第112話 『松迺家露八(三)、逸話、人柄』

 露八が武士で、まだ土肥庄次郎といっていた元治元年(1864)の長州征伐の折には、槍を持って奮戦したといわれている。

 彰義隊員だった頃の話が、『幕末明治 女百話』という本に出ている。

 女遊びを覚えた庄次郎が熱を上げたのは、吉原江戸町二丁目の大まがき(大店)鶴泉楼の愛里という花魁だった。

 何しろ肥った漢で、頭の髪を大たぶさに結った、あんまり容貌のよい方ではなかったので、蔭口が「三宝荒神」またの名が「ひきがえる」といわれていたという。

 その渾名の名付け親が戯作者の仮名垣魯文で、その頃、魯文も同じ鶴泉楼の愛衣という花魁と熱くなっていた。

 愛里と愛衣は朋輩同志で親しかったようだ。

 その愛里から、魯文は庄次郎宛の「逢いにきて欲しい」という手紙を書いてくれと頼まれて安請け合いし、甘い言葉を並べて書いてやったのまではよかったのだが、ご丁寧にひきがえるの絵まで描き添えたので、庄次郎は一見して、すぐに魯文の悪ふざけと見破った。

 彰義隊の隊士で血気盛んだった庄次郎はカンカンになって怒って、魯文を一刀の下に切り捨ててくれようと、もの凄い見幕で鶴泉楼へ乗り込んで行った。

 ちょうど三月四日の雛祭の最中だったというから、慶応四年(九月八日に明治と改元)の三月四日のことだろう。

 その時、魯文は鶴泉楼で愛衣相手に白酒を飲んでいたが、庄次郎が血相を変えて乗り込んできたと聞いて、慌てて逃げ出した。

 家に帰っても、鶴泉楼にいなければ、家まで捜しにくることは分かっているので、家には帰らず、上野池の端にあった「麦斗ろ」(むぎとろ)という料理屋へ行き、桃川燕林という講釈師と飲んでいると、追い追い、馴染みの一中節の十寸見東和(ますみとうわ)、幕府御用達の神田佐久間町米問屋伏見屋の番頭、桜川正孝(吉原の幇間)、数寄屋町の芸者などが集ってきて、飲めや唄えの大騒ぎになった。

 そこへ、どう嗅ぎつけてきたものか、庄次郎が白刃をひっこ抜いて飛び込んできたので、魯文はまっ青になって逃げ出す。

 十寸見東和は二階から辷り落ちて気絶。

 桃川燕林は腰が抜けて立てない。平生、修羅場を読むに似合わない不態(ぶざま)な始末。

 おみき(数寄屋町の芸者)は戸棚に滑り込む。

 桜川正孝は雪隠(トイレ)に閉じ籠って、一生懸命桟を押えて、くわばらと唱えたという大騒ぎになってしまい、

「これは大変、宅で怪我があっては」

 と麦斗ろの主人が庄次郎をひたすら宥め、

「これは何かのお間違い。決して悪くはお取り計らい致しませぬ。この場は私にお任せくださいまし」

 と粋な捌きを買って出たので、庄次郎も静まり、

「騒がしてすまん。任せる」

「それは有り難う存じます。ソレ医者を呼べ」

 と石田道鶴という近所の竹庵老を迎え、東和、燕林を介抱し、これも隠れていた仮名垣魯文を説得して、手打ち仲直りの式を挙げることにした(以上、要約)

 この文中、一中節の十寸見東和とあるのは一中節ではなく、十寸見というのは河東節の太夫の姓であるから、河東節の間違いと思われる。

 河東節の十寸見東和とすると、有名な鰻屋大和田の主人である味沢貞次郎氏かもしれない。或いは調べてみないとわからないが、その一代前の東和かもしれない。

 また、「竹庵老」とあるのは、「薮井竹庵老」の略で、薮井竹庵は医者の戯称である。

 露八が大兵肥満だったことは、これまでのことから分かった。

 「たいこ持ち」のことを花柳界の隠語で、「たぬき」という。

 それと関係があるのか、どうか、知らないが、露八は器具、書画など、狸に関するものを蒐集していたようだ。

 老年に及んで病気がちになった露八は、廃業の狸会というのを常盤木倶楽部で催し、それから名を阿吽堂仁翁(あうんどう におう)と改めて、病を養うこと数月にして没した。

 露八の遺骸は南千住元通新町円通寺に葬られた。維新の際に戦没した幕臣達や彰義隊の戦士達の葬られている寺である。(『文芸倶楽部』増刊『明治奇人伝』)

 露八は明治三十六年十一月二十三日、吉原京町一丁目の自宅で、中風で没したという。

 吉原のたいこ持ち、松迺家露八は、旧幕の連中は勿論、明治新政府の高官といえば、その多くは旧敵だった薩摩、長州、土佐出身者だったが、露八が彰義隊の生き残りというのを面白がって贔屓にしたので、名物男になった。
 榎本武揚は特に露八に目をかけて贔屓にしていたという。

 ある時、露八に向かって、

「貴称は江戸の児の面汚しだ。いつまでも道楽者の太鼓を叩いているよりは、土手のあたりに庵室でも結んで、引っ込んだらどうか。そして土手の道哲を気取るのだ。鉦叩く料金は、生涯おれが出してやろう」

 といわれた。露八は笑って、

「以前の土肥庄次郎なら、カンカン坊主にもなれましょうが、松迺家露八が衣を着て、鉦を叩いて見たところで、浮かばれる亡者はありますまい」

 といった。

 これには子爵(榎本武揚)も笑われて、それなりになってしまった。(前出の『明治奇人伝』)

 土手というのは吉原の土手、日本堤のことで、道哲については『吉原大全』の巻一に、「土堤の道哲の事」とあって、

「道哲庵は金龍山の下、日本堤へとりつく所左の方にあり、開山念誉上人(ねんよしょうにん)、引願山専稱院西方寺といふ。
 此寺に道哲といふ道心の僧住けり。此人俗なりし時、高尾と深き中なりしが、高尾故ありて身まかりければ、此寺に庵を結び道哲庵と名づけ、常念仏発端の願主となれり。
 墳(つか)の傍に紅葉をうへて、しるしとす。
 是みうらや二代目の高尾が墓なり。石塔に地蔵をほり、法名、伝誉妙心信女、万治三年(1660)とあり」

 と出ている。

 二代目の高尾太夫は仙台高尾といわれ、仙台侯伊達綱宗に、「忘れねばこそ思ひ出さず候」という有名なラブ・レターを書いた遊女であり、「君は今 駒形あたり ほととぎす」という句を詠んだといわれている。

 それとは別に、隅田川に浮かべた船の中で仙台侯から求愛され、拒否した為に中洲の三股という所で刀で切り殺されたともいう。

 しかし、これらはいずれも後世の作り話で、仙台侯の敵娼(あいかた)は三浦屋の高尾ではなく、京町高島屋の薫(かおる)だったというのが本当らしい。

 南千住の円通寺には正面本堂に向かって左手前に、上野寛永寺から移築された黒門があり、その一郭に彰義隊士の墓がある。

 また、同じ墓域に榎本武揚撰になる土肥庄次郎の碑もあるのだが、今は上下二つに折れてしまっていて、見る影もない。

──この稿続く──

コメントを残す