第120話 『一中節の三派(一)、五代目一中以後』

 一中節中興の祖、五代目都一中は本名を千葉嘉六と云い、寛政年間の初め頃、上方から江戸に下ってきたといわれている。

 寛政四年(1792)の『吉原細見』の「男芸者の部」に、都太夫一仲(一中ではない)の名が初出する。

 しかし、同じ細見のあとの方に都嘉六の名がある。
 これは一体、どういうことなのだろう。

 その後の『吉原細見』にも、この両名の名が出ていることから、二人が別人であることがわかる。

 竹内道敬先生は『五代目一中について』(雑誌『古曲』第二十六号)の中で、都嘉六は後に栄中から七代目一中となった人物で、五代目とその七代目を混同しているのではないか、といっている。

 都一中ではなく都一仲としたことにも意味があるとして、前年の寛政三年まで吾妻路宮古太夫と名乗っていた人物が寛政四年に都一仲と改名したのでは、と考証しているが、五代目一中については、まだ不明のことが多いようだ。

 五代目一中は大変な美音家だったというが、三味線が出来ず、園という妹に三味線を弾いて貰っていたという。

 寛政四年の中村座の「傾城浅間獄」に初代鳥羽や里長の三味線で出演したが、客の入りが悪く、評判もあまりよくなかった。

 五代目一中がいつ頃、河東節の三味線弾き、三代目山彦新次郎と接触したのか、はっきりした時期は不明だが、文二郎から三代目山彦新次郎を襲名したのは文化二年(1805)で、彼が作曲した一中節の作品の開曲年代も文化年中とされるものが多いことから、山彦新次郎襲名後ではないかと思われる。

 三代目山彦新次郎については『江戸落穂拾』の第二十八章「山田検校」(二)に書いておいたが、ざっと畧歴をなぞると、新次郎は吉原の引手茶屋、三代目桐谷五兵衛の長男として生まれたが、生来の芸好きで義太夫は二百番余りも覚え、長唄、常磐津、謡曲、箏曲等、なんでもござれで、特に琴は山田検校について奥許しをとる腕前で、山田流の琴爪を丸くするよう進言したのは、この新次郎だったという。

 好きな芸事に専念するため、稼業を妹婿に譲って河東節の三味線弾きになったといわれている。

 云い伝えによると、五代目一中は新次郎に、どうしたら一中節を世間に流行らせることが出来るかを相談したという。

 新次郎は五代目一中が語る「夕霞浅間獄」を聴いて、結構なものだが節が難し過ぎて素人向きではない、もう少し柔らげてはどうか、と一中のために作曲したのが、「吉原八景」(「花紅葉錦廓」はなもみじにしきのいろざと)である。

 五代目一中は新次郎を見込んで自分の相三味線になってくれと懇願する。

 新次郎もその熱意に負けて承諾する。

『一中譜史』(樋口素童著)によると、その逆で、新次郎が五代目一中に惚れ込んで相三味線になったとしている。

 一中節の三味線弾きが山彦新次郎では可笑しいと、初代一中の須賀千朴と初代の門人で名人といわれた都序遊の双方の名をとって菅野序遊と名乗った。

 初代の菅野序遊である。

 一時衰微した一中節を復興させ、今日まで綿々と続く基礎を築いたのは、五代目都一中と初代菅野序遊、この両名のお蔭で、今日の一中節の稽古本の表紙に、上部に都の定紋「藤に沢潟鶴」を付け、下部に菅野の「花桐」の紋を比翼に付けたのは、長く初代序遊の功績を伝えるためといわれている。

 山彦新次郎の初代序遊は作曲の才にも長けていて、一中節として四十数曲を作曲しているが、その中には今でも名曲として評判の高い曲が何曲もある。

 その初代序遊の息子は山彦文次郎といって、やはり河東節の三味線弾きだったが、文次郎も父親同様、一中節の三味線弾きになり、菅野利三と稱した。

 五代目一中は文政五年(1822)に亡くなり、新次郎の初代序遊もその翌年の文政六年に死んだ。

 父、初代序遊の没後、文次郎がその名跡を継ぎ、二代目序遊となった。

 二代目序遊は俳諧の方は万来庵雪庵の弟子で千来庵と稱し、彖刻を好み貴重な印材などを収集していたといわれ、また、思声と号し頗る能書家であって、その後の一中節の稽古本の板下の字はこの二代目序遊が書いたものという。

 前に挙げた『一中譜史』に、

「序遊(初代)自家の者に告げて曰く、河東節はもはや発展の余地なし。予の家をつぐもの必ず一中節たるべしと。当時も倅も河東の方にて文次郎といい、名をなしておりたるに、河東を捨てしめた」

 とあり、三代目新次郎の初代序遊も、その息子の文次郎も、河東節を捨てたように書いてあるが、これは間違いで、二人共全く河東節をやめたわけではなく、河東、一中共、併行してやっていたようだ。

 初代序遊は山彦新次郎として河東節家元の補佐になっており、そう簡単に一中節に転向出来たと思えない。

 現に、文化十二年(1815)には酒井抱一作詞の「七草」、文政四年(1821)には「秋のぬるで」を河東節として作曲している。

 また、倅の文次郎も同様で、文政七年(1824)に酒井抱一作詞の河東節「江戸鴬」を作曲している。

 これらのことから、二人共全く河東節をやめたわけではなく、どうやら、河東節の時は山彦新次郎で、一中節の時は菅野序遊と、また、河東節の時は山彦文次郎で、一中節の時は菅野利三、後には二代目菅野序遊といった風に二人共、夫々河東と一中の二足の草鞋をうまく使い分けていたようだ。

 一中節の名曲、「安宅勧進帳」は初代と二代目の菅野序遊親子の合作である。

 長唄の有名な「勧進帳」は、池の端の六翁と呼ばれた四代目杵屋六三郎の作曲だが、節付けするに当たって、一中節の「安宅勧進帳」をお手本にしたという話はよく知られている。

 初代序遊が、ある時、吉原の湯屋に行くと、湯の中で元山伏の豆腐屋の売子が、いい気持ちで唄を唸っていた。

 その独特な節回しが序遊の興味を大いに唆った。

 それを研究して、「安宅勧進帳」の名乗りや読み上げの節を作曲したといわれている。

 また、火事に会って駒形の住まいを焼け出され、箔屋町の秤座に仮寓していた時のことである。

 箔屋町とは今の日本橋三丁目辺の一部で、そこに守随彦次郎の秤座があった。

 寓居で序遊が「天の網鳥」の作曲をしているのを見た人があきれて、

「こんな時に、作曲でもないでしょう」

 というと、

「財宝など、物はすべて火事で焼けてしまうが、芸だけはその心配はない」

 と答えたという。

 初代序遊の芸熱心なエピソードは多い。

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