第117話 『歌舞伎座回顧(二)、河東節連中』

 昭和三十九年十月の歌舞伎座の「助六由縁江戸桜」は、先代(十一代目)團十郎の最後の助六だったが、この私にとっては最初の助六だった。

 当時の河東節十寸見会のこと、歌舞伎座の楽屋内のことなど、思い出しながら書いて行くことにする。

 その頃、十寸見会の理事長は篠原治(菊村)さんだったが、実際には田中青滋先生が代行して十寸見会の代表的役割をつとめておられた。

 会内部の運営面は遠藤妻吉氏がすべてに采配をふておられ、河東節の技芸の方は、唄は三世山彦紫存師、三味線は六世山彦河良師が夫々指導に当たられていた。

 稽古場は今と同様、叶屋さんの二階だった。

 劇場では晦日まで興業を打つことは殆どなく、大体その少し前に楽日があって、それから翌月々初の初日までの間を、場内の改装等の整備や翌月の出し物の稽古などの準備に当てるのだが、特にそれらに支障がない時はお浚い会に貸し出したりする。

 新狂言の準備として、まず「ツケタテ」、「総稽古」、「舞台稽古」、それから「初日」ということになる。

 先代團十郎の助六の時に、それを一通りすべて経験させてもらったことは、何よりも忘れ難い思い出となっている。
 「総稽古」と「舞台稽古」については、その後も何度か、やらして貰ったことがあるが、「ツケタテ」はその時一度経験しただけである。

 私を引っぱり廻してくれたのは、十寸見会の理事でベテランの飯田賢太郎氏で、名前が私と同じ賢太郎ということもあって親近感をもって下さったのか、十寸見会や邦楽界の様々な仕来たりや作法などについて何も知らない私に一から教えてくれたのも飯田さんで、今でも深く感謝している。

 さて、その「ツケタテ」だが、助六の幕が開いて口上があり、

「河東節御連中様、どうぞ、お始め下さりましょう」

 で、前弾きが始まり、舞台上手と花道から火の用心の金棒引きが出てくるのだが、その切っ掛けや唄との兼ね合い。金棒を激しく突くのは唄のどこで、といったような打ち合わせで、河東節は二挺三枚、金棒引きの場面だけで終わった。

 何しろ助六は古い芝居なので残っている江戸時代の脚本を見ると、一日がかりで芝居見物を楽しんだ時代と今では時代が違うので、大筋とあまり関係のない部分はカット、アレンジを重ねて、その時代、時代に合わせて芝居のテンポを早めて来たように思われる。

 十五代目羽左衛門が大正四年四月の歌舞伎座で演じた助六の脚本(『助六由縁江戸桜の型』遠藤為春・木村錦花合著)があるが、これと現行の助六を較べてみると、更にカット、アレンジされている。

 特に冒頭の河東節が始まる場面だが、もしかして、これまで十五代目羽左衛門の脚本に依っていたものを、その時、今のように直したのかもしれない。

 それに関連した「ツケタテ」ではなかったか、と思っている。

 「総稽古」は、舞台で演じられる芝居を一通り通して行うもので、「舞台稽古」と違うのは、舞台を使わないことと舞台衣装を付けないことである。

 「総稽古」の場所は歌舞伎座の場合、正面玄関を入って廊下を左に行った、劇場が公演中、売店が並んでいる一帯で、舞台に向かって左側、花道前の桟敷席の後ろ側になる。

 舞台衣装は着ないので、役者衆は普段着の着物姿である。

 唄方、三味線方も殆ど着物姿だが、私服ということなので、洋服でも別に構わないようだ。

 その「総稽古」の時、私が河東節の師匠である渡辺やな師と一緒にいるところに、いかにも役者らしいオーラを放っている姿のいい男性が、

「やなちゃん、しばらく」

 と、にこにこしながら近付いてきていった。

 先代の片岡仁左衛門だった。

 松島屋はその時、白酒売役だった。

 河東節連中は「ツケタテ」と同様、二挺三枚位だったと記憶している。

 三味線は河良先生ではなく、山彦貞子師だった。

 さて、「舞台稽古」だが、河東節連中は今の半数位で、唄方は十名足らずだったように覚えている。

 その証據といっては何だが、楽屋が後述のように狭かった。

 その「舞台稽古」での思い出になるが、まず芝居の上演中の河東節連中の舞台裏を時間順に説明して行くと、幕開け、口上の後、河東節の「鐘は上野か浅草にその名を伝う花川戸」で金棒引きが引っ込み、並び傾城の出になる。

 御簾内が暗くなって、河東節連中は演奏を中断し、揚巻が花道から正面舞台まで出てきて床几に掛け、助六の母親からの使いの出のところまで、御簾内から見台を前にして坐ったまま眺めている。

 鐘の鳴るのが合図で御簾内が又、明かるくなって「遠近人(おちこちびと)の呼子鳥」と河東節が始まり、白玉と意休が花道から登場する。

 河東節の方は「よしやかわせし」と唄ったあと、再び中断して一旦御簾内を出る。

 舞台上での意休と揚巻のやりとりの間、河東節連中は舞台裏で白湯で喉を潤したりして一息入れている。

 意休から、失せろ、と言われて花道に掛かる揚巻を白玉が呼び止めるあたりで、河東節連中は再び御簾内に入って、スタンバイする。

 揚巻と白玉が舞台上手から去ると、尺八の音が響いてくる。並び傾城の一人が、「あれ、虚無僧が来やんした」というと、別の一人が、

「ありゃ虚無僧じゃござんせぬ、地回りの衆じゃわいな」

 一同、「どれ、どれ、どれ」

 といったところで、鐘の音が切っ掛けで河東節になり、助六の出になるのである。

 花道の助六の踊りは、人気役者が様々にいい恰好をしてみせる古い芝居の形が今に残っている出端(では)というもので、その出端が終わって助六が本舞台に出てきたところで河東節の出番は終了。

 以上が舞台裏の河東節連中の一部始終である。

 話を昭和三十九年十月の「助六由縁江戸桜」の舞台稽古に戻すが、一度御簾内から出て再び御簾内に戻ってからの唄い出しで、私はつい舞台に見惚れてしまい、唄い出さなかったので、隣に坐っていた千匹屋の齋藤社長に注意された。

 私にとっては初めての助六だったこともあると思うが、今は御簾内にカーテンが掛かっていて、河東節が始まる寸前に開くので、舞台に気をとられて唄い出しをうっかりする心配はなくなったようだ。昔はそんなカーテンなど、なかったような気もする。

 それから、前にも書いたが、男性の出演者は現在と違って、紋付羽織袴着用だった。

 そのオリンピックの助六の時には、お揃いの江戸紫の羽織の紐を誂えたものだ。

 羽織をいつから着ないようになったのかはしらない。

 私は昭和四十四年に転職して、暫くの間、河東節とは無縁の生活を送った。

 再び河東節をやるようになったのは昭和五十年代の後半で、その間に河東節連中はいつの間にか羽織を着なくなってしまったようだ。

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