第125話 『玉屋山三郎と荻江節(一)、荻江風長唄』

 荻江節については今迄、何回も書いてきたが、一応ざっと整理して置く。

 初代荻江露友は、有名な富士田吉治楓江と並び稱された長唄の唄うたいで、楓江については『せんすのある話』の「吉原雀」の項に詳しく書いたので省略するが、寛保、宝暦頃の平澤常富の見聞録『後はむかし物語』に、

「長唄、路考(初代、瀬川菊之丞)が時は坂田兵四郎、仙魚(瀬川菊次郎、初代菊之丞の弟)が時は松島庄五郎なり、此の両人は此ころの唄の上手なり、此後、富士田吉治出て一家をなす、継て荻江露友出るといへ共、楓江にはおよばず」

 又、幕末の『三升屋二三治戯場書留』の長唄の項に、

「荻江露友は楓江には及ばずとも、荻江風といふを世に弘しは、なかなかおよぶところにあらず、今も猶、荻江風多くありて、人知るところなり」

 とある。

 初代露友は明和三年(1766)11月から、明和五年八月迄市村座に出演した後、吉原に引っ込んで客の求めに応じて座敷で唄を聴かせていたという。(『鹿の子餅』)

 長唄というのは歌舞伎の伴奏音楽が発展して出来たもので、長唄という名稱共々、音曲の一ジャンルとして確立したのは明和の初め頃で、その考証は『江戸落穂拾』の「長唄の成立」に書いた。

 本来、歌舞伎の伴奏音楽である長唄を座敷で、客が飽きないように聴かせるには、それなりの工夫が必要である。

 単調で冗漫な部分を大幅にカットし、聴かせ所を集める等、ダイジェスト的処置を施し、唄い方も座敷では劇場のように大声を張り上げる必要がないので、声の出し方をソフトに節を細かく唄うなど、従来の長唄と異なる特色を打ち出したようである。

 それは今残っている長唄系の荻江節の曲、例えば、高尾懺悔とか、金谷丹前などを調べてみるとよくわかる。

 殊に高尾懺悔は長唄に元の曲が残っているので、比較してみると、その相違点がはっきりわかる。

 初代露友のレパートリイには当時流行のめりやす(長唄の短い独吟物)も当然入っていたと思われる。

 短い独吟物ときたら、座敷で客に素で聴かせるには持って来いである。

 初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻(やなぎさわ のぶとき)作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。

 初代露友は天明七年(1787)に死んだといわれているが、初代が活躍した安永、天明の頃の『吉原細見』の男芸者の中に荻江露友の名は見当たらない。

 荻江姓の者が出てくるのは、私が目にした細見の中で天明二年(1782)のものに、荻江藤兵衛、荻江籐次、荻江松蔵の三名の名が初出する。安永二年(1773)の細見の芸者(この頃はまだ、女芸者も入っている)のところに、「長うた 藤兵衛」とある、その藤兵衛が荻江藤兵衛と改名したと思われる。

 その後、天明六年の細見では荻江姓を名乗る男芸者は十一名を数え、天明から享和にかけて十名程はいたようだ。

 文化年間(1804~1817)には少し減るが、八、九名は下らない。

 しかし、天保年間(1830~1843)になると、荻江姓の男芸人は激減し、二人しかいない場合が多い。

 後述する玉屋山三郎が廓の流行唄を作ろうと運動を始めたのは天保の終わり頃だったと思われる。

 この玉屋という妓楼は大籬(おおまがき)と呼ばれる大店で、江戸町一丁目の角にあったので、俗に角玉屋とか又、暖簾に火焔の模様を染めていたところから火焔玉屋とも呼ばれていて、主は代々山三郎を名乗った。

 この山三郎は『安政文雅人名録』に、

「心法清樹 名直温宇楽道 号好文堂又歌山堂 新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎」

 とある人物で、この他に花柳園とも号したようだ。前にも書いたが、西川流を破門された西川芳次郎の面倒をみて、自分の花柳という号を与えたのもこの山三郎で、芳次郎は後の初代花柳寿輔である。

 又、都派から破門されて孤立した都一閑斎が独立して別派が立てられるよう両者の間に入って調停役をつとめたことは「一中節の三派」の章に書いた通りで、都一閑斎は宇治紫文斎となった。

 こうしてみると、花柳園山三郎はなかなかのやり手だったようだ。

 邦楽研究家の故川崎市蔵先生から頂いた資料に明治四十一年三月の雑誌『歌舞音曲』に載っている「荻江節の事」と題する山彦秀翁の話の記事がある。

 山彦秀翁は幕末の河東節の太夫、十寸見可慶の倅の秀次郎で、晩年に秀翁と稱した。

 可慶は明治四年に亡くなったが、没後九代目河東を諡されている。秀翁は大正八年七十九歳で亡くなる迄、河東節の家元として、その保存と普及に貢献した人である。

 その記事というのは、

「吉原の廓内に維新頃迄、立派に暖簾を揚げていた大店で、玉屋というのがありました。

 此楼主の山三郎が、なかなかの音曲通で、地が芸好きの利けもので、玉屋の旦那が通り名でした。廓内は遊女屋渡世の外に、引手茶屋とか料理茶屋とかがある。

 此茶屋の主人や幇間衆や、芸妓の古顔などが寄って、何にか此の廓の流行唄を出したいとの話、其処で山三郎が色々節廻しや、絃の道を調べて、漸く仕上げたのが荻江節なんです。

 節は長唄に京唄をつき交ぜて、それをもっと淡白にやったという具合、しかしまァ京唄の方が勝っていましょうか。

 山三郎が音頭で、社中といふのは男女二十名くらいありました。惜しいことには、山三郎が安政の末か、文久の初めか覚えていませんが病死しました。わか死でしたね」

 前にも挙げたので重複するが、大変重要なことが出ているので、再び引用させて貰った。

 この山三郎は花柳園山三郎で、川崎先生は晋永機の『万延年中京上り旅日記』から、山三郎が万延元年(1860)六月二十五日に亡くなったという記述を発見されたが、享年は不明である。

 山彦秀翁は花柳園山三郎が若死にだったといっているが、荻江節を作る活動を始めた天保の末に少なくとも二十歳位になっているとすると、没年の万延元年には四十歳近くになっている。

 花柳園山三郎の始動を天保の末としたのは川口お直との関係からである。

 お直は元吉原芸者で、清元、河東節に堪能だったという。又、作曲に勝れ、清元の名曲、北州、梅の春はお直の節付けといわれている。

 お直は晩年、橋場で川口という料亭を営んでいた。

 私が、お直が荻江をやっていたというのを発見したのは、『贅高名花競』(ぜいたくこうめいはなくらべ)という見立番付のしゃれの方(東方)の三番目に、

「橋場 古今まれもの 川口荻江唄」

とあるのを見つけたからで、元吉原芸者だったこともあり玉屋とはよく知る間柄だったと思われる。

 そう考えると、花柳園山三郎が既に作曲に燦々とした実績を持つお直の才能を黙って放って置く訳がないとして、現存の荻江曲の松竹梅はお直の節付けではないか、という推論を前に書いた。(『江戸吹き寄せ』の「荻江節の作曲者」)

 お直は弘化二年(1845)十一月二十六日に亡くなった。行年は不明だが、七十歳位だったと思われる。

 お直が既に荻江をやっており、評判をとっていたとすると、花柳園山三郎の活動はお直の生前でなければならない。又、遊芸娯楽などに厳しかった天保改革中は先ず無理だったと思われるので、老中水野忠邦が免職となった天保十四年(1843)閏九月以降とすると、翌天保十五年は十二月に弘化と改元になったので、月が明ければもう弘化二年になる。『吉原細見』にみる荻江姓の男芸者は天保の末には僅か二名しかいないが、弘化二年に急に六名に増えていることも新しい荻江の活動を裏付けている。

 しかし、お直は弘化二年の末に死んでしまった。お直が荻江に係わったのは、長くても二年位の間だった。もう少し長生きしてくれていたら、荻江のレパートリイも増え、名曲も生まれたに違いないと惜しまれてならない。

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