第124話 『一中節の三派(五)、幕末から明治』

 幕末から明治にかけての三派について整理して置く。

 先ず都派だが、七代目のお薦(こも)一中は素行が悪く門弟からも見離され、行き倒れて死んだと伝えられている。没年不詳。

 八代目一中については、『一中譜史』に次のようにある。

「現時の四世序遊と二つ年下の人にして、八歳の時家元を襲名す。時に安政二年(1855)なり。中橋西中通り千葉屋という足袋屋の倅仙之助なり。五代目一中千葉姓なれば、この千葉屋と何等かのゆかりあるものにや知らず。この人急病にて三十歳前後に死したり。(明治十年八月二十九日没)」

 とある。安政二年に八歳とすると、嘉永元年生まれで没年の明治十年にはちょうど三十歳になる。

 千葉屋と五代目一中の関係について平凡社の『演劇百科事典』には、「六世一中の従孫」と出ている(英十三)。

 従孫というのがあまり見かけない言葉でよくわからないが、中川愛氷の『三絃楽史』には「その甥」となっている。

 六代目一中の妻の一浜の門下から、一清と以中が出たことは前に書いたが、一清は後に一静となった。この一静は勿論、宇治倭文となった名人おしづの一静とは違うのだが、紛らわしいので、以下一清で通すことにする。

 一清は元深川仲町の芸者で、大吉という名で出ていたという。

 一清は嘉永二年(1849)に一清となり、明治十四年に死んだ。名をとったのは四十歳の時というから、逆算すると文化七年(1810)生まれで、享年は七十二歳となる。

 一清は作曲にも堪能で、作品に「猩々」、「道成寺」、「都鳥」、「石橋」などがある。

 一清は又、御船蔵の師匠といわれていた。

 御船蔵とは、今の江東区新大橋一丁目辺の隅田川沿いに幕府の御船蔵があったので、その辺りを御船蔵前町といった。そこに一清の住居があったと思われる。

 一清の門下から初代一広が出た。

 人間国宝二代目一広の新橋菊村のおかみさん事、篠原治師はこの初代一広の弟子である。

 菅野派は、嘉永四年(1851)十一歳で家元を継いだ四代目序遊は大正八年七十九歳で亡くなったが、美音で近世の名人と評判が高かった。

 宇治派は、初代紫文斎が安政五年(1858)に没した翌年の一周忌に、初代とおしづの子の福太郎(福之助とも)が二代目を継いだ。二代目は身体が大きいのに風采があがらなかったので、油徳利と呼ばれていたという。明治八年五月に隠居して閑斎翁と稱したが、明治十二年に亡くなった。享年五十九歳。

 三代目紫文斎は元幕府の御家人での四代目菅野序柳が宇治に転じ、紫京の弟子となり紫鳳と稱したが、後に三代目紫文斎を襲名した。

 初代紫文斎とおしづの血筋は二代目の死によって絶えた。

 三代目紫文斎は明治三十六年十月に七十七歳で死去した。

 この稿を締め括るに当たって、これまで参考にしてきた各書から三派の芸風に関する記事を次に挙げる。

 今では全く一変しているかもしれないが、当時の芸風や芸に対する考え方、感じ方を知るのも一興と思う。

 芸談としてもなかなか興味深い。

 菅野派、宇治派について、

「宇治派の曲は琴曲の影響を受けたるをもって、悪評家は盲人節などといえりという。しかし、いづれも菅野より出たる人々なるをもって、宇治と菅野とは、一脈の通ずるところあり。都は然らず」(『一中譜史』)

 以上は、「一中節の三派(三)」に引用済で重複するが、一応再掲させて貰った。

 宇治派について、

「昔の一中節は面白くないものとなっていました。咽喉がころころかへると師匠(名人おしづ)は嫌がって、あれはお浄瑠璃ではないと申されました。咽喉がよくて意気に語りますのは大禁物、仮令どんなに咽喉がよくてもころりと言はせず、唯ふはりふはりと丸く節を語るのが一中節の本分ださうでございます」(『名人お静』の後記)

「(師匠は)浄瑠璃の方で申さうなら、かるい物でどうしても人に真似の出来ないうまいところがございました。先づ、三度笠の「寝まきながらに送られし」とか、椀久の「たどり行く」、駒の泪の「ほうれい」、若衆万歳の「袖なし羽織たづな帯」など、これらはまったく無類で、誰にも師匠のやうにはできませんでした」(『名人お静』の後記)

「また師匠の三味線は撥もあざやかでございましたが、指に妙を得たお人です。チンとかツンとか弾きますと、指の方にうなりのやうな響があります。それが為め露の滴るやうにうまく聞えます。賎機帯の前弾などを弾きますと、皆さんがぼうっとしてほれぼれと聞いておいでになります。前弾が済むと皆さんがムウと溜息をおつきなさいました。又掛声のうまい事は無類で、どんな出来ぬ者でも、師匠の掛声に逢ふと、それにつり出されて語られた位でありました。それに語る方へ咽喉の労れぬやう息のつづくやう弾きますから、語る人が皆うまく聞えます」(『名人お静』の後記)

 おしづの芸について、『名人お静』の後記に、河竹黙阿弥が絶賛した三番叟のエピソードなども出ているが、長いので割愛した。

 最後に都派についてだが、明治三十九年六月の『趣味』という雑誌に「一中節」と題して高橋清子女史談として、都一清の芸のことが出ている。清子女史は内閣書記官長高橋健三氏の未亡人で、一中節は御船倉の師匠一清の弟子だったという。

 以下は、いずれも同書からの引用である。

「一中節で最も面白いのは賎機(帯)、手附も節附もよく出来て居ます、先ず真正(ほんとう)の一中節ですね。それから品のよいのは松の羽衣、私(女史)の一番好きは網島、例の近松の作で、道行の件(くだり)です。人によっては傾城浅間嶽がよい意気だとか何とか仰しゃいますが、吉原雀のチョボクレが第一下品、節附も大挺(たいてい)富本で、先づ彼の畑のもので、それよりか同じ浅間でも夕霞の方が品もよし、一中節としてはずっとよく出来て居ます」

「今日の一中節は声を出すと清元、又は富本になります。調子ばかり高くても弱いから致方(いたしかた)がありません。だから一中をなさる奥様方にもさう申すのです。声は十分にお出しなさい、成丈太く強くお腹からお出しなさい、今日のやうに高い 調子でもって口先で細くする必要はない、どんなに強くお語りなさっても義太夫にもならず、高くても長唄にはなりません、ちゃんと節がならないやうに附て居るのですから遠慮なさるには及びませんと」

「全躰(ぜんたい)一中節の三味線は弾くのではなく、打つとか押すとか申す方がよろしい。肩から充分に力を入れまして、其の力が撥に這入って絃を押すのですから、力のある三味線、それを知らないで長唄や清元のやうに派手に弾て居ます。こんな不心得な者が多いから今日の一中節になるので、只の一人でよろしい、上手な人が欲いものです」

 例の『一中譜史』にも、

「都の芸風今の様に派手に語ったものにあらず。一清あたりより大分派手になせり。一清の語れるも今の風にはあらず。一広以中などよりずっと崩せるものならん」

 とある。

 樋口素堂著の『一中譜史』は大正四年刊であるが、その頃既に江戸時代の一中節の芸風は大分変化していたようだ。

 私が古曲に接するようになったのは、戦後の昭和二十四、五年頃、古曲鑑賞会に行くようになってからである。

 その頃、都派の一中節について、「あれが一中節かよ」という人の声が聞こえて思わず耳をすませたことがあった。

 その言葉には侮蔑というより驚嘆の響きがあった。

 その人の話によると、新橋の(都派の)一中節は高い調子でテンポが速く、まるで今までの一中節とは違うということだった。

 同じ頃、昔の一中節について、どういうものだったか故老に尋ねたことがあったが、ちょっと考えられた後、

「今の菅野が一番昔の一中に近いのではないかな」

という返事が戻ってきた。

 菅野はその頃、四代目序遊師の甥で大正十年に家元を襲名した五代目序遊師が確かまだ御健在だったと思う。

 古い記憶を思い起こして、一応書き添えてこの稿を終わることにする。

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