第103話 『玉菊(一)、伝説』

 今の日本橋人形町、堀留の近くにあった吉原が浅草奥の日本堤の地区に移転が決まったのは明暦二年(1656)のことである。

 旧吉原を元吉原、移転後の吉原を新吉原といって区別しているが、何せ明暦といえば古い時代であり、その翌年の明暦三年に振袖火事といわれる江戸大火で、江戸城をはじめとして江戸中が殆ど灰に帰したこともあって、普通にただ、吉原といえば新吉原のことを指す。

 吉原の遊女の階級は初め、太夫、格子、端の三階級だったが、寛文(1661~1672)の頃に太夫、格子の下に散茶という階級が出来、その後更に、その下に梅茶、局など次々に新しい階級が生まれ、享保の頃には八階級になっていたといわれれる。

 即ち、太夫、格子、散茶、梅茶、五寸局、三寸局、なみ局、次。

 俗に吉原の三景物といわれるのは、三月の夜桜、七月の燈籠、八月の仁和賀狂言で、その七月の燈籠というのが、玉菊追善の盆燈籠が濫觴なのである。

 新吉原角町の中万字屋勘兵衛抱えの玉菊は、三田村鳶魚にいわせれば散茶である。

 玉菊は享保十一年(1726)三月二十九日に亡くなった。行年二十五才。逆算すると、元禄十五年の生まれである。

 その玉菊について、『江戸節根元由来記』には、

「きりょう十人に勝れ、情深く、高き卑きの上下もなく、諸事行届き、よき心底の生れ付なり、誰あしくいふものなく、茶屋裏の文使のよふなるものまでも、情をかけし也」

 とある。

 玉菊は二十才の時に病気になった。酒好きで、酒のために体を悪くしたといわれる。

 玉菊が二十才の時といえば、享保六年ということになる。

 様々な神社仏閣に祈祷祈念し、何人もの名医に掛かって漸く平癒したが、医者から、

「四花くわんもんの灸治をすべし」

 といわれた。「四花くわんもん」とは灸のツボのことだという。

 玉菊は、その灸治療について中万字屋の主人に、河東節と半太夫節を交互に聞きながら灸を据えたい、といって許しを貰った。

 日限を決め、摺り物を出し、その日は中万字屋の遊女を総仕舞いとし、部屋の境の襖をすべて取り払って、浄瑠璃を聞きにくる人達に吸物、酒肴、本膳まで出して馳走した。

 大勢の人々が中万字屋にやってきて、その賑やかなことといったらなかった。

 こんな贅沢なことが出来たのは玉菊には立派なパトロンがいたからで、『江戸真砂六十帖』に奈良茂の奈良屋茂左衛門には二人の男の子があって、兄の茂左衛門が中万字屋玉菊に通ったと出ている。

 紀の国屋文左衛門の紀文と、几帳という遊女を争ったといわれる奈良茂は四代目で、玉菊のパトロンだった奈良茂はその長男で廣といった五代目である。

 これらのことは、『江戸落穂拾』の「扇面亭伝四郎」のところに詳しく書いたので、ざっと触れて置くことに留めた。

 この五代目の奈良茂は享保十年に三十二才で亡くなっている。

 この時、玉菊は二十四才であるから、この奈良茂は玉菊より八才年長ということになる。

 享保六年二十才で発病した玉菊は治癒した後、医者の勧めで贅沢三昧な灸療治をして廓の話題を浚ったが、その頃が玉菊の全盛だったと思われる。

 やがて玉菊は病気が再発して享保十一年三月二十九日に二十五才で死んだ。

 パトロンの五代目奈良茂は前年に亡くなっており、前回同様、金に糸目をつけない贅沢で行き届いた治療が受けられたか、どうか。『江戸節根元由来記』には、

「夫より後二十五歳の時、また病気にて、終には草葉の露と消うせけり」

 とあるだけで、再発の時の治療については何も書いていない。

 玉菊については、その三回忌の享保十三年に出された『袖草子』という書がある。

 河東節の玉菊追善浄瑠璃「傾城水調子」の文句と、玉菊ゆかりの人々の追悼句が載っている。

 玉菊に関する文献としては一番確かなもので、『袖草子』によって玉菊の忌日が享保十一年三月二十九日とわかるのである。

 しかし、『袖草子』は、文化・文政の頃には稀覯本になっていたようで、その為、誤った忌日が信じられたり、玉菊の墓は『袖草子』に光感寺という寺名が出ていることから同寺に葬られたと思われたのだが、度重なる火災等で墓も過去帳も失われてしまっていたので、全く玉菊とは別人の墓が玉菊の墓として墓域が整えられ、追善法要が営まれるといった随分可笑しなことが起った。

 岡野知十氏の『玉菊とその三味線』には、次のようにある。

「玉菊燈籠が起って以来、それは年々の行事となって、やがて百年そこそこになった後の世の文化文政の時代には、燈籠に玉菊の名が伝はっては居たが、玉菊の墓所はどこか、忌日はいつか、トいふやうな事は別に心にとめるものもなかったであらう。

燈籠のつけはじめさへ、元文だの、正徳だのと、区々にいひつたへられる。

玉菊といふ名が高いだけに外の遊女の挿話までが皆玉菊のものにして、玉菊に節操があったの、自害したのといひつたへられる。

それで後世『水調子』を弾くと祟りがあるなどいはれる。

いかにも燈籠に似合はしい凄い情味のあるやうになる。

その事蹟の正しいのは明かでなくなった。尤も遊女の伝などは何もさう正確にせねばならぬほどの事でもない。

興趣のあるやうに潤色しての方がなかなか面白いといへばそれもそうであるといへる」

 続けて、

「ところが丁度百年忌時代になって、考証といふ事がいひはやされて、従って、こうした随筆などがおこなはれた」

といって、京伝の『骨董集』、『奇跡考』(『近世奇跡考』)などの書名を挙げている。

 両書共、京伝の風俗考証に関する随筆で、玉菊については、『近世奇跡考』の巻五に、「万字屋玉菊の伝」と「玉菊拳まはし」の二編が出ている。

 その「万字屋玉菊の伝」に、

「玉菊曾て河東節の三絃をよくひきしゆゑに、十寸見会蘭洲(江戸町二丁目つるつたや庄次郎)もよほしにて、かの浄瑠璃を作らしむ。

おなじ時、乾什(けんじゅう)かの袖草紙(袖草子)をあらはす。玉菊、日ごろ大酒を好み、つひに酒にやぶられ、廿五才にて死せしといふ。

かの句集(『袖草子』)に、酒の事をいふたる句おほければ、さもあるべし。

水調子の文に、その醉ざめの夢の世に、とかけるもそのゆゑなり」

 蘭洲は、元祖河東と一緒に河東節を興した初代蘭洲。かの浄瑠璃というのは、玉菊追善の河東節「傾城水調子」。作詞はすぐ後に出てくる岩本 乾什である。

 乾什は竹婦人という号で初期の河東節の作詞をした俳諧師で、貴志沾洲の門人だったという。宝暦九年(1759)没、享年八十。

 岡野知十説のように、玉菊の伝説には長い間に他の遊女のエピソードも加わって、面白おかしくなっていったのかもしれないが、自害説とか、「傾城水調子」を演奏すると玉菊の亡霊が現われるといった云い伝えなどは、実際の玉菊の死と何か関係があるような気がしてならないのである。

 つまり、二十才の時の贅を尽くした治療に較べて、病いが再発した時にはパトロンの五代目奈良茂は既に亡く、かなり哀れな状況にあったと思われる。

 全盛は過ぎ、病いでやつれた玉菊に金を惜しまず通いつめるよい客がつくとは思えない。

 前が派手だっただけに、当の玉菊も辛かったであろうが、全盛の頃の玉菊によくして貰った連中や目を掛けて貰った人々には、一そう哀れに感じられたことだろう。

 こうしたことが、自害説や亡霊説と結びついた一因ではないかと思えてならない。

コメントを残す