第119話 『歌舞伎座回顧(四)、河東節の今後』

 昭和四十二年は河東節が半太夫節から分かれて独立して以来、二百五十年になるという事で、様々なイベントがあった。

 元祖河東が独立して河東節を創派したのは享保二年(1717)とも又、享保三年ともいう。

 調べてみると、享保四年説まで出てきてはっきりしないのだが、その詳細については『江戸吹き寄せ』の第二十八章から第三十二章までの「河東節の謎」に書いておいたので、ここでは触れない。

 故田中青滋先生は、享保二年から昭和四十二年(1967)はちょうど二百五十年であり、享保三年からすると、二百五十年目に当たるので、マアいいでしょう、といわれていた。

 そういえば、昭和三十五年(1960)に「助六由縁江戸桜」二百年と銘打って有名人を糾合して「助六」の大合唱を催したのも、「助六由縁江戸桜」(昔は「由縁」を「所縁」と書いた)の初演は宝暦十一年(1761)の春、市村座で市村亀蔵、後の九代目市村羽左衛門が助六を演じた「江戸紫根元曽我」で、その時の河東節の名題が「助六由縁江戸桜」で、昭和三十五年はその二百年後ではなく二百年目だった。

 そんな訳で、昭和四十二年には竹内道敬先生の『河東節二百五十年』という本の出版の外、歌舞伎座、三越劇場で記念演奏会も催された。

 三越劇場の会は一般向けに解放されて無料だった。(三越では河東節関係資料の展示もあった)

 私の記憶では、珍しく作曲家の團伊玖麿氏の講演などもあり、演奏の曲目に「廓八景」があったことを覚えている。

 その日、諸準備のため開店前の三越に行かれた田中青滋先生の話。(先生は十寸見会の理事で、実務上の代表の役割をつとめておられた)

 ――三越百貨店の従業員通用口で、「河東節の者です」といって通ろうとしたら、その時、偶々三越で四国の物産展をやっていて、「ああ、土佐ぶしの方ですか」と、河東節(かとうぶし)を鰹ぶし(かつおぶし)と間違えられたという――

「たくまざるユーモワですね」

 と先生は笑って話された。

 その話で思い出したが、歌舞伎十八番の助六の上演が決まると、助六を演ずる役者と出演の河東節連中とで「顔つなぎ」という会をやるのが恒例で、今回の「歌舞伎座さよなら公演」でもそれに先立ってホテル・オークラであった。

 四月の歌舞伎座の助六(團十郎丈)に引き続いて、五月の新橋演舞場で海老蔵君が助六を二十三年ぶりに水入りで演ずることが決まっていたので、本来ならば二回やる「顔つなぎ」をオークラでの一回で済ませてしまった。

 助六の水入りは、嘉永三年(1850)三月の中村座で、後に大坂で自殺した八代目團十郎が演じた時、その天水桶の水がお銚子一本一分で飛ぶように売れ、忽ち売り切れたという。

 一分を現在の金額に換算するのは難しいが、少なくとも二、三万にはなるだろう。

 オークラの会場で海老蔵君が一人で私にいる方へ歩いてくるのが見えたので、呼びとめてその八代目團十郎の話をしたら、「知ってます」といった。

 そこで、私が、

「あなたも水入りの水を売ったらどうですか。海老入り、鰹ぶし(河東節)入りって売り出せば、結構売れるんじゃないですか」

 というと、彼は「ワハッ!」と豪快に笑って去って行った。

 さて、話を昔に戻すが、昭和四十年代頃までは河東節をやる人は大抵長唄とか清元とか、何か他の邦楽をさんざんやってきた人達だった。

 つまり邦楽の素養があったということである。しかし、今の河東連中の中には小唄しかやったことがないとか、全くの邦楽の初心者さえいる。

 河東節連中には本名取りと助六名取りがある。本名取りというのは河東節を習って名取りとなった者で、助六名取りというのは劇場に出演のため「助六由縁江戸桜」一曲だけ覚えた者で、その時の公演だけに出演を許されるが、別の公演の時には又、改めて名前を貰い直さなければならないのである。

 昔は本名取りが中心で、助六名取りは補助的な存在だったが、今は助六名取りが大多数で、本名取りはその半分、全体の三分の一ぐらいではないかと思う。

 四月の歌舞伎座のさよなら公演の河東節連中は二百名を超え、今までの最多人数となった。

 最近の名取り名簿が手許にないので正確な本名取りと助六名取りの人数は分からないが、歌舞伎座のさよなら公演ということで出演希望者が増え、総人数が膨らんだものと思われる。

 新規参加の人達は当然助六名取りだから、いつもの河東連の中で助六名取りの占める割合が高くなる。

 しかし、急稽古で「助六」一曲を覚えた、それらの人達の中で、何人、一人で唄え、いわれて、唄える人がいるだろうか。

 そうした助六名取りが大多数の十寸見連が、歌舞伎の河東節連中なのだ。

「助六」一曲しか知らない出演者でも確保出来れば、芝居の助六の上演に支障はない。

 これから何十年か先、河東節をやる者が誰もいなくなっても、「助六」一曲しか知らない河東節連中がいる限り、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」は上演可能なのだ。

 平成七年に亡くなられた田中青滋先生は、現團十郎丈の襲名の頃だったと思うが、

「十寸見会を今のようにした功罪の責任はすべて私にあります」

 と洩らされたことがあった。

 功の方は歌舞伎十八番の助六に不可欠の河東節連中を確保出来たことで、その初めは前出の昭和三十五年十一月の新橋演舞場での古曲鑑賞会の時である。

 先生は当時の邦楽愛好家の著名人に声をかけ、河東節「助六由縁江戸桜」の大合唱を企画して、唄五十六人(男性)、三味線三十三人(女性)が昼夜二部にわたって出演した。

 出演者に、山田抄太郎、伊東深水、舟橋聖一、三宅藤九郎、池田弥三郎、遠藤為春、安藤鶴夫、岸井良衛などの諸氏の名がみえる。

 この三十五年の「助六」の大合唱は、どうも、この二年後の当時「海老様」と呼ばれていた海老蔵丈の十一代目團十郎襲名を見据えた布石だったのではないかと思われるのだが、この時から、助六名取りの数が急激に増加することになるのである。

 当時の古曲鑑賞会のプログラムの終わりには古曲会各流派の名簿が載っているので、私蔵の昭和三十四年(大合唱の一年前)と昭和三十八年(團十郎襲名直後)の十寸見会の名簿から本名取りと助六名取りの数を拾うと、

 一、三十四年 本名取り  七十一名
        助六名取り 八十五名

 二、三十八年 本名取り  五十七名
        助六名取り 百八十八名

 助六名取りが倍以上になっている。

 一般に広く河東節の門扉を開いたのは田中先生の功といえるが、そのマイナス面も無視出来なくなってきてる。

 助六名取りの増加はそれ自体悪いことではない。「助六」を習って河東節に興味を持ち、別な河東節の曲も覚えて本名取りになってくれればいいのだが、それはホンの一握りの人達で、大多数は芝居に出たいだけの助六名取りなのである。

 また、これも時代の流れなのか、邦楽のマナーも知らない初心者がどんどん後から入ってきて、昔からある河東節独特の風格というか雰囲気のようなものも次第に失われて行くようだ。

 それは曲も同様で、昭和三十五年に伝承されていた四十五曲の内、今では聴かれなくなった曲もある。
 これらは今まで河東節の強力な基盤だった花柳界にかげりが出て来て、戦前、新橋、赤坂、下谷、芳町など各花柳界に夫々あった河東連も今はなくなり、あまり頼れる存在でなくなって来ていることも無関係といえないようだ。

 こんな状態が続けば、何年か後には河東節は「助六」一曲になってしまうかもしれない。

 それでいいのか。そろそろ考える時期ではないかと思うのだが――

 一応、河東節の将来に警鐘を鳴らして筆を擱くことにする。

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