第111話 『松迺家露八(二)、荻江露八』

 松迺家露八は『芸能人物辞典 明治・大正・昭和』によれば、天保四年(1833)に一橋家の臣、土肥半蔵の長男として生まれ、本名を土肥庄次郎、前名を荻江露八といった、とある。

 次いで、

「槍術・剣術を修業、一橋家中で評判を得たが、遊びを覚え吉原に入りびたり、勘当される。幕末の動乱のなかで荻江節の師匠となり幇間として各地を放浪。明治元年の上野彰義隊の戦いには参加したが箱館戦争には加われず、結局吉原に戻り幇間となる。その際荻江節を松迺家節と呼びかえ、松迺家節の家元として鑑札を受ける。
 芸が巧みで、元彰義隊ということからもてはやされ、薩長の高官の前でたいこ持ちを続けた名物芸人。
 吉川英治に『松のや露八』というモデル小説もある」

 この中で、土肥庄次郎の前名を荻江露八といったとあるのは間違いで、荻江露八というのは吉原で幇間になった時の芸名で、本名でも俗名でもない。他に荻江露八の名を挙げた人名辞典が見当たらなかったので、『芸能人物辞典』から引用させて貰った。

 この外にも疑問の点がいくつかある。

 まず、「幕末の動乱のなかで荻江節の師匠となり幇間として各地を放浪」とあるが、江戸時代に荻江節なるものは無い。

 初代荻江露友は明和五年(1768)八月以後芝居から退き専ら吉原でお座敷本位の長唄を客に聞かせていたのだが、その頃から廓内で荻江姓を名乗る男芸人が急増する。彼等の演奏する長唄は芝居の伴奏音楽である長唄そのものではなく、聞かせ所を集めたダイジェスト版であったり、節も細かく技巧的な長唄だったようだ。

 芝居と違って演奏だけで聞かせるには、それなりに工夫が必要な訳である。

 こうした長唄を三升屋二三治によれば、荻江風とはいったようだが、荻江節とはいわなかった。

 幕末の天保の末頃(1840年代)に、吉原の大妓楼の主人、玉屋山三郎が吉原の音曲を創る運動を始め、従来の吉原流(荻江風)長唄に加えて、地唄をとり入れたり、新曲を作ったりしたが、自らを荻江嗣流とは稱したものの荻江節の家元とは名乗らなかった。

 玉屋の主人は代々山三郎といったが、この山三郎は花柳園と号して文才もあり、吉原俄の荻江風長唄の作詞もしているし又、西川流を破門になった西川芳次郎の面倒をみて、俄の舞踊の振り付けをやらせたり、自分の花柳という名を彼に与えたのもこの花柳園山三郎で、西川芳次郎は改名して花柳寿輔となった。

 初代の花柳寿輔である。

 花柳園山三郎は万延元年(1860)六月に亡くなった。享年は不明。

 話が脇道に逸れたが、吉原の男芸者・幇間が荻江姓を名乗ったとしても、それは長唄を持ち芸としている芸名であって、荻江節の師匠になった訳ではないのである。

 さて吉川英治の『松のや露八』という小説だが、土肥庄次郎の露八は荻江節を習って、その荻江節で京都の町を流して歩いたりしている。

 この小説には、荻江節をやっている三人の姉妹が出てくる。

 お鳶、お里、喜代の三人で、特に真ん中のお里は荻江節の師匠をしている。

 三姉妹は板新道に住んでいる。板新道とは現銀座並木通りの一本西側、有楽町寄りの通りである。

 まだ、新橋の花柳界などが出来る前の時代で、何となく明治の雰囲気が漂う。

 三姉妹の父は二代目荻江露友といって、

「江戸唄の豊後節からわかれたこの流派では、名人だったが、安政の大地震で亡くなるし(以下畧)」

 とあるが、二代目荻江露友は有田栄橘という人物で、寛政八年(1796)に五十三歳で亡くなっているので時代が合わないし、「江戸唄の豊後節」というのも豊後節は一中節から分かれた上方系の浄瑠璃で江戸唄ではないので全く意味不明。大体、荻江節は長唄から出たもので、唄であって浄瑠璃ではない。

 他にも、三姉妹の長女のお鳶が、初代荻江露友作曲といわれる「ねこの妻」というメリヤスを弾き語りで唄うところが出てくるが、その文句は、

「三とせ馴染みし ねこの妻 もし恋死なば かわいやの 棹はちぎりの たがやさん」

 となっている。

 この歌は荻江節正本と伝えられているものに載っているのだが、kの「ねこの妻」に相当する冒頭の部分の歌詞は、

「三とせ馴染みし ねこの妻 もし恋死なば、さみせんの かわいのものよ いろにひかるる なかつぎの 棹はちぎりの たがやさん(以下畧)」

 である。

 こうしてみると、吉川英治の小説はやはり創作であって、多少は事実に基づいているようだが、考証的にはあまり当てに出来そうにない。

 露八はいつ吉原の幇間になったのか、調べるために目を通すことが出来た『吉原細見』の内、明治五年の細見に、荻江露八の名があった。一年前の明治四年のものは見ることが出来なかったが、明治三年の細見には露八の名はないので、それは明治四、五年頃といっていいだろう。上野の戦争から、まだ、三、四年しか経っていない。

 明治の細見で調べることが出来たのは、五年以後、十四、十五、三十二、三十五年だけで、十四、十五の両年に露八の名がないのは、どういう訳か不明。三十二年にないのは病気で休業中とわかっている。三十五年の細見には松迺家露八と出ている。

 荻江露八から松迺家露八に改名した時期については、明治八年刊の『諸芸人名録』を調べることは出来なかったが、明治九年の東京の芸人登録の中に「松迺家」で十五名とあるので、その頃のことと思われる。なお、明治十五年の調べでは「松迺家」の登録者は五名になっている。

 因みに、明治十四、五年の吉原細見には、松迺家姓の幇間は一人も見当たらない。

 露八の幇間としての持ち芸について、『明治人物逸話辞典』に、

「露八は武士から早替りしたのにも拘わらず、多芸であった。その内でも得意としたのは、布袋の川越し・はらみ娘・狸の腹鼓・仁王・泣虫の子供・仁王の蝦蟇・屋根船の堤燈などだった」(『文芸倶楽部』増刊)

「露八は、故人千代太夫から譲られた芸をするが、大兵肥満の同人には、ぴったりはまったもので──(以下畧)」(『文芸倶楽部』)

 露八が大兵肥満だったことは知れたが、芸を譲られたという千代太夫という幇間の名は幕末の吉原細見には見当たらない。

 千代がつくのは荻江千代作一人で、千代太夫というのがこの千代作だとすると、弘化二年(1845)から吉原細見にずっとその名が見える。最後は明治三年で、前述のように 明治四年の吉原細見は未見だが、明治五年以後の細見には荻江千代作の名は出てこない。

 その明治五年の細見に荻江露八の名が千代作と入れ替わるように出てくる。

 露八の荻江という姓も、もしかしたら荻江千代作から受け継いだのかもしれない。

──この稿続く──

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