第11話 『扇之記』

『扇之記』の記述

江戸の扇屋が、扇面に「御影堂」と書いてある扇子のマークをつけた看板を出していたことは前号に書いた。扇屋が扇子のマークを看板にしてちっとも不思議はないが、何故「御影堂」などと書いてあったのか、その由来について、西村蒼龍の『扇之記』に次のようにある。


「六条坊門は今の五条通と申京極の西に新善光寺といふ時宗の庵院一構あり此中にて製する扇を御影堂の扇とてもてはやさるる此寺水流といふ所に有りしや再興の大檀越を王阿上人といふ扨太夫敦盛の奥方後に北山大原より此処へ引き給ひしに其辺に貴殿といふ扇打有りけりこれにたよらせ給ひて扇をなぐさめに折給ふ殊に裕寛阿闍梨につかせ給ひ剃髪有りて生房如佛ととなふ此頃世上ゑきれいのうれへありみづからあこめ扇をつくりて裕寛阿闍梨加持せしめて贈られしかばその病癒たりとぞ故に寺に伝て扇を製することとなり貴嶺扇とて今世に人多く扱ふはその故也」


ゑきれいとは、はやり病のことだ。

『守貞漫稿』には、

「御影堂は洛の(欠字)に在り本堂法然の像を祭り唱て御影堂と云時宗にて坊中妻帯し主人は圓頂にて又扇工を兼ね専ら賣之京師名物の一品とす江戸其名を傅稱するのみ」

とある。欠字があるので、この記述ではよくわからないが、『扇之記』と同じことをいっていると思われる。時宗は一遍上人を開祖とする佛教の一派で、圓頂というのは坊主頭のことである。

西村蒼龍と伊藤東所

話を『扇之記』に戻すが、引用文中にあるあこめ扇とは正装した婦人が持つ扇で、男子は正装時には桧扇(ひおうぎ)を持つ。

桧扇は桧の薄板を綴じ穴の所で白絹糸で綴じて作った扇で、あこめ扇は桧扇より丈が長く、種々の色の糸で綴じ穴を綴じて、あわび結び(三輪の輪違いのような結び方)にして端を長く垂らした扇である。

さて、『扇之記』だが、刊行は寛政五年(1793)で、著者は西村蒼龍近江大掾義忠である。

同書を読むと、蒼龍は扇作りを業とした人だったらしいが、くわしいことは知らない。大掾という掾号を持っていたことからみて、その道では相当な人だったと思われる。

跋は伊藤善韶(ぜんしょう)が漢文で書いている。伊藤善韶とは伊藤東所のことで、東所の父は伊藤東涯、祖父は伊藤仁齋という大儒学者の家柄で、東所も又、著名な儒学者である。

この書の本文の終わりに、

「今六十あまり五年の春秋をむかへおくりて」

とあって寛政四年子正月の日付がある。刊行は翌年であるが、多分本文の脱稿の日付なのだろう。この時、六十五才(数え年)とすると蒼龍は享保十三年生まれになる。伊藤東所は享保十五年生まれだから、蒼龍より二つ年下ということになる。東所の跋に、

「與蒼龍翁相識久矣」

とある。二人の付き合いがどんなものだったかは知らないが、長年の知り合いだったことは確かなようだ。

摺畳扇はいつ頃出来たか

『扇之記』は別名『搨扇志』(とうせんし)といい、摺畳扇の歴史や故事来歴などを綴った本である。搨は摺と同じ意味だ。

「本朝西土ともいにしへの扇は今の團なり」

と『扇之記』にもある通り、昔の扇は折り畳みの出来ない團扇、つまり、今の、「うちわ」だった。摺畳扇というのは、折り畳める扇のことで、摺畳扇の発明は日本人ということになっている。大抵の本にはそう書いてある。

摺畳扇がいつ頃出来たのか、はっきりしていないが、中国へ渡ったのは明の永楽帝の頃だという。

『嬉遊笑覧』の中の諸書からの引用文に、

「摺畳扇貢于東夷、永楽間盛行」(『物理小識』)
「元時高麗始以充貢、明永楽間稍効為之」(『天禄識餘』)

などとあり、これによると、前者の東夷とは高麗で、摺畳扇は日本から直接中国に渡った訳でなく高麗を通して渡ったとも考えられる。

しかし、明の永楽帝の在位といえば十五世紀の初頭で、日本では室町時代、足利義満の頃だ。摺畳扇の起源は不明だが、少くとも『源氏物語』の時代には既にあった。『源氏物語』が書かれたのは十一世紀の初めで、それからでも足利義満の時代まで約四百年の隔たりがある。それ程長い間、日本と中国は全く交流がなかったのか、疑問が残る。

『扇之記』には、中国にも摺畳扇があったという説を挙げている。

「摺畳扇の始めたしかならず通鑑齋記に諸淵朝に入腰扇をもて日を障(へだて)ぬ是今の摺畳扇なりこしの間に佩(おび)るゆへに腰扇と云と見えさふらへば六朝の製ならんかし是今の摺扇なり」

『通鑑齋記』という本は知らないが、六朝というのは、建業(今の南京)に都があった、呉、東晉、宋、齊、梁、陳の六朝廷をいう。(220~589)

「もろこし永楽の始め本朝より扇を渡し給ふとありされば異国に摺畳扇の製中ごろ絶えしやとも見えけり故に賞して扇子に子の字をいふやせんすと唱ふと」

つまり、中国にも六朝のころには摺畳扇はあったのだが、その後何らかの理由で絶えた、というのである。

『嬉遊笑覧』の中の『物理小識』の引用文の最後に、「すう(手偏に芻の字。摺と同義か)扇則唐人已有矣」とあるが、それについて、喜多村信節は「便利なるもの古へありて後絶たるもあやし」といっている。

つまり、中国には永楽の頃伝来するまで摺畳扇はなかった、というのだ。

『扇之記』にいう『通鑑齋記』の記述に出てくる腰扇も、必ずしも摺畳扇ではないという説もあるだろう。

しかし、跋を書いているのが伊藤東所だけに、蒼龍の説を簡単に素人の僻言と否定する訳にはいかないような気がする。

東所は蒼龍と長い付き合いがあり、年も二つ違いの同年代で、ただ頼まれたから御義理に跋を書いたとは考えにくい。つまり、東所は蒼龍の原稿に目を通した筈だし、可笑しな所があったら指摘しただろう。ということは、『通鑑齋記』にある腰扇が摺畳扇であると、東所もそう解釈していたと考えるのだが、筆者の考え過ごしだろうか。

コメントを残す