第118話 『歌舞伎座回顧(三)、楽屋話』

 昭和三十九年当時の楽屋を偲んでみるのも一興と思い、河東連中の裏話などもまじえて、思いつくままに書くことにする。

 昭和通りに面した楽屋口から中に入ると、まず右側に役者の出勤退出を示す着到盤が置いてある作者部屋がある。

 正面の廊下をまっすぐに行くと、突き当たりが團十郎丈の部屋で、そこで廊下は左右に分かれるのだが、まず廊下の右側から説明すると、作者部屋に続いて河東節連中の部屋があった。

 今程、一回の出演者の数が多くなかったので、そこで声出しもやった。

 廊下の右側はその二部屋だけだった。

 左側は三部屋あって、作者部屋の前は先代左團次丈の部屋、続いて長唄連中、その向こうが衣裳部屋になっていた。

 高島屋はジャイアンツ・ファンだったらしく、巨人軍の元監督川上哲治氏から贈られた暖簾が部屋の入口に掛かっていた。よく紺の背広の普段着のまま河東節の楽屋を覗いて知った顔を見かけると雑談をして行った。

 その左團次丈の何となく覚えている話。

 ――銀座資生堂前の信号が赤なのに、考えごとをしていてうっかり渡りかけたら、角の交番の巡査に、

 「おじいさん、おじいさん。まだ信号赤だよ」

 と注意されたが、自分はいつも「にいさん」といわれてはいたが、「じいさん」と呼ばれたことはなかったので、自分が注意されているとは気がつかず、「危ない」とひどく怒られた――

 さて、廊下は成田屋の部屋に突き当たって左右に分かれるが、右に行くと、その部屋の外側に沿って、すぐ又左折、そのまま行くと舞台下手に出る。その途中左側に下へ降りる階段があり、奈落に出られる。

 スッポンや花道から登場したり、或いは引っ込む役者が利用する所である。

 T字路になっている廊下を左に行くと、すぐ又、右折する。左側にトイレ・風呂場があった。

 昭和三十九年当時、歌舞伎座の楽屋には女性用トイレはなかった。

 考えてみれば、歌舞伎は元々男の世界だったわけだから、当たり前といえば当たり前の話だったのかもしれない。

 今では大道具のスタッフにも女性の姿を見かけるが、昭和三十九年頃は戦後の花柳界の全盛期でもあり、芸者衆の河東節出演者も多かったこともあって、トイレが共通だったことが記憶に残っている。

 トイレから先には行ったことがなかったので、その当時のそれから先のことは知らない。

 現團十郎丈の時代になって、先代勘三郎丈と歌右衛門丈の部屋を河東節連中の楽屋として使わせて頂いたことがあって、その時初めてその廊下の先に行った。

 その時にはもう女性用のトイレも完備していた。

 昭和三十九年十月の河東節連中のことに話を戻すが、男性の出番の時には稀音家三郎助師がいつも出演されて、唄を引っ張る中心的な役目をつとめられていた。

 当日出演の河東節連中は本番前に声出しをするが、その時刻になると、必ず篠原治師が付添いのご婦人二人を連れて現れて、最終チェックをされた。

 篠原治師は当時の古曲会の理事長で、一中節の人間国宝、二代目都一広であり又、何よりも新橋花柳界の代表者として、我々には篠原治師というよりも菊村のおかみさんとして知られた方である。

 大正十二年の関東大震災後、新橋花柳界が新橋演舞場を自分達の力で建てたことは有名であるが、それは一にも二にも菊村さんの力あってのことといわれている。

 菊村さんはその頃、既にかなりの高齢でいらしたが、ちゃんと坐って一段聴き終わった後で、

 「そんなことじゃ、團十郎は踊れませんよ」

 「もっと大きな声を出して」

 とか、鋭い声でダメを出した。褒め言葉は勿論、「結構です」というようなOKが素直に出たことは一度もなかった。

 菊村さんが帰った後で、誰かが、

 「全く、うるさい婆さんだ」

 といったのが聞こえて、一同思わず失笑したことがあった。

 「もっと大きな声で」とはいつもいわれていたような気がする。

 十寸見会の裏方をとり仕切っておられた遠藤妻吉氏は、ご自分は河東連として出演されることはなかったが、氏の実弟で赤坂山の茶屋のご主人、遠藤政治郎氏は十寸見会のベテランで、河東節連中の有力な一員だった。

 日本で初めてのオリンピックということもあり、遠藤妻吉氏はそのオリンピックの観戦に行くため、どうしても歌舞伎座に来られないので、その留守中、遠藤氏の代行を私にやってくれ、と頼まれたことがあった。

 オリンピックのどんな種目を見に行かれたのかは、聞いたが失念した。

 遠藤氏の仕事というのは、毎日決まっていることが支障なく行なわれているかをチェックすることが主で、何か特別なことがない限り自分が動いて処理することもないのだが、その日はとても緊張したのを覚えている。

 その時の助六の前の出し物は先代勘三郎の鏡獅子だった。

 その時分の歌舞伎座はまだ鷹揚で、声出しの後、出番まで時間があると奈落を通って表へ行き、二階後ろの空席などに坐って舞台を観ていても咎められることもあまりなかった。

 空席がないので立って見ていると、自分の席が見当たらない客とみえたのか、案内嬢から「切符を見せて下さい」といわれたので、「河東節の者です」というと、親切に補助椅子を持って来てくれたこともあった。

 声出しの後、河東節連中は出番まで自由で、茶を呑む者、腹ごしらえをする者、様々だが、私はよく表に回って勘三郎丈の鏡獅子を観た。

 胡蝶は、勘九郎と梅枝だった。

 勘九郎(現勘三郎)はまだ小学生だった。

 その月の歌舞伎座の新聞評は、勘九郎の踊りは天才的とベタ褒めだった。

 翌、十一月の歌舞伎座の番組は、助六を除いて昼夜入れ替えとなり、鏡獅子は昼の部の公演となった。

 小学生だった勘九郎と梅枝は学校があるので出られなくなり、胡蝶役は若い役者に代わった。

 その十一月の新聞評に曰く、

 「蝶が蛾に変わった」

 そのオリンピックの年の歌舞伎座公演を機に私は河東節の稽古にも身を入れるようになった。

 日本経済が最も元気な時代で、花柳界も戦後の最盛期を誇っていた。

 古曲会も盛んで、勉強会が毎月、銀座のガスホールで催されていた。

 いつもは女性の会だったが、十二月だけは致風会といって男性の勉強会だった。

 その会で、伊東深水、遠藤為春、田中青滋など諸先生の河東節を聴くことが出来た。

 オリンピックの翌年、海老様といわれた十一代目團十郎が急逝した。

 昭和四十二年、河東節創派二百五十年を記念して、数々のイベントが行なわれた。

 そんな昭和三十九年から四十四年までが、私が一番活躍した期間だった。

 致風会の常連で河東節、荻江節の両方で出ていたし、東横ホールの名韻会というのにも河東節で出演したこともあった。

 前にも書いたように、昭和四十四年五月に私は大会社に転職し、仙台に転勤になったりして、その後十一、二年の間、古曲とは無縁の生活を送ることになったのである。

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