第114話 『松迺家露八(五)、続・番組』

 露八が、幇間㾱業の狸会というのを常磐木倶楽部で催し、それから名を阿吽堂仁翁と改めたが、その後数ヶ月して亡くなったということは前々章(松迺家露八(三))に書いた。

 明治三十五年十月の会は同じ常磐木倶楽部で催されたものだが、狸会とは違うもので、露八の口上によると、長い間病気で休業していたが、やっと健康を回復したという、その快気祝だったようだ。

 当日のプログラムの見開きの部分、プロの一番右側に狸の面の画が描いてあるが、その画家の署名、楓湖とは松本楓湖(1840~1923)のことで、楓湖は常陸国河内郡小野村の医師、松本宗庵の子で画の師は菊池容斎、明治三十一年創立の日本美術院の幹事、門下から速水御舟、今村紫紅、高橋広湖を輩出した著名な画家である。

 絵に描かれている狸の面を作ったと思われる武田友月については不明。

 さて、番組についてだが、最初の出し物、「松の栄」は明らかに御祝儀曲だが、同名の曲は生田流、山田流の箏曲以外には見当たらないので、どういう曲か、わからない。

 木遣り(キヤリ)の演者についても手掛かりがない。

 野呂松人形については後回しにして、先に奇術の帰天斎正一について述べる。

 帰天斎正一は天保十四年(1843)生まれで、本名は波済粂太郎(なみずみ くめたろう)と云い、初めは林屋正楽という落語家だったという。「西洋奇術の元祖」を名乗る東京の奇術師だった。

 有名な手品師、松旭斎天一は明治十三年一月に大阪で来阪中の帰天斎正一の舞台を見てショックを受け、それまで音羽寿斎(おとわ じゅさい)と名乗っていたのを松旭斎天一と改名したといわれる。松旭斎は本名の服部松旭から、天一は帰天斎正一の天と一からとったという。(以上、藤山新太郎著『手妻のはなし』より要約)

 明治十年から二十年頃にかけての東京の寄席の番組に、西洋奇術と銘打って帰天斎正一の名が散見する。

 さて、野呂松人形だが、斉藤月岑の『声曲類纂』に、

「寛文延宝の頃(1661~1680)、和泉太夫座に野呂松勘兵衛と云し人形遣ひあり、頭平めにして青黒き顔色の賎気なる人形を遣ひて、是をのろま人形と云。のろまは野呂松の畧語也」

 とある。

 また、大正二年刊の『趣味研究・大江戸』という本に、山田春塘という人が「野呂松人形」と題して次のように書いている。

「野呂松人形は高尚な宴会の余興として、其の流れを汲む連中が折節演じ、箔押しの衝立を手摺に青頭を操り、江戸趣味を復興させつつあるのだが、此野呂松人形は宛(さなが)ら能楽に於ける狂言の如く、初代野呂松勘兵衛は例の和泉太夫が、金平浄瑠璃の間狂言に滑稽洒落な所を見せ、何時も喝采を博したに違ひない。其門弟等は土佐節へも出る、江戸節へも出ると云ふ事になり、必ず浄瑠璃の間は野呂松人形である」

 この後に、大正年間、大震災以前の野呂松人形の実状が書かれていて、家元や人形遣いの名も出ている。

 その後、関東大震災で伝承してきた人形も焼け、後継者もなく、昭和の初頭には野呂松人形は絶えてしまったと思われるので、その輪郭だけでも書き残して置くことにした。

「人形は初めは一人遣いであったものが発展して三人遣いになったこともあったらしいが、幕末には一人遣いになっていた。野呂松人形というのは古雅なもので、文化文政の頃(1804~1829)には一般には歓迎されず、蔵前の札差とか、木場の材木屋といった大町人達の遊び道具になってしまい、野呂松人形のプロがいなくなって一時絶えてしまったのを大町人達が復活したので、いずれも素人ばかり、出遣いもお囃子も全部素人だった。今日(大正二年)では連中も追々物故して、お囃子は歌舞伎より聘することとなった」(前出『大江戸』より要約)

「江戸言葉に愚しい者を指して、のろまと称するのであるが、のろまと云へば侮辱の言語に過ぎぬ。(中畧)此勘兵衛の主として使った人形は、頭ひらきて色青黒く賎しかったので、当時風采の挙らぬ可笑気な態を見ると、野呂松と言ひ囃したのが何時か訛り、のろまと称するやうになったのだ。最初は座興の洒落に云ったのも、果には侮辱を意味するやうになり、今日まで遺伝されて居るので可笑(おかしい)が、肝腎の本家たる野呂松人形の方は、社会より忘却されている」(同『大江戸』)

 人形の使い方については、同書に、

「木偶(でく)廻しは人形の裾から左手を差入れ、右で右手や裾捌きをして一人で遣ふのだから、操り人形とは趣きを異にするのだ。野呂松の秘事とするのは左手で、先づ三ツ指で人形の頭を抓み、残った無名指に小指を掛て左手を操り、人形全体の調子を執ねばならぬ。木偶廻しの左手が利やうになれば、自然に人形が活動して来るのださうな」

 とあり又、出し物については、全盛時代には番組も二百番以上あったそうだが、封建時代に諸侯方へ招聘された当時、摺物として置いたのが即ち六十二番だった。しかし、今日では道具が揃わないから、脚本はあるとした所で其を演じる事は出来ない、という。

 六十二番の中で五十番位は演じられるが、多くは余興だから趣味のある祝い物、新市の祝いとか、又は滑稽な代々法師、浮れ恵比寿、鬼の宝と云ったようものが、よく出る出し物だったようで、明治三十五年十月の露八の会のプロにも、「鬼の宝」が出ている。

 また、同書には、当代の家元として辻気楽翁の名が出ている。当代というのは同書の刊行年、大正二年と思われる。

 野呂松人形に関する記事を調べていたら、『能から歌舞伎へ』(松本亀松著、昭和十八年刊)に、明治三十五年八月発行の『都の花』という雑誌掲載の野呂松人形についての記事の要約が出ていて、その中に次のようにあった。

「この人形(野呂松人形)も実は明治維新の際、㾱滅に瀕したのでしたが、幸にも再興され明治三十五年頃までは、例月五の日に浅草本願寺中の某院で、稽古会が催され、希望者に観せてゐたのでした。当時家元は幕府の金方御用を勤めてゐた井上久次郎といふ老人でした。明治三十五年には浅草区馬道八丁目に住ひ、七十一歳で、斯の道の名を野呂松鶴翁といひました。他に野呂松気楽(七十歳)、野呂松三甫(七十歳)、野呂松松甫(五十歳)、大浦某(五十三歳)、天沼某(五十歳)、野呂松亀遊(三十歳)他二三人が居りました」

 同じ明治三十五年の記事であることから、露八の会の野呂松人形出演者と照会してみると、「鬼の宝」の蟲翁のみ不明で、気楽翁は気楽(七十歳)、三翁は三甫(七十歳)、松翁は松甫(五十歳)、亀遊は亀遊(三十歳)とわかるが、当時の家元だったという鶴翁の名はない。もしかして、鶴翁が改名して蟲翁となったのかとも思ったが、家元が弟子より前に出るとは考えにくい。だとすると、翁とは五十歳以上の者をいうようだから、大浦某(五十三歳)か、天沼某(五十歳)のどちらかが、八月から十月までの間に野呂間蟲甫となったとも考えられる。

 鶴翁は、その間に亡くなったものか或いは、病気の為に出演出来なかったのかもしれない。

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