第121話 『一中節の三派(二)、菅野序遊、半太夫』

 文政五年(1822)七月五日、五代目一中が亡くなった後、跡を継いだ六代目について『一中譜史』には、

「五代目一中の弟子にして万太千中というが、師没後襲名、天保五年(1834)三月十八日没」

 とある。

 しかし、中川愛氷の『三絃楽史』には、

「六代目一中、五代目の倅で、十一歳の時若太夫となりし人」

 とあって、五代目の子としている。

 この六代目の妻が都一浜で、名人の誉れが高く、その門下から都一清(後に一静)、都以中が出た。その一清の弟子が初代都一広である。

 一方、文政六年十二月十二日、初代菅野序遊が亡くなった後、二代目は倅の山彦文次郎の菅野利三が継いだ。

 二代目序遊は、その後都派を離れて独立するのだが、その時期について、六代目一中の時、と書いてあるもの(英十三説)もあるが、前出の『三絃楽史』では、

「合方たる七代目一中の放埒により不和を生じ、天保十年(1839)初代序遊の作曲三十六段に自作五、六を加へて、正式に菅野派として独立、同十二年五十八歳にて没」

 とあり、天保十年のこととしている。

 七代目一中は『一中譜史』に、

「五代目の弟子にして栄中と稱し、河六また半中ともいう。のち一中を相続す。素行修まらず門中共よりも見はなされ行方不明となる。俗にお薦(おこも)一中という」

 とある。七代目一中については、どの本にも、芸は秀れていたが素行が悪かった、ということで一致している。

 河六が嘉六とすると、七代目は吉原の幇間だった都嘉六ということになる。

 二代目序遊は妹つるの子の幾三郎を養子にしていたので、その幾三郎が三代目を継いだが、芸道は全く未熟だったという。

 三代目序遊は嘉永四年(1851)九月十七日に死んだ。

 四代目の序遊について、『古曲全集』(『日本音曲全集』)の菅野派の解説に、

四代目序遊は初代序遊の実家、吉原の引手茶屋桐屋の倅、藤次郎が嘉永四年、十一歳で襲名した。(逆算すると、天保十二年の生まれである。)

 これについては、初代序遊の弟子だった品川芸者のおくに事、菅野序国が大いに関わっていた。序国が奔走して桐屋を説得して承諾を取った結果だった。

 藤次郎は四代目を相続して、その時「江戸むらさき」を作曲した。(実際の作曲は安政四年(1857)とする別本あり)」(以上要約)

 以下の『一中譜史』に、幕末の半太夫節についての興味深い記述も出ているので、そのまま挙げる。

「十一歳の時の「江戸むらさき」の作は、半太夫節より取れるものにして、その頃半太夫節はほとんどすたれ、知るものなき際、浅草仲ノ町に住せる狂言作者の妻お糸なるものによって、半太夫の「助六」を習いたるなり。前弾きも三下りも、「江戸むらさき」と同様にて、ただ二上りだけ節を新作せるのみなり。而して四世序遊は大正八年九月二十三日没」

「半太夫の家元は山谷とよし原の間の田中という所に住せり。当時半太夫ものも河東風に節崩れ、純粋の半太夫を語れるものはお糸と馬喰町旅館主人とよし原土手下の駕籠屋の親方の三人位なりきと」

「かくて半太夫の面影は、今の河東の「助六」よりは一中の「江戸むらさき」に近きなり」

 田中というのは、吉原近くの元吉町(現日本堤一、二丁目辺)の俗稱で、当時半太夫の家元が住んでいたというが、三升屋二三治の『紙屑籠』に載っている半太夫の歴代は次のようになっている。

元祖半太夫
二代目半太夫
三代目半太夫
四代目半太夫
五代目は半治郎と云い、御蔵前代地に住んでいて、男女蔵、三津五
郎の助六を勤めた。
六代目は半蔵と云う。村松町力屋の千代と云う人。後に半太夫。
七代目は田町の駕籠屋で、八代目團十郎の初助六を勤める。連中無
人にして、一中節よりスケに出る。

 元祖から四代目までは何も書いていないが、『江戸吹き寄せ』の「河東節の謎」の中で半太夫の歴代に触れて書いたことを勘案すると、元祖(生没年不明)、二代目は元祖の長男で宮内といったが早世(これを二代とするかで諸説ある)、三代目は元祖の次男(『関東名墓誌』に、「寛保三年没」とある半太夫はこの人と思われる)、四代目は三代目の長男(天明七年の中村座で、この半太夫の七回忌追善興業があり、四代目となっている)

 五代目が勤めたという初代市川男女蔵、三代目坂東三津五郎の助六は、文化四年(1807)三月の中村座で芝居の外題は「猿若栄曾我」、半太夫節の名題は「助六桜の二重帯」で、助六と意休を男女蔵と意休が交替に勤めた。揚巻は五代目岩井半四郎。

 六代目に関する記述はよくわからない。初めに「半蔵と云う」とあるのに、「村松町の刀屋の千代と云う人」とあって、男だか女だか不明。

 七代目は、「田町の駕籠屋で、八代目團十郎の初助六を勤める」とある。八代目團十郎の初助六は天保十五年(1844)三月、中村座の「助六廓の桃桜」で意休は六代目幸四郎、揚巻は七代目岩井半四郎だった。

 この「田町の駕籠屋」が『一中譜史』に出ている「よし原土手下の駕籠屋の親方」と思われる。とすると、半太夫節の家元であり、「家元は山谷とよし原の間の田中に住んでいた」という記述と矛盾する。

 実は「江戸むらさき」を四代目序遊に教えたのは「田中のお糸」と云うものといわれており、そのお糸なるものは河竹黙阿弥の娘という説もあり、それについて『江戸落穂拾』の第十九章「襲名披露興業(五)」で、黙阿弥の娘のお糸ではないことを考証しておいたが、何者なのかは不明だった。
 一応、『一中譜史』の記事から、何という狂言作者かは分からないが、その女房のお糸というものと判明した。住所については『一中譜史』の著者が混同したものか、或いは「田中のお糸」という言い伝えが間違っていたのか、今のところは分からない。

 この「江戸むらさき」作曲のエピソードから、菅野派と半太夫との関係が感じられ、『一中譜史』のその後に、「連中無人にして一中節よりスケに勤める」とある文章からいって、八代目團十郎の初助六、天保十五年三月の中村座の時と思われるが、八代目團十郎は嘉永三年(14850)三月の中村座でも助六を演じており、或いはその時のことかもしれない。

 その嘉永三年の半太夫節の名題は「助六廓の花見時」で、お糸が四代目序遊に教えた助六は、その「助六廓の花見時」で、四代目序遊が「江戸むらさき」を作曲したのを安政四年とすると、八代目團十郎二度目の助六の六年後となる。(安政四年説の方が自然と思われる)

 歌詞(「江戸むらさき」)を調べてみたところ、半太夫節の「助六廓の花見時」と全く同じだった。

 菅野と半太夫との関係が何故それ程密だったかについては今のところ推測の域を出ないが、一中節からスケに出たのは都派の連中ではなく、菅野派だったことは確かなようだ。

 ついでにいっておくと、嘉永三年三月、八代目團十郎の助六の時、助六が入った天水桶の水がお銚子一本一分で飛ぶように売れ、忽ち売り切れたという。

 今年の五月、新橋演舞場で海老蔵丈が水入りの助六を演じて評判だった。

 水入りの助六は二十三年ぶりというので、手許にある「助六由縁江戸桜」の台本を調べてみた。

 といっても、歌舞伎十八番を制定した七代目團十郎の初助六、十五代目羽左衛門が大正四年歌舞伎座で彼としては二度目の助六を演じた時のものの二冊であるが、いずれも水入りになっている。

 今は別演出になっているが、昔の助六は水入りが普通だったのかもしれない。    

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