第122話 『一中節の三派(三)、宇治紫文斎』

 初代宇治紫文斎について『名人忌辰録』には、

「浅草材木町名主勝田権左衛門隠居五代目一中の門に入り都一閉斎と号す嘉永三年(1850)三月七代目一中と不和になり別に一派を開き宇治紫文斎と改む安政五年(1858)二月廿三日没す歳六十八浅草常林寺に葬る」

 とあり、五代目一中の弟子としているが、『一中譜史』には、四世序遊の談として、

「二代目序遊の弟子なり」

 とある。以下、

「序遊没後三代目序遊芸道未熟なるより、菅野家元株を引き受けんの相談ありしも、初代序遊の女房不承知にて止む。(この婆さん四世序遊の記憶にもこわい顔の女にて、九十歳迄生き、万延年間に死す、中々の理屈やにて、かれこれと口を出せり)
 勝田氏は芸道も秀れ、ことに菅野しづという二代目序遊の弟子を妾にしていた関係上、芸の発達をも助けたるものならん」

 このあとの記事は一先ず後回しにして、ここまでの記述によると、紫文斎は二代目序遊の弟子になっている。

 かなり細かい経緯まで書いてあるので、二代目序遊の弟子だったという方が正しいのかもしれない。

 菅野しづというのは後に名人と云われた宇治倭文のことである。

 紫文斎は又、狂歌をよくし、初め青雲亭、後に二世千種庵諸持と号して、摂津国屋(つのくにや)藤次郎の初代津藤竜池の取り巻きの一人だった。(竜池の子が、幕末に金を湯水の如く使って遊蕩の限りを尽し 今紀文といわれた二代目津藤の細木香以である)

 水野越前による天保の改革は厳しいもので、歌舞伎の三芝居は危うく取り潰しを免れたが、七代目市川團十郎は奢侈の咎で江戸追放になり、為永春水は『梅暦』などの人情本作品が幕府の忌諱に触れ、手鎖五十日の刑を受け、版木は焼却された。

 春水は古くからの竜池の取り巻きの一人で、『梅暦』に登場してくる千葉の藤兵衛事、千藤は竜池の津藤で、話のわかる訳知りの金持ちの旦那として出てくる。

 竜池もすんでのことで罰を受けるところだった。

 というのは、竜池が『女郎買案内』というものを作って知友の間に配ったとることが町奉行の耳に入ったからで、それを知った加賀町の名主田中平四郎が密かに竜池に知らせてきてくれた。

 竜池は急いで諸役人に手を回し金を贈って弥縫し、自らは妾に暇を出し、別宅を売って遊所通いを止めた。

 加賀町は、津藤の本宅がある山城河岸のすぐ隣町である。

 自粛後の竜池は内山町の百島勾当の家を遊び場にして、後の紫文斎の諸持など、取り巻きを呼び寄せた、と森鴎外の『細木香以』にある。

 竜池の取り巻きは深川の遊民が多かったという。

 竜池の遊びは、狩野派から北斎の門に入った浮世絵師、岩窪北渓に席画を描かせ、諸持に狂歌の判者をさせたりしたというが、河竹繁俊の「名人お静」(『日本及日本人』大正七年春期増刊号所載)の後記によると、その時竜池は百島勾当の所で一中節を習うのを楽しみにしていた、とある。

 百島勾当は一中節は二代目菅野序遊の弟子だったという。

 百島勾当の所には諸持もよく呼ばれたようで、勿論一中節も一緒にやったと思われる。

 百島勾当は後に、諸持が宇治紫文斎となって宇治派を創派した時、行動を共にし、宇治派に加わったのは、竜池以来の長い交誼があったからに外ならない。

 竜池は一中節と狂歌が好きで、狂歌は初代弥生庵桃の本雛丸の門人で雛亀と稱し、晩年には桃の本鶴盧また源仙といった。(前出『細木香以』)

 二代目津藤の細木香以は一中節はやったが、狂歌よりも俳諧を好んだようで、数多い取り巻きの中に特に側近の俳人として、關為山と晋永機がいた。自ら香以と稱した外、好以、交以、孝以とも署名したという。

 紫文斎については津滕抜きで語ることは出来ない程、関係が深いのだが、今はとりあえず津滕のことはさて置いて、『一中譜史』の前出の記事の続きを挙げることにする。

「(菅野を離れて)一時都へ入り、一閑斎と号す。しかるに都派にてもおこも一中の跡とて、適当のあとつぎもなき時なりしが、一らく、一なみ、一はま、などの不承知のため、家元をつぎ得ず、ついに別派をたてることになれり。この際、芳原の角の玉屋、幇間の朝顔吟平、河東の東阿さんなどの奔走あり。四世序遊の父の家などへも、たびたび交渉の末成立せしものなり。時に嘉永二年(1849)八月、五代目一中死後二十七年に当る。
 別派後、菅野しづをはじめとし、菅野二松という盲人、これは菅野初代序遊の姪を妻にしておりしが、初代二代の稽古を受けたる人なりしが、宇治に入って紫京と改名す。またおしづの琴の師匠なる盲人百島という検校あり。これらの人々総がかりにて新曲を作り、または増補など行ない、数年のうちに宇治の別派も独立したのである。
 以上の人々によって作られたる宇治派の曲は、琴曲の影響を受けたるをもって、悪評家は盲人節などといえりという。
 しかし、いづれも菅野より出たる人々なるをもって、宇治と菅野とは、一脈の通ずるところあり。都はしからず。
 初代紫文は安政五年二月二十二日、六十八歳にて没す。紫文の紫という字は、吉原の玉屋山三郎の家で重んじた名であるという」

 以下、菅野しづについて書いてあるが、それについては後述する。菅野から都に転じた紫文斎について、「名人お静」の後記には次のようにあるが、長文なので、一部要約して挙げる。

「二代目序遊が亡くなったのは天保十二年一月十日で、諸持がいつ都に転じたのか、はっきりしないが、都一閑斎を名乗ったのは同じ天保十二年の十月、河東一中掛け合いの「邯鄲」を作曲した時といわれているので、二代目序遊没後、間もなくのことと思われる。

 一閑斎は、妾の名人お静、菅野二松など、実力者を引き連れて一緒に都派に転じたので、都の中でも陰然たる勢力を持つようになったと想像するに難くない。

 お静は都一静、二松は都二松と稱した。

 その頃、都派では、六代目一中が天保五年に没して以来、家元がいなかった。

 一閑斎は、その都の家元たらんとしたが、弘化四年(1847)、千中という者が家元を継ぎ、七代目一中となった。

 一閑斎は行きがかり上、新家元と確執を生じ、家元と一閑斎の弟子達の間にも軋轢が起った。(以上、要約)」

「(以下原文)そこで一閑斎は一分派を起さんものと企て、在来の都派の語り物全部にわたって増補を加へんとした。が、これに対して七代目一中より抗議を申込んだが、一閑斎等は容易に応じなかったので、終に嘉永元年(1848)の四月に一閑斎及び一閑斎の子和中、並びに一静の三人を破門する旨を申送った。此の事件の為めにだいぶ問題がやかましくなったが、この時に、その頃荻江の家元を預っていた、通人の新吉原角の玉屋の主人山三郎が中間に立って、一閑斎の為めに奔走し、分離して新流派を興させることにし、家元には黙認せしむるの態度を採ることに取計らった」

 これら二つの文書を読み較べてみると、例えば百島勾当(検校?)についてのように、様々なことがわかるが、二、三註を加えておくと、吉原角の玉屋とは江戸町一丁目通りの角にあった大店で、角玉屋とも又、暖簾に火焔玉を染めていたので、火焔玉屋ともいった。

 当時の主人の山三郎については『せんすのある話』の「荻江節」に詳しく書いておいたので省畧するが、西川流を破門された西川芳次郎の面倒をみて、自分の花柳園という号を与えて花柳を名乗らせるなど、多くの人物が彼の世話になったようである。
 因みに、前出の西川芳次郎は後の花柳寿輔である。

 玉屋では太夫がいた時代、小紫という店固有の太夫名を持っていた。太夫が姿を消してからは御職といわれた店第一の遊女に若紫などと紫という字をつけて紫の字を大事にしていたようだ。

 四世序遊の家(『一中譜史』)とあるのは初世序遊の実家、吉原の引手茶屋桐屋のことである。

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