第110話 『松迺家露八(一)、明治のプログラム』

 先日、杵屋寒玉師から明治時代のプログラムのコピーを二枚頂戴した。

 いずれも、たいこ持ち主催の会で、年代順に古い方から取りあげていうと、桜川善六が会主の方は明治三十二年五月八日、井生村楼での会で、番数が七番、それぞれ三番叟、あやつり獅子、吉原雀、花の街、ゆかりの江戸桜、鶴亀、御祝儀となっていて、出演者は順に、すさき幇間連中、はやし連中、深川芸者連、吉原幇間連中、吉原芸者連中、松永和楓、各地の幇間連中となっている。

 井生村楼というのは向両国にあった有名な貸席で、番組中、ゆかりの江戸桜とあるのは河東節と思われるが、吉原の中の町芸妓連がつとめている。

 花の街というのは、多分、「はなのさと」と読んで、吉原のことを指しているものと思われるが、長唄なのか、何なのか、わからない。出演者の真ん中に、桜川太夫善孝と一人だけ太夫とついているのは桜川の家元である桜川善孝で、他の十一名の吉原幇間出演者はすべて桜川姓である。

 この善孝は維新後、三代目の都民中と吉原の人気を二分していたという三代目善孝だろうか。それとも四代目か。

 鶴亀は松永和楓の独吟で、三味線は杵屋正三郎の一挺一枚。この和楓は元清元叶太夫といったが、五代目松永忠五郎の女婿となり、後に七代目忠五郎から明治十三年に三代目和楓となった人である。

 最後の御祝儀というのは、どういうことをしたのか、よくわからないが、神奈川、横浜、水戸のたいこ持ちなど、九名が出ている。  番組の後に、会主の桜川善六の名があり、続いて、補助とあって、富本半平、松乃家露八、松乃家平喜、哥沢芝喜太夫、都民中、清元喜代寿、松乃家喜作、松乃家米二の八名の名が出ている。

 プログラムのコピーはカラーで、番組の前のスペースに、竹真という画家の竹に赤い紐で吊されている、扇子を持った幇間と思われる人形と、鉢巻をして鈴と扇を持って多分、三番叟を踊っている蛸の画が描いてあり、番組の上部に腹鼓を打っている狸の腹の部分の画が出ている。竹真という画家については不詳。

 番組の表の部分、つまり、表紙にあたる部分のコピーがないので、これがどういう趣旨の会なのか、わからないが、番組の内容からみて、お祝いの会と思われる。

 昭和三十四年に出た桜川忠七という吉原の有名な幇間が書いた『たいこ持ち』という本がある。

 忠七は明治二十二年生まれで、十九歳の時に幇間になったというから、明治四十年のことになる。

 その忠七の『たいこ持ち』に、桜川善六の名が出てくる。

「ちょうど、大角力の初場所。そのいく日目かに、お客のおともをして国技館へいった君龍(柳橋の芸者で、忠七の最初の女房)が、ひょっこり善六に出会ったのでございます。

 この善六と申しますのは、やはり吉原のたいこ持ちで、わたしの仲間でございます。その頃、桜川の孝六、善六、忠七といえば、ほうかん仲間での三人組といわれまして、ま、どっちかというと、あまり程度のいい方ではございませんでしたな。

 この善六が、家内(君龍)に飯を食おうと、まあ、誘うんです。飯を食うってことは、いまでもおんなじでしょうと思いますが、口説きの初手なんですね」

 とあるように、善六は忠七の最初の女房になった君龍を口説いた吉原の幇間なのである。

 忠七が幇間になったのは明治四十年であるから、この善六の話はそれ以後のことになる。

 寒玉師から頂いたプロのコピーには、善六以外の三人組、孝六、忠七の名は出ていない。

 これらのことを考え合わせると、この井生村楼の会は、会主である桜川善六の名弘めの会ではなかったか、と思える。

 三人組の中で、善六が一番の先輩だったのかもしれない。

 幇間の名弘めについて『たいこ持ち』の中に次のようにある。

「そこで、いよいよ本番、一人前になった名びろめ式をいたします。

 わたくしの名びろめ式は、わたくしの二十八のとき、常盤木倶楽部と日本橋倶楽部でいたしました。(大正五年と思われる)

 この名びろめ式には、染手拭に、会の出演番組を書いたプログラムなんかを、友だちや同業、お得意さんから芸者衆、料理屋さんにまで配ります。

 いかに、わたくしどものお附合いが広いかがお分りになると存じます。お得意さんにしたって、政界、実業界、文化人とまったく数多いのでございます。

 また、この名びろめ式は、ひと口に申しますと、たいこ持ちのおさらい会のようなものでして、役者衆から、寄席の芸人、花柳界のお姐さんたち、といった芸人衆が、大挙出演してくださいます。

 もちろん、無料で、おまけに手弁当というありがたいものでございます。が、まあ、何と申しましても、ひっきょう旦那方のおたすけが、いちばん大きゅうございましたな」

 つまり、出演者はすべて無料奉仕という仕来たりだったようだ。

 しかし、この稿を書くために目を通した、明治十四年、十五年の『吉原細見』の男芸者、幇間の中に桜川善六の名があった。

 この善六とプログラムの会主の善六を同一人とすると、明治三十二年の会は善六の名弘めの会ではあり得ない。

 或いは、前者の善六は一代前の善六で、プロの会主の善六はその名を継いだ新善六なのかもしれない。

 また、桜川の家元の善孝も維新後三十二年経っているので、四代目になっている可能性が高い(四代目は関東大震災後、洋服屋になったという)。

 そうすると、同じプロの載っている都民中も四代目かもしれない。

 同じ吉原幇間連中の中に、〆孝とあるのが、『たいこ持ち』の著者、桜川忠七の師匠で、前名の〆孝から後に改名して三孝となった。

 ドドイツの名人だったというが、善六のプロには、まだ〆孝の名で出ている。

 プロの会主の後に、補助として挙がっている八名は、どういう順序で並べられているのか、よく分からないが、何か基準があるのかもしれない。

 その中で、哥沢芝喜太夫と松乃家露八は、二人とも元幕臣で、維新後、幇間になった変わり種である。

 寒玉師から頂いた、もう一枚のプログラムのコピーは、明治三十五年十月二十九日に 松迺家露八(松乃家が 松迺家になっている)が会主として、日本橋常盤木倶楽部で催した会の番組で、それについては次回に触れることにする。

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