時には何か大きな手がかりになるかもしれない。

 次回は、山田山三郎の荻江との係わりの資料を都公文書館で発見したので、それについてーーーー。

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