第116話 『歌舞伎座回顧(一)、戦前の思い出』

 私が初めて歌舞伎座に行った時のことは、残念ながら全く覚えていないが、それが戦前のまだ、私が小学校に上がる前で、連れて行ってくれたのが祖父母のどちらかであったことは確かである。(多分、祖父だと思う)

 私と私のすぐ下の弟は年子で、私が初孫ということもあったのかもしれないが、小学校に入るまでの幼児期の大半を私は向島にあった祖父母の家で過ごした。

 歌舞伎座にはよく連れて行って貰ったようだ。

 それは紙芝居の懸賞の記憶から分かる。

 向島の祖父母の家の近くにやって来る紙芝居屋は一通り出し物をやって見せた後に懸賞を出した。

 懸賞は小学校の低学年向けと高学年向けの二種類あって、低学年にはお伽噺の一場面、高学年には一般によく知られている歴史的な事件などを描いた絵で、それを子供達に見せて、絵に描かれた人物や事件を当てさせるのである。

 正解を云い当てた子は只で飴が貰える。

 私はまだ小学校にも行っていないのに、よく上級生の問題までも当てて賞品の飴を貰った。

 一緒に観ていた小学校高学年の女の子が隣の子に、

「あの子、ちっちゃいくせに、よく上級生の問題当てるのよ」

 と話しているのが聞こえて、ちょっと羞ずかしかった記憶がある。

 私が当てたのは、天一坊とか、佐倉宗吾など、芝居から得た知識で、そんなことから、よく歌舞伎を観に連れて行って貰っていたことがわかる。

 私が小学校に入学したのは昭和十二年四月だったから、これら紙芝居屋の懸賞のことは昭和十年前後のことと思われる。

 祖父母にはいろいろな所に連れて行って貰ったようだが、祖母とは不思議と温泉にいった記憶しか思い浮かばない。

 一方、祖父には様々な所に連れて行って貰った思い出がある。

 歌舞伎以外に必ず一緒に行くのは相撲で、相撲は毎場所一回は両国国技館に出かけて行った。

 どうも後から聞いた話では、祖父は相撲の何とかいう親方に金を貸していたということだ。

 招魂社(靖国神社)にはよく連れて行って貰い、帰りに境内でやっているサーカスなどを観せて貰った記憶がある。

 天竜という力士が相撲協会に反旗を翻して始めた大阪相撲というのを観たのも靖国神社の境内だった。

 映画は「忠臣蔵」と「ターザン」しか、観せて貰えなかった。

 祖母は神経痛でよく温泉場に行き、その時はいつも私が一緒だった。

 祖母の温泉行きは療養が目的だったので、一ヶ所に長逗留で子供の私には変化がなくてつまらなかったが、祖父が一緒の時は、名所巡りや馬や船などにも乗せてくれて楽しかった。

 祖母抜きで祖父と二人切りで旅行したことも二、三度あった。

 多分、用事があっての旅行だったと思うのだが、帰りに名所旧跡を見て廻り、美味しい料理を食べさせてくれるなど、子供の私に気を遣ってくれていたのが、今になってよくわかる。

 小学校に入学することになって、私は本所の父母の許に帰り、実家から学校に通うことになった。

 父は一人っ子で甘やかされて育ったせいか道楽者だった。

 母と結婚後もダンス・ホールやカフェに入りびたり、夏はヨットで遊ぶといった、所謂、モダン・ボーイだった。

 父は相撲は祖父譲りで嫌いではなかったが、歌舞伎の方はさっぱりで、その後、戦争が激しくなったこともあって、私は歌舞伎座とはすっかり縁が遠くなってしまった。

 再び歌舞伎を観るようになったのは、戦後の昭和二十二、三年頃からである。

 歌舞伎座は戦災で焼け、歌舞伎は東京劇場での公演になった。

 その頃、日本橋の三越劇場で、毎月「三越名人会」というのがあって、先年亡くなった六代目中村歌右衛門がまだ芝翫といっていた、その芝翫の舞踊「四季の山姥」を観て感激したのもその時分だった。

 河東節、荻江節を初めて聴いたのも三越名人会である。

 どちらが先だったかは忘れたが、月代わりで河東節の「助六由縁江戸桜」と荻江節の「深川八景」が続いて出た。

 河東節は岡田米子(後の二代目山彦文子)師、荻江節は竹村寿々(後の初代荻江寿友)師だった。

 その後、間もなく私は竹村さんの許に入門して、荻江節を習うことになった。

 河東節をやるようになった経緯については、昨年出版した『江戸吹き寄せ』の「古典鑑賞会」(六)、(七)、(八)の章に委しく書いて置いたので省畧するが、昭和三十八年の秋、十寸見会の後援で「山彦やな子の会」が美術倶楽部で大々的に催された時、私の河東節の師の渡辺やな(山彦やな子、荻江やな)師から、「今度は河東節の会なので、河東節をやって貰いたい」といわれて、「きぬた」を教えて頂いて当日、美術倶楽部で唄ったのが、私の河東節の初舞台だった。

 それまで、河東節といえば「助六由縁江戸桜」一曲だけ、「助六」だけはやっておきなさい、とやな師にいわれて習った外は、専ら荻江の稽古ばかりだった。

 初めての河東節はただ夢中で、あっという間に終わってしまった。

 出番がすんで楽屋の座敷で着替えていると、新橋の芸者衆と思われる中年の女性が入ってきて、私に、

「とても結構でしたよ」といって、「相当なお姐さんも聴いていらして、褒めていらしたわよ」

 と声をかけてくれた。

 それを聞いて、自分では、あまりよく出来たという意識はなかったのだが、何となく、とにかく無事にすんだらしい、とホッとしたのを覚えている。

 その「相当なお姐さん」というのが誰か分からなかったが、その後の様々な事情から、新橋の五郎丸(永井静子)さんではなかったかと今では思っている。

 その時の河東節が縁となって、翌昭和三十九年十月の歌舞伎座に、十寸見連の一員として出演することになった。

 昭和三十九年は東京オリンピックの年である。

 歌舞伎座ではオリンピックの開催期間に合わせて、十月、十一月のプログラムを組んだようだ。

 今、私の手許にその十月のプログラムがある。

   昼の部
 一、寺子屋
 二、京鹿子娘道成寺
 三、野崎村

   夜の部
 一、鳴神
 二、鏡獅子
 三、助六由縁江戸桜

 出演俳優は、左団次(三代目)、團十郎(十一代目)、羽左衛門(十七代目)、尾上九朗右衛門、松緑(二代目)、梅幸(七代目)、仁左衛門(十三代目)、宗十郎(八代目)、延若(三代目)、歌右衛門(六代目)、勘三郎(十七代目)、雀右衛門(四代目)、扇雀(二代目)、福助(七代目)、三津五郎(八代目)。

 ここに出ている人物の内、雀右衛門、扇雀、福助を除いて今は、全て鬼籍の人となっているが、オリンピックに合わせて歌舞伎俳優総出演の感がある。

 夜の部の最終の出し物が助六であるが、この助六が海老様といわれた人気役者、先代(十一代目)市川團十郎の最後の助六となった。

 私が観客としてではなく、出演者の一人として舞台裏に入ったのは、その時が最初だった。

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