第104話 『玉菊(二)、細見にみる玉菊』

 山東京伝の『近世奇跡考』に「中万字屋玉菊」でなく、「万字屋玉菊」とあったように、中万字屋は本来、万字屋という屋号で中万字屋というのは俗称なのである。

 というのは、当時、万字屋という妓楼が二軒あったので、角にあった万字屋を「角万字屋」、中程にある万字屋を「中万字屋」と呼んで区別していたのである。

 玉菊は、その中万字屋の抱えの遊女だった。

 玉菊がいつ遊女になったのかについては、吉原の案内書である『吉原細見』で調べるのが一番手っ取り早いが、何しろ古い時代のことであり、細見そのものが少ない上に、刊行年も明確でないものが多いので、はっきりしたことは分からないようだ。

『江戸あらかると』(花咲一男著)という本に「吉原細見の玉菊」という章があり、細見からみた玉菊の考証が出ているが、享保五年の評判記『吉原丸鑑』に出ている中万字屋勘兵衛抱えの散茶・梅茶六名と、総女郎(新造)十八名の名寄せに玉菊の名はないそうである。

 花咲氏は次のように述べている。

「玉菊は禿立ち(かむろだち)ではなく、突出(つきだし)の座敷持ちで出廓し、その時点も、享保五年の末や六年中であろう。彼女の出自と店に出るまでの経歴については、想像の糸口となる資料さえもないが、河東節の習得は遊女となる前からではないか、とも考えると、吉原五町を生活圏としていた者ではあるまいか」

 玉菊の名が出ている六冊の細見の内、刊行年がはっきりしているのは、享保十年の岩槻文庫版のもので、中万字屋勘兵衛抱えの遊女の筆頭は「れん山」で、二枚目が「花すみ」、玉菊は三枚目になっている。

 玉菊が酒のために体調を崩したのは、享保六年二十才の時である。

 パトロンの五代目奈良茂の金に糸目をつけない治療のお陰で快癒し、河東節と半太朗節を交互に聞きながら、世間の目を驚かせるような贅を尽した灸治療をしてみせたのは、享保七、八年頃で、その頃が玉菊の全盛期だったと思われる。

 享保十年にパトロンの奈良茂が死ぬ。

 玉菊の病いの再発したのが、いつなのか、書いていないので分からないが、玉菊は享保十一年三月二十九日に亡くなっているので、多分、享保九、十年頃だったと思われ、前にも書いたように、前回と同称な手厚い手当が受けられたか、どうか疑問だ。

 何しろ、金主の奈良茂がいなくなっているのである。

 病気の進行でやつれもしただろうから、れん山、花すみの二人に抜かれて三枚目に落ちてしまったのも当然の成り行きだったのかもしれない。

『江戸節根元由来記』には、玉菊について、

「きりょう十人に優れ」

とあったが、『袖草子』には、竹婦人の序に、

「妖顔霊色はまたもとめつべし」

とある。

 竹婦人は玉菊と同時代の人物で、玉菊と面識もあったと思われる。

 一方、『根元記』の方はずっと後世に書かれたもので、長い間に潤色された玉菊の虚像から美人ということになってしまったのだろう。

 玉菊が首座にあった頃の細見で、部屋持であった花すみが享保十年の細見では座敷持となり、玉菊を抜いて二枚目に上がっている。

 細見では、山型印が部屋持遊女で、入山型印が座敷持を表わす。

 トップに挙がっているれん山(恋山)について、前出の享保五年刊の『吉原丸鑑』に、

「恋山 此家(中万字屋)にて、れん山と申は、第一の名題なり。此前のれん山も、ぜんせいのほまれかくれなかりし美君なりし。今此君も、まへ方のれん山にまさりはするとも、おとるまじき女郎」

 とあることから、恋山というのは中万字屋代々の看板女郎の名跡で、この『吉原丸鑑』に出ている恋山は二代目であったと知れる。

 玉菊が首座であった頃の細見には恋山の名はなく、享保十年の細見で突然、トップの座を占めることから、突出で出てきたものと思われる。

 従って、この恋山は三代目ということになる。

 この恋山も享保十三年の細見にはその名を見なくなる。

 恐らく、金持ちのよい客がついて身受けされたということなのだろう。

「吉原細見の玉菊」は次の言葉で結ばれている。

「後代の僕達は、玉菊を回続した虚名にまどわされて、中万字屋の名跡女郎のれん山を忘れているが、楼主勘兵衛のふところを肥やしたのは、玉菊よりも代々のれん山であったことは疑えない」

『江戸あらかると』には、「吉原細見の玉菊」の前にもう一つ玉菊に関する「玉菊は太夫ではない」という章が載っている。

 吉原の三景物の一つ、玉菊燈籠でその名が有名になった玉菊は、後世太夫であったと思われていたが、実は散茶という、太夫、格子に次ぐ階級の遊女だった。

 太夫、格子は江戸中期の宝暦年間に客である大名などの高級武士階級の没落により、相次いで姿を消し、散茶が呼び出しといわれる最高級の遊女になるのだが、玉菊が廓にあった享保の前期から、太夫、格子がなくなる宝暦年間までは、まだ半世紀程の間がある。

 玉菊の吉原に於ける職級を散茶である、と説いたのは三田村鳶魚で、大正十二年二月の『中央公論』に書いた「高級遊女」が最初だという。

 明和五年(1768)序の『俳諧けい」にも、

大名ならん 玉菊が客

 とあるそうだから、その頃には一般に、玉菊は太夫と信じられていたようである。

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