第115話 『松廼家露八(六)、終焉・追補』

 先月図書館で、初版明治発行の『大日本人名辞書』という古い人名事典の中に、かなり詳細に松迺家露八のことが書かれているのを見つけた。

 今まで、この稿で触れていなかったことも出ているので、要約して次に挙げる。

「(土肥庄次郎は)旧一ツ橋家近習番頭取の土肥半蔵の長男で、御旗奉行
格大坪流槍術指南番土肥新十郎の孫。天保四年十二月江戸小石川小日向武島町に生まれる。初め祖父について槍術を学び免許を得、入江逹三郎に剣術、伊東一郎次に砲術、山口仲次に水泳術を学んだ。しかし、壮年に及び遊蕩に耽り、家督を弟八十三郎に譲って家を追われることになった。家を出た庄次郎は吉原の幇間となり、荻江露八と名乗った。そのことから、祖父や父は激怒して、庄次郎に腹を切れと迫った。しかし、介錯人の小林鐡次郎の気転によって救われ、江戸を出た庄次郎は長崎へ行き幇間となった。その頃、偶々尊王攘夷の風が吹き荒れ国中が騒然となる中、庄次郎は悟るところあって江戸に戻り、彰義隊が組織されるや、馳せ参じて隊士となった。
 彰義隊が上野の戦いに敗れた後、一旦庄次郎は上州の伊香保に隠遁したが、再び江戸に潜行して榎本武揚の軍に投じて、軍艦で函館に行こうとした。しかし、颶風に相遇して庄次郎の乗った船は駿州清水港に漂着してしまった。明治元年八月二十六日のことである。
 どうしてよいか分からなくなった庄次郎は再び江戸に舞い戻って幇間となった。
 その後、静岡行きを思い立ち、十三年間静岡で幇間を勤めたが、三たび吉原に帰り松迺家露八となった」

 これによると、庄次郎が幇間になったのは江戸時代のことで、その頃の細見にその名がないのは、まだ見習い中であったのかもしれない。師匠は荻江千代作だろう。

 また静岡から帰って松迺家露八になったというのは疑問で、庄次郎の荻江露八は松迺家露八と改名して松迺家節の家元となったとされているので、明治九年の芸人登録中に松迺家を名乗る者が十五名いることからも、その頃には露八は既に松迺家露八になっていたと思われる。

 以下、更に『大日本人名辞書』から引用させて貰うと、

「明治三十六年、庄次郎既に老ひて稼業また意の如くならざれば、其の春廃業して阿吽堂仁翁と改め、静かに老後を養ひ、此年十一月二十三日、[七十一歳 見あきぬ月の 名残哉]、[夜や寒き 打ち納めたる 腹づつみ]の二句を口吟して没す。年七十一。南千住元通新町円通寺に葬る。持ち芸として特に喝采を得たるは、布袋の川越し、妊娠娘、狸の腹鼓、仁王、泣虫の子供、仁王の蝦蟇、屋根船の提燈等なり。尚晩年幇間を勤むる傍ら、武士道の衰微を概し榊原健吉と共に毎年春秋二季に武術大会を催して其の振起に努力せりといふ」

 明治三十五年十月の快気祝いの会から露八が亡くなる明治三十六年十一月まで約一年強の間しかない。引用文から露八が廃業の会を催したのは明治三十六年の春とわかる。

 露八の死因について、中気で亡くなったと書いてあるものを見た。推定になるが、露八の静岡行きは明治十年代の初め頃で、東京に戻ってきたのは二十年代の前半、それから三十年代にかけてが露八の全盛期だったのではないだろうか。

 その頃、中気というから脳梗塞か何かで倒れ、暫く(快気祝いの口上に長らくとあるから少なくとも一年以上だろう)療養してよくなった明治三十五年十月に快気祝いの会を催して現役に復帰したが、往年の如くには身体が思うようにならず、僅か半年足らずで廃業を決意するに至ったと思われる。

 中気で死亡したというから、或いは再度脳発作に見舞われたのかもしれない。

 (追補)

 露八の快気祝いの番組の最後に出演の幇間の名が出ているが、会主の露八の名の横に「補助」として、富本半平、桜川孝作、二名の名がある。

 舘野善二著(昭和四十九年刊)の『思い出の邦楽人』の中に、「桜川忠七さんと富本半平さん」という章があり、富本半平について、

「明治三十七年深川に生まる。先代富本半平の養子、千代ッ平(ちょっぺい)と名乗って、十二歳で初座敷。富本半平としては二代目になる。得意芸は”仁王”。女形から変身して、上半身裸になっての阿吽の呼吸でキマる親ゆずりのその芸は、もう見られなくなったのである(昭和四十五年正月二十一日没)」

 とある。この記事から、露八の快気祝の番組に出ている富本半平は初代だとわかるが、この二代目の得意芸の”仁王”というのは露八の得意芸の仁王と同じ気がする。

 この稿(松迺家露八)(二)で露八の得意芸を列挙した後に、

「露八は、故人千代太夫から譲られた芸をするが、大兵肥満の同人にはぴったりはまったもので(以下畧)」

 としてしまったが、これに続いて露八の得意芸の仁王の説明が出ているのである。

「その筋はというと、お酌が成田から芝山の仁王に参詣する内に、仁王がお酌に乗り移って、しまいに仁王の身振りをするというので本調子の『淀の川瀬』の謡を使って、その切れ目で肌を脱いで、頭に手拭を載せ、肥った腹をぽんと叩いてウンウンと云い、阿吽の呼吸をするのだ。その仁王のまねがおかしい」

 とある。これは正に二代目半平の”仁王”と同じだろう。

 二代目半平が生まれた時には露八は既に死んでいるから、二代目半平はその芸を初代から受け継いだものと思われるが、それは明らかに露八の得意芸であって、廃業した露八が気心の知れた初代富本半平に譲って行ったものに違いない。

 更に遡れば、露八が荻江千代作の千代太夫から引き継いだものなのである。

 こうして考えてくると、もしかしたら、二代目富本半平が初名を千代ッ平といったのも荻江千代作から取ったのかもしれない。

 故老の話によると、大正の初め頃、吉原には少年太鼓持ちといって二代目半平を含めて三名の子供の幇間がいたそうである。

 半平、喜代作、喜久平とその名を聞いた気がするが、半平以外の名はうろ覚えであまり自信がない。

 露八と同じく幕臣から維新後、新聞記者に転身した戸川残花が明治四十四年正月の『日本及日本人』という雑誌に、吉原の露八の家を訪れた時のことを次のように書いている。

「その吉原の住まいに尋ねて行ったことがあるが、門口から家中が一目に見渡されるような、三間ばかりの狭い家だった。好く掃除してあって、塵一つ見えぬ。そこに露八は裸でいて、団扇づかいしながら話す。天真爛漫で実に気持ちがよかった。露八なども一世の侠骨、世をすね通した方であろう」

終わり

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