第10話 『江戸の扇屋(その2)』

扇屋の広告

『安政文雅人名録』(安政七年)という本の終わりの方に、図のような扇屋の広告が出ている。
 『安政文雅人名録』(安政七年)という本の終わりの方に、図のような扇屋の広告が出ている

『安政文雅人名録』は、当時の江戸の書画俳諧等の著名人の名をいろは順に並べた人名録で、本名通稱号住所がわかるようになっている。図の広告は一頁をまるまる使っているが、この広告の前頁にも扇面亭という扇屋と文苑堂という文具屋の広告が夫々半頁のスペ-スで載っている。

文久三年にも『文久文雅人名録』が同じ版元から出ているが、これ等の広告はそちらの方にも同じ体裁で載っている。多分、同じ板を使ったのだろう。

扇面亭の広告の方は簡単なもので、図の扇屋萬助の広告の右上にある、御影堂と書いた五本骨の扇面の絵が同じように右上に画いてあって、下に「御扇子仕立所 横山町貮丁目魚店 扇面亭平野屋傅四郎」とあって、扇面亭の上のスペ-スに「諸國文音所」と書いてあるだけのものである。

文音というのは文字通り文の訪れで、手紙がくることをいう。江戸時代には勿論、まだ電話などないから、文音所というのは手紙による連絡所とでもいった所だろう。

安政七年は三月に改元され、万延元年となる。万延元年といえば、桜田門外の変で、井伊大老が凶刃に倒れた年であり、その三月三日は改元早々の出来事だった。万延は一年と続かず、翌年の二月、文久と改元になる。文久二年には和宮の御降嫁がある。『文雅人名録』が刊行されたのは、長年に及ぶ幕府の支配体制が音を立てて崩れて行く、そんな慌ただしい時代の最中である。

江戸の扇屋

さて、図に戻るが、扇屋萬助、扇面亭のどちらの広告にも、右上に御影堂と書いた扇面のマ-クが出ているのが、前号に引用した『守貞漫稿』の文の通りで、『守貞漫稿』の記述に間違いないことがわかる。

図の扇屋萬助の広告に書かれている内容は、次の通りである。

「御誂御好次第仕候 御扇子仕立所 おろし小売」

 続いて、八行三段にわたって扱っている扇の種類が掲げてある。上中下段の順に右から読んで行くと

「御中啓品々(以下、品々は略) 御雪銅扇 御舞扇 御軍扇 御踊扇 御鉄扇 本唐扇 本名古屋扇 本加賀扇 和唐扇 鴈皮扇 道中御持扇 日除扇 道中記扇 色重扇 平骨扇 諸先生合作扇 諸先生書画大小扇 書画向扇 御土産扇 御年玉扇 暑中御見舞扇 御進物扇 鴈皮団扇」

「色紙短冊 絵半切書翰帋(代の下に巾という字になっているが、帋の誤りだろう。帋は紙の異字)品々」

「右此外御誂好次第念入下直ニ調進奉差上候間、 御用向被仰付下置候様奉願上候。御懇意様方江モ御風聴之程偏ニ奉希上候以上」

「人名録 文音所 東都芝神明前通東側中程 扇屋萬助」

 一応、この部分のみ、読み下しを掲げると、

「右この外(ほか)お誂えお好み次第、念入り下直(したね)に調進差し上げ奉り候間、 御用向き仰せ付け下し置かれ候よう願い上げ奉り候。御懇意様方えも御風聴の程、偏えに希(ねが)い上げ奉り候以上」

下直は下値で、安くの意。御風聴は御吹聴(ふいちょう)である。この広告を見ると、当時の江戸の扇屋がどんな扇を商っていたかがわかる。

中啓というのは親骨の端を外側に反らして作った扇である。次の雪銅扇は雪洞扇のことと思われる。雪洞、つまりボンボリといい、中啓の半ば開いたような扇で、十本骨で端を丸く作ったもので、高位の公卿が持ったものだという。

鴈皮扇は、瑞香樹科の落葉灌木の鴈皮の樹皮で作った紙、鴈皮紙を扇面にしたものだ。その他、色重ね扇、日除け扇など、意味はわかるが具体的にどんな扇なのか、他の扇とどう違っているのか、よくわからないものもある。

加賀扇と名古屋扇については、西村義忠の『扇之記』に、

「國々にて製作の加賀扇は世に名高し尾張にては西土「並びに」朝鮮琉球の扇をうつし作り出せり是等よきさいくなり」

とある。西土とは中国のことだ。

『扇之記』は寛政年間(十八世紀末)に京都で刊行された本だが、その頃、京都と並んで加賀や尾張の扇も有名だったようだ。『扇之記』については、次号で。

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