第126話 『玉屋山三郎と荻江節(二)、花柳園山三郎』

昭和四十五年、コロンビア・レコードから出た「荻江節考」というレコードの解説書『荻江節考』(竹内道敬著)に、

「(吉原では)男芸者で長唄を表芸にしていた者は、長唄の姓(たとえば松島、杵屋、芳村、岡安など)を使用することが禁じられていたのではないか」

として、

「荻江姓を名乗る男芸者は、荻江節を伝承していたのではなく、むしろ、長唄を表芸にしていた男芸者が、何らかの理由で(禁止されたか遠慮したかして)荻江を名乗っていたのではないか」(以上、要約)

とあるが、これはやはり前章でも述べた通り、吉原の座敷で素で演奏する長唄は、長唄の原曲そのものではない、所謂吉原風長唄なので、そうした長唄の元祖とも云うべき初代荻江露友の姓を名乗る者が多かったのかもしれない。

更に、同書には、

「(長唄の)富士田の姓は、安永元年(1772)、同二年でなくなり、その後も松島、坂田、岡安の名が散見するが、それらも一人だけで、数年を経ずしてなくなってしまう。また頭書の「長うた」というのも、安永二年以降にはない」

ここには出ていない錦屋という名もあるが、岡安、錦屋は三味線弾きで、寛政年間に出てくる坂田は、元祖の坂田兵四郎が「めりやす」の名人だったこともあって、「めりやす」の唄い手だったのかもしれない。

要するに、殆どの長唄の男芸者が荻江姓となり、そうした連中が演奏する吉原風長唄を、三升屋二三治は、荻江風と呼んだのだろう。

荻江の現存曲は二十三曲で、その内の現在道成寺は一部分しか残っていない。

それを分類すると、

(一)、長唄系のもの
(二)、地唄系のもの
(三)、荻江独自の曲

以上の三種類となる。

(一)は長唄から引き継いだもので、(二)と(三)は花柳園山三郎がプロデュースした新曲である。

それらの新曲について、『荻江節考』では、

「主として吉原俄で出来たもので、作曲者は荻江里八であろう」

(要約)

としているが、里八が一中節の大野里八から荻江里八に改名したのは、弘化二年(1845)の吉原細見からで、花柳園山三郎が新しい音曲を作る運動を始めた時期と一致している。

従って、里八の前に川口お直がいた訳で、お直と里八がどのように荻江の新曲の創作に係わったのかは、今後の研究課題だろう。

吉原俄についてだが、荻江に関する番組として、嘉永三年(1850)の寿文矢屏輔(ももちすじふみのやびょうぶ)と、安政五年(1858)の花柳春日迺神楽(はなやぐやかすがのかみがく)が残っている。

嘉永三年の番組は一中節と荻江の掛け合いで、一中節は宇治紫文斎の宇治派だが、三味線に名人お静の宇治倭文の名はない。

荻江は、唄は荻江露輔、千代作、露文の三名、三味線は荻江里八、亀次、和吉の三名、番組の下部に、持主安房万字屋とあるが、持主の意味は不明。

荻江の出演者の内、露輔(露助)、千代作、里八は、いずれも弘化二年以後の吉原細見にその名が出ているが、唄の露文、三味線の亀次、和吉の名は吉原細見の男芸者の部に載っていない。

或いは、助人で一時的に荻江姓を名乗ったものか。

花柳園山三郎は、都派を破門された宇治紫文斎の後ろ楯となり、宇治派を創派させたといわれている。

荻江と宇治の掛け合いには、そうした二人の関係が見え隠れする。

紫文斎の伴侶である名人お静は琴の師匠だったとも云い又、以前書いたように、宇治派には百島勾当も加わっており、荻江に地唄を取り入れたのには、それらの人達の関与もあったと思われる。

安政五年の番組(私蔵)の一部安政五年の番組(私蔵)の一部
図(A)                        図(B)

安政五年の番組(私蔵)は一部を図(A)、(B)、(C)に挙げた。

表紙(図(A))には、

「当ル戊午初俄 花柳春日迺神楽、翁いか、千歳 もむ、三番叟 よね」

とあって、下部に扮装した六名の舞い姿の絵が出ている。

続く図(B)は同番組の二頁目(表紙の見返し)で、右上に長唄とあり、その下に唄の荻江さき以下四名と、左上の三絃とある下に出ている四名の内の最初の二名、荻江つう、よのは吉原の女芸者と思われる。

三絃の残りの二名は男性で、荻江和吉と里八である。里八の名が他の芸人達と違って、荻江里八と大きく書いてあるのは、リーダーというか、責任者なのかもしれない。

左下に、持主和吉と此処にも持主という言葉が出てくるが、嘉永三年の番組の持主は安房万字屋とあり、妓楼か引手茶屋か。

持主という言葉通りにとれば、番組の持主で金主元ということなのか。今のところ、どういうことなのか、意味不詳。

荻江和吉は嘉永三年の番組にも出ていたが、吉原細見にその名はない。

元々長唄の芸人で、助人として一時的に荻江を名乗ったとすると、杵屋和吉かもしれない。

もし、そうだとすると、三世杵屋和吉は天保年間に亡くなっているので、その息子の四世和吉ということになる。

安政五年の番組(私蔵)の一部
図(C)

安政五年の番組の二枚目は、図(C)の如く、最初に、

「翁舞四社迺神歌(おきなまいししゃのかみうた) 荻江嗣流 山田清樹曲節」

とあって、以下、その詞章が二枚(四頁)、

次に、

「石橋 荻江嗣流 山田清樹作」

として、その詞章が一枚半(三頁)あり、全部で五枚(十頁、最後の頁は余白)の番組である。

この番組で最も目を引くのは、二頁目(表紙の見返し)の出演者のところで、図(B)を見てわかる通り、右上に長唄と書いてある。

花柳園山三郎は自分がプロデュースした新曲を荻江とはいわず、長唄といっているのである。

この安政五年の二年後の万延元年に、花柳園山三郎は死んでいるので、まず存命中は、自分達の作った音曲は長唄であって、つまり長唄の荻江連中と考えていたようだ。

花柳園山三郎自身、荻江嗣流とは稱したが、自らが荻江なにがしとなった記録は見つかっていないので、それはなかったと思われる。

しかし、新しい音曲を作る運動を推進する指揮をとったのは花柳園山三郎で、荻江連中の家元的存在だったことは事実で、それは花柳園山三郎が亡くなった後も次代の玉屋山三郎に引き継がれたようだ。

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