第107話 『小西来山(二)、二代目吉野』

 天正十七年(1589)、足利家の浪人、原三郎右衛門という者が、その当時、京都市中に散在していた遊女屋を一ヶ所に集めて傾城町を作れば、人も集まり町も発展すると秀吉に進言して許されて出来たのが二条柳町である。

 場所は、今の寺町、柳馬場、夷川、押小路の辺りだったという。

 原三郎右衛門は、一説には、秀吉の馬の口取りをしていたともいわれている。

 二条柳町は大いに栄えたが、御所の近くで恐れ多いということで、慶長七年(1602)に北は五条、南は魚棚、東は宝町、西は西洞院の敷地に移転した。

 この遊里を六条三筋町とも、六条柳町ともいった。

 二条柳町は廓の入口に柳があったので、柳町と称したという。

 六条三筋町は、廓内に上ノ町、中ノ町、下ノ町があり、三筋の小路が通っていたことから三筋町といった。

 また二条柳町と同称、入口に柳を植えたので、六条柳町ともいったようだ。

 この六条三筋町も寛永十八年(1641)に朱雀野に移転させられている。

 それが島原である。

 その移転について、滝沢馬琴の『羇旅漫録』に次のようにある。

「板倉侯(京都所司代の板倉勝重)、洛中通行の日、摂家の女中乗り物に会うときは毎時斟酌せらる。

ある日、また、例の女中乗り物に行きあひぬ。侯、馬をとどめ、いずれの北の方にやと問わしむ。

従者おそれて、これは太夫にて侯と答ふ。

侯大いに怒り、すべて遊里を洛中の中央におくゆへ、かかることはあるぞとて、上に請うて廓を片隅へうつされたり。

六条のころ遊女の全盛。これにてしるべし」

 六条三筋町が移されて出来たのが、有名な島原遊郭である。

 二代目吉野太夫の徳子は六条三筋町の遊女で、当時、三筋町の花形、七人衆の随一といわれたが、その七人衆とは吉野の他、同じ林屋(吉野も林与次兵衛の抱え)の対馬、土佐、柏屋の三笠、宮崎屋の小藤、若女郎家の葛城、永楽屋の初音である。

 初代の吉野は禎子(さだこ)と云い、慶長年間の生まれで寛永八年(1631)に亡くなったという。

 しかし、吉野といえば、やはり二代目吉野の徳子で、彼女は慶長十一年(1606)、京都で生まれたが、七歳の秋に傾城屋林与次兵衛に養われることになった。

 禿の時の名を林弥といった。

 ある時、出雲松江の藩主、堀尾忠晴が廓に遊びにきて、林弥の人相を見て驚き、楼主の与次兵衛に、彼女は必ず有名になる、速かに松の位の太夫にした方がよい、といった。

 与次兵衛はその言葉を容れて、直ちに林弥を太夫にした。即ち、二代目吉野で、その時徳子は十四歳だった。

 定紋は一ッ巴だったというが、一ッ巴の中に桜の紋が吉野の紋として伝わっている。

 二代目吉野の徳子が全盛だった頃、彼女に通いつめた客に佐野重孝がいた。

 重孝の実父は本阿弥光徳の子で光益といった。光徳は本阿弥光悦の従弟だった。

 重孝は幼い頃、佐野家に養子に出された。

 佐野家は紺灰を商って産をなした豪商で、紺灰組合の長だったという。

 紺灰とは藍染に使う灰のことで、重孝は俗称を灰屋紹益といった。

 養父は佐野紹由、実父は本阿弥光益、養父の紹、実父の益の一字を貰って紹益と称したといわれている。

 吉野(以下、吉野という)は寛永八年(1631)、二十六歳の時、年季を待たずに三筋町を去った。

 理由ははっきりしないが、一説には重孝の計らいだったともいう。

 とにかく、重孝が吉野の身を引きとり妻とした。

 吉野、二十六歳、重孝は三つ年下の二十三歳だった。

 吉野を家に入れることに反対の養父の紹由は大いに怒り、重孝を勘当したという。

 吉野は聡明でやさしく、教養も深く、理想的な女性だったようで、彼女目当てに通う客も多かった。

 畠山箕山の『色道大鏡』の第十七巻、「扶桑烈女伝」の「洛陽」の最初に「吉野伝」が出ている。

 漢文(十七巻のみ漢文で書かれている)で次のようにある。

「(前略)徳子性軽爽、知恵深甚、霊艶而化心、活然恣気、且下情有要焉、徳子聴香得妙、亦常好酒能遊宴、言語奪人心(以下略)」

 吉野にはいくつか伝わるエピソードが残っているが、その一つを挙げる。

 重孝と、彼と吉野との仲を認めない養父の紹由との間は絶縁状態になっていた。

 そうした或る時、折からの驟雨に相遇した紹由は、とある傍の家の軒先を借りて雨宿りをしていると、中から小女が出てきて、

「よろしければ、中でお休み下さい」

 といった。

 案内されて家の中に入ると、佇いと云い、調度品と云い、まことに結構な家だった。

 暫くすると、また小女が出てきて、

「雨がなかなか止みそうにありません。私共の女主人が只今、茶を立てますので、よろしければ、一服さし上げたいと申しておりますが―――」

「忝ない。お言葉に甘えて頂戴致しましょうか」

 と紹由はいって、茶室に通されると、造りと云い、道具と云い、趣味のよい立派なもので、この家の主は如何なる人か、と唯々感じ入るところに、品のある美しい女性が現われ、

「主人が他出しておりまして、女ばかりでございますので、憚ってご挨拶にも出ませず、失礼を致しました」

 と初対面の挨拶をすませ、見事な手前で茶を立ててくれた。

 彼女の容姿、立ち居振舞、茶の手前などから、その家の主人という人は、さぞかし名ある茶人であろう、と紹由は思って、雨があがった後、厚く礼を述べてその家を後にした。

 以下、伴嵩蹊の『続 近世畸人伝』によれば、紹由がその話を本阿弥光悦にしたところ、光悦は、

「その家は、あなたの息子の紹益の隠れ家ですよ」

 といった。

 紹由に茶を立ててくれた女主人こそ、吉野だったのだ。

 その後、本阿弥光悦の仲立ちで、重孝は勘当を許され、吉野は重孝の正式な妻となった。

 重孝と吉野は仲睦まじく、相思相愛で仕合わせな生活が十二年間続いたが、吉野は病魔に冒され、寛永二十年(1643)八月二十五日に世を去った。

 重孝は悲嘆のあまり吉野に対する愛着の思い断ち難く、荼毘に付した吉野の骨灰をすべて食い尽したという。

 その時の手向けの歌、

 ――都をば 花なき里に なしにけり
 吉野は死出の 山にうつして――

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