第123話 『一中節の三派(四)、続、宇治紫文斎』

紫文斎について『名人忌辰録』に、「勝田の隠居」とあったが、その前身についてはあまりよくわかっていない。

当然妻もあり、子供もいたと思われるのだが、それについて書かれたものを見たことがない。

後年、妾のおしづと夫婦同様に暮していたというから、何か事情があったのかもしれないが、勝田家には本家と分家があって、本家の主人を権左衛門、分家の主人を茂左衛門といったということはわかっている。

紫文斎とおしづの子、後に二代目紫文斎となる福太郎は文政四年(1821)に生まれた。

時に紫文斎三十一歳、三つ歳下のおしづは二十八歳。
この少し前あたりから、二人はもう夫婦同然に暮していたのだろう。

おしづについて『日本音曲全集、古曲全集』の一中節の解説に、

「この人(初代宇治紫文斎)の妾がおしづといって宇治倭文を名乗り、近頃の名人といふ評判を取った。高浜虚子氏の傑作、『杏の落つる音』、林若樹氏の『おしづ籠』は此女の半生を詳かに説いた小説で、江戸末期の変遷を語る貴重な文献である」

と載っている。

高浜虚子の『杏の落つる音』は読んだが、それによると、おしづ(小説では宇治紫津となっている)は元ホリ(山谷堀)の芸者で、ホリの芸者だったことを誇りにしていた、と出ていたので、おしづはてっきり山谷堀の芸者だったと思い込んでいた。

しかし、前出の『名人お静』の後記によると、おしづは深川櫓下の芸者だったとある。

初代津藤の竜池の取り巻きには深川の遊民が多かったというから、竜池の供をして深川に出入りしている内、紫文斎とおしづの出会いがあったのかもしれない。

また、おしづは慶応三年(1867)に七十四歳で亡くなっているのに、『杏の落つる音』をよく読んでみると、小説の背景は全く明治であって、『古曲全集』の解説にあったように、おしづの半生を詳かにしているとは思えない。

要するに、この作品はどこまでも小説創作であって、考証するにはあまり参考にならないということである。

虚子の書いたものよりも『名人お静』の記事を信用するのは、著者河竹繁俊氏の義母は河竹黙阿弥の娘のお糸で、おしづの晩年唯一の弟子だったことからもはっきりしている。

深川の芸者といえば辰巳芸者である。

深川は江戸城の辰巳(東南)の方角にあることからそう呼んだ。また、深川芸者を羽織芸者ともいった。
芸者は羽織や足袋を身につけないのだが、深川の芸者だけは羽織を着ていたので、俗に羽織芸者といった。

一説には川風が冷いので羽織を着るのを許されていたのだという。

深川の岡場所というのは、鶴ケ岡八幡や永代寺の近辺ばかりでなく、越中島の方まで含むかなり広範囲の地域を指していたようであるが、櫓下というのは永代寺門前にあった火の見櫓の脇の岡場所で、その火の見櫓は今の門前仲町交差点の丑寅(東北)の方向に清澄通りに面してあったという。

石塚豊芥子の『岡場所遊郭考』の深川の所に、

「○表櫓 当時繁昌 (写本)町鑑ニ、永代寺門前山本町(里俗やぐら下、裾継と唱ふ場所有之)」

この後に、「○表櫓○裾継(すそつぎ)」という地名が出てくるが、どうやら、それらを引っくるめて「櫓下」と稱したようである。

ここに「当時繁昌」とある「当時」とは、深川の岡場所は水野越前の天保の改革の厳しい取り締まりによって衰微したといわれているので、文化文政から天保改革以前の天保十年頃までを指していると思われる。

余談になるが、辰巳芸者を詠った小唄がある。新しい唄だが、よく唄われているようなので、次に挙げて置く。作詞は伊東深水である。

「辰巳やよいとこ 素足が歩く 羽織やお江戸の誇りもの 八幡鐘が鳴るわいな」

おしづについては後述することにして、紫文斎に話を戻す。

紫文斎が独立して宇治派を起したのは嘉永二年(1849)のことである。

その年の八月十五日、湯島天神境内の松金亭で宇治派創立の宴を催し、自ら家元となり、それまでの都一閑斎を改め宇治紫文斎と稱することを披露した。その時、おしづの都一静も宇治倭文と改名した。

宇治流を名乗ったことについては、元禄以前に主として京都で活躍した浄瑠璃の太夫、宇治加賀椽を遠祖としたという説が普通にいわれているが、別説によると、一中節の古い正本『都羽二重拍子扇』の初篇巻頭におかれている曲、「辰巳の四季」の文中に、「辰巳にあたる宇治の里」とある、その宇治をとったというのである。

紫文斎の最も信頼するパートナーのおしづが辰巳の芸者であったことを思い合わせると、確かに有力な説だが、今のところ、はっきりしたことはわかっていない。

松金亭での披露の会で、「月見酒」という曲を新作し、「月の筵」として、河東、山田、宇治の三流掛け合いで演奏披露したという。

時に、紫文斎は五十九歳、倭文は五十六歳だった。
新派創立を祝って、二代目津藤の香以から、

「声すずし都はなれて宇治の水」

という句が贈られた。

二世千種庵諸持の紫文斎は初代津藤竜池の眷遇を受けた取り巻きの一人だったが、初代津藤の竜池が安政六年(1859)に死んだ後も引き続き、倅の福太郎共々、二代目津藤香以の愛顧を受け、その贔屓に与っていた。

香以が九代目團十郎を河原崎権十郎時代から贔屓にしていたことは有名だが、その権十郎の為に荒磯連という見物講を作り、その講の規約書、掟書を紫文斎に作らせた。

その荒磯連が連中見物の嚆矢であろうと『名人お静』の後書にある。

紫文斎は狂歌の庵号を香以に譲り、香以は三世千種庵と稱した。

紫文斎から又、香以は一中節の一閑斎の号も譲り受けたとみえて、香以の一中節の稽古本には「一閑斎冬甫蔵」と自書してあるという。

こうしてみると、紫文斎と二代にわたる津藤親子との関係は深く、宇治派独立に当たってもその後ろ盾が大きくものをいったと思われる。

都派、菅野派にしてみれば、後脚で砂をかけるように出て行った者に対して反感を抱くのは当たり前の話で、仲間内では容易に宇治派を認めようとはしなかったという。

そんな中、新しい流派を独立させることが出来たのは、吉原の玉屋山三郎という大物の仲介や津藤香以の後援があったからで、都派や菅野派連中はしぶしぶ承知させられたのであって、心から納得した訳ではなかったのである。

明治十年に大槻如電翁が、三派親睦提携の議を唱えて一種の和解に至るまでは、互いに容認することを回避していたという。

初代紫文斎は宇治派を旗揚げしてから九年後の安政五年二月二十三日に六十八歳で没した。

初代紫文斎、おしづ、二人の子の二代目紫文斎、この三人の菩提寺は浅草清島町の常林寺だったが、今は中野に移転している。

墓碑だけは谷中に移されている。初代紫文斎の法号は静心院圓山道永居士、おしづは宇治倭文信女である。

以上、『名人お静』の後記によった。

前章でカットした『一中譜史』のおしづに関する残りの記事は、

「菅野しづは、慶応三年十月二十五日、七十四歳にて没す。浅草清島町常林寺に葬る。菅野の女弟子四人中の一人なり(四人とは、おしづ、おきを、おくに〈すなわち序国〉、おふじなり)。

平常は琴の師匠をなせりという。紫文が名をなせし時は倭文と稱し、倭文の名は後おやすに譲り、おしづの名は弟子のおいと(川竹新七の娘)に譲れり。

○初代紫文の法名 静心院円山道永居士」

とある。墓についてはいずれ触れることになるかもしれないが、非常に複雑で不明な点が多い。初代紫文斎の法名だが、『名人お静』の後記、『一中譜史』共に間違っている。道永ではなく道栄が正しい。二代目紫文斎は法名を宇治紫文道永居士と云う。この二人の法名の下の部分が入れ違っているようだ。

二代目倭文は蔵前の医師坂ノ上氏の娘のやすで盲目だったという。

しづの名を譲られた川竹新七の娘は、河竹黙阿弥の娘お糸で、河竹繁俊氏の義母である。

年齢はすべて、数え歳とした。

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