第109話 『稱往院 其角の墓、道光庵』

 この五月(平成二十一年)の連休明けに、『せんすのある話』シリーズの三冊目として『江戸吹き寄せ』を出版したが、早速、歌舞伎通で世田谷区の歌舞伎同好会の世話役などをされている池田孝子さんから、其角の墓について電話を頂戴した。

 私は、其角は芝二本榎にあった正行寺に葬られた、として今、其角の墓は小田急線の伊勢原に移った、その正行寺にあると書いたのだが、池田さんの話では、世田谷区の烏山にある、というのである。

 資料を送りましょうか、といって下さったので、お願いして届いたのが、世田谷区烏山総合支所で出している、『烏山寺町 ぶらり散策マップ』である。

 写真やイラスト入りの大きな一枚の地図を八ツ折りにしたもので、表裏共に一面に印刷してある。

 表紙の面の方は、「散策するときの心得」とか、烏山寺町に関する歴史、環境などについてのメモ、裏のマップの方はイラスト入りで、寺や墓地に眠る人物などの簡単な説明が出ている。

 池田さんが稱往院と其角の墓の所に赤で印をつけておいて下さったので、すぐにそれとわかった。

 それによると、現在の稱往院は小田急線の千歳烏山の駅から寺町のメイン・ストリートを行った左側に道路に面してあるようだ。

 稱往院の説明の所に、「そばの碑や俳人其角の墓」とあって、僧と向かい合って、そばを食べている人物と、「不許蕎麥入境内」と書かれた碑らしいイラストが載っている。

 稱往院は浄土宗知恩院派の末寺で、一心山極楽寺と云い、慶長元年(1596)江戸湯島に白与稱往上人が創建したものという。明暦三年(1657)の江戸大火の後、浅草芝崎町に移り、大正大震災後の昭和二年に烏山の現地に移転した。

 江戸の切絵図でみると、浅草芝崎町の稱往院の中に、道光庵、良梗庵の文字があり、稱往院の塔頭であることがわかる。

 其角については『江戸吹き寄せ』に書いたので重複するが、本姓を榎本といった。榎本は母方の姓である。父は日本橋堀江町の醫師で竹下東順といった。其角は父業を継ぐべく醫学を学び、醫名を順哲と稱したといわれる。

 宝永四年(1707)茅場町の草庵で没し、芝二本榎の正行寺に埋葬された。

 正行寺は日蓮宗の寺で、其角は日蓮宗に帰依したようだ。しかし、其角の父祖の菩提寺は稱往院で、その墓も勿論、同寺にあったので分骨されたものと思われる。

 其角の墓については、どの書でも正行寺に埋葬されたことになっているので、稱往院にもあったとは知らなかった。

 稱往院といえば、その塔頭の道光庵はソバで有名な寺である。

 ソバ屋の店名で、何々庵という庵号は、道光庵に因んで付けるようになったといわれている。

 蜀山人の『一話一言』に、その道光庵のことが出ている。短い文章なので、そのまま挙げる。

「浅草稱往院寺中道光庵は河漏の名所なりしに、天明の頃本寺よりいたく禁制して、門に石碑をたつ(河漏とはソバ切りのことである)
表ニ
院内製之而乱
不許蕎麥    入院内
当院之清規故

裏ニ
欲求寂滅楽当学妙門法
稱往院住持みづから臼をふみて

みだたのむ心からうす西へむけ
ふたたびごとにみなをとなへて

殊に笑ふべきことなり」

 斉藤月岑の『武江年表』の天明元年(1781)のところに、

「ちかき頃より、浅草稱往院寺中道光庵にて、蕎麦を製し始めけるが、都下に賞して日々群集し、さながら貨食餔(たべものみせ)のごとし。よって本寺より停められたり」

 とある。

 ソバ好きで、ソバを打つのが上手だったという道光庵の庵主は明暦(1655~1657)頃の人で、信州生まれだったという。

『続江戸砂子』に、次のようにある。

「浅草稱往院寺中道光庵。生得この庵主そば切を常に好むがゆへに、自然とその功を得たり。当庵僧家の事なれば尤魚類をいむ。絞汁至って辛し、是を矩模とす。粉潔白にして甚好味也。茶店にあらねばみだりに人をまねくにあらず。好事の人たって所望あれば即時に調ふる也。誠にこのめる道なれば也」

 要するに寺のことなので精進料理で、動物性の鰹節は使わない。つまりダシは昆布と椎茸など、きのこ類から取ったもので、かなり辛かったらしい。

 昔のソバ屋のタレは辛口だったが、現代人は甘口好みになってきているようで、老舗のソバ屋では今、昔ながらの辛口と甘口の二種類のタレを出している店もある。

 ソバ打ちが上手だったという道光庵の庵主は明暦頃の人だったというが、道光庵が本山からソバを作ることを禁止されたのは天明年間だから百二、三十年後のことで、当然同一人物ではあり得ない。道光庵のソバのノウ・ハウは何代にもわたって継承されていたのだろう。

 道光庵に関する川柳も少なくない。

 そのいくつかを挙げる。

一、浅草の名高キ庵へよばれ客
(宝暦九年、1759)

二、うどんやの世をすてたのは道光庵
(明和元年、1764)

三、たいこ持道光庵迄迎に来
(明和三年、1766)

四、手打そば和尚ほっすで差図をし
(明和四年、1767)

五、浅草のあんしつへそば喰に行キ
(明和八年、1771)

六、道光庵寺号があらば深大寺
(安永八年、1779)

 第三句は、道光庵で名物のソバを食べてから吉原へ行く客をたいこ持ちが迎えにくるといったところだろうか。

 第六句から、この頃すでに深大寺のソバが有名だったことが知られる。

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