第102話 『四代目露友の家族』

 近喜の屋敷があった北川町というのは、現在の福住一丁目と永代二丁目の一部のようである。

 近喜の家の辺りは近江屋河岸と呼ばれていたというので、初め隅田川に面している一帯かと思っていたが、切絵図で見ると油堀西横川という川が北川町の縁を流れていて、どうやら近喜の邸はその川に面してあったので、その辺りを近江屋河岸といったらしい。

 近喜については、『史話 江戸は過ぐる』(河野桐谷編)に「北川町さんの話」と「牡丹燈籠のお露さん」の二話が出ていて、近喜の豪華な屋敷の模様やその贅を尽した暮らしぶりを窺い知ることが出来る。

 四代目荻江露友となった近喜の家族については、『荻江節考』(竹内道敬著)に家族構成表が出ているが、それによると、露友の近喜には姉(とせ)と妹(露、かめ)二人があり、子供として長男(?)と次男の弁次郎の二人の男の子があり、妻いくには、小よし、せい、はなという、少なくとも三人の養女がいたことになっている。

 しかし、「北川町さんの話」には、「露友さんには、弟さんと、お嬢さんとがありましたが、露友さんのお母さんやお父さんは、その頃いたがどうだか子供心で憶えていません」とある。

 又、その弟は弁次郎といって、浮世絵の美男みたような色男で、後に円朝の牡丹燈籠の話の種になった、とあるから、弁次郎は露友の子ではなく弟なのである。近江屋の主人は代々喜左衛門を名乗るので、前代の近喜と露友の近喜を混同したのかもしれない。

 長男(?)は実は露友の近喜なのである。「北川町さんの話」には露友の姉妹のことは書いていないが、語り手が近喜の邸に出入りした頃には、既に姉妹達は嫁いだ後だったのだろう。

 更にちょっと疑問なのは、同話の続きに、「北川町の屋敷を渋沢さんに売って、柳橋のおいくさんの所にはいってしまい、たくさんの子供が出来たのです」と出ていることで、「沢山子供が出来た」とあるのだから、養女もあったかもしれないが、実子がいても不思議ではない。

 又、露友の近喜には娘があって、原庭という質屋に嫁いだ、とあるのは、いくと一緒になる前のことだから、露友には前妻があったことになるが、因速寺の過去帳でそれらしい人物を捜すと、

  貞操信女 安政二年十月廿六日
  妙無禅尼 明治五年二月廿三日

 の二名だが、安政二年といえば、露友の近喜はまだ廿才である。

 妙無禅尼の方は、禅尼という法名から、先代近喜の妻、つまり、露友の母の可能性の方がありそうだ。

 露友が若くして結婚し、その妻が娘を出産して間もなく死んだものとすれば、この貞操信女という女性かもしれないが、そうでない可能性、例えば露友の若死にした妹ということもあり得る。

 そうだとすると、露友は前妻とは離婚したことになる。

 明治以後の因速寺の過去帳を挙げると、

  妙無禅尼 明治五年二月廿三日
  道意信士 明治十七年六月丗日(露友)
  智敬童女 明治十一年八月十一日
  兎一信士 明治廿六年十一月廿一日
  妙福信女 明治丗五年十二月十二日
  妙意信女 明治丗六年七月廿五日(いく)
  妙悟信女 大正二年七月廿七日

 葬種の欄は、前半はすべて不詳となっているが、明治以後はすべて火葬とある。

 右の中で、智敬童女の忌日が露友の道意信士と年月が入れ替って年代順になっていない。

 又、過去帳の下の空欄に次のような書き入れがある。

  大正二年七月廿七日
  得舩院聞法日悟善(?)女人
  右ハ飯嶋直次郎ノ妹ニテ
  他寺ヘ埋ム

  昭和七年六月廿日
  釋真證居士

 前の方の「大正二年――」の悟善(?)女人というのは、戒名が違うが忌日が同じなので、妙悟信女のことと思われる。

 現在、飯嶋家の墓は無縁になっているが、その最後の人物がこの妙悟信女である。(飯嶋と飯島は紛らわしいので、以下特に飯嶋とある以外飯島で通す)

 俗名、年令は不明だが、この飯島家の過去帳の最初の欄、妙勝信女、延享五年五月十一日、とある下の所有者欄に「飯島寿美」とある人物である可能性が高い。

 そうだとするち、『荻江節考』にある露友の妻いくの養女、小よしということになる。

 同書には、寿美(すみ)は小よしの本名とある。

 露友の没後、妻のいくは柳橋で守竹家という芸者家をやりながら、荻江を教えていたようだが、『荻江節考』によると、守竹家には少なくとも、寿美、せい、はな、という三人の養女がいた、としている。

 しかし、この妙悟信女が、小よしの寿美であるか、ないかに拘らず、彼女は飯嶋直次郎なる者の妹であって、それと共に、飯嶋姓を名乗る人物が他にいたということになる

 直次郎は、露友といくの間に出来た子供なのだろうか。「昭和七年――」の 釋真證居士というのも全く不明。

 『荻江節考』の露友の家族構成表は、中川愛氷著の『三絃楽史』に書かれていることを基にしているので、同書をみると、いくが亡くなった後、守竹家を継いだのは寿美(小よし)なので、寿美が長女だったのかもしれない。

 せいについては、せいの孫に当たる赤羽紀武氏から御連絡頂き、ある程度はっきりした。

 せいは神田松下町の赤羽武次郎という医師の許に嫁いだ。赤羽氏は荻江の唄に惚れ込んで、いくの娘を貰ったのだという。

 そんなことだから、自分でも荻江を唄い、中川愛氷氏によると、「素人にしては旨すぎる」腕前だった、とある。(『三絃楽史』)

 お孫さんの赤羽紀武氏は歌舞伎座の顧問医をしておられる方だが、おじい様が荻江をやっていたことを御存知なかったようだ。

 せいは昭和十六年、六十六才で亡くなった由だが、享年を数え年として逆算すると明治九年生まれとなる。

 いくは柳橋で政吉という名で左褄をとっていた。成島柳北の『柳橋新誌』の第二編に、柳北が八、九年前の文久二年(1862)に友人で詩人の柳河春三と柳橋で遊んだ時、芸者二十四人を花に譬えた詩を詠んだことを回想して、

 

「而して当今存する者は唯阿幸、菊寿、政吉[今阿郁と稱す]阿蓮四人耳」

 といっている。

 柳北の同書の第二編は明治四年の刊行だから、その頃には政吉はいくとなっていた。

 ということは、既に露友の世話を受けていたものか。弘化二年生まれのいくは明治元年には二十四才になっている。

 因みに、当時の政吉は燕子花(かきつばた)に譬えられている。

 せいの妹のはなは、ある人の妾になったと『三絃楽史』にある。

 又、この寿美、せい、はなの他に、富本豊志太夫となった、戸倉某という者がいくの娘を妻とした、と出ているので、名前はわからないが、他にも娘があったようだ。

 「北川町さんの話」に、「沢山子供が出来た」と出ていることを考え合わせると、彼女達は養女ではなく、露友といくの実子であったとも考えられる。

 『三絃楽史』を見ると、露友の姉妹の系統には荻江をやっている者が多いが、いくの子供達は殆ど荻江とは無縁だったようだ。

 露友の近喜が誰から荻江を習ったのか。

 家元の権利は吉原の玉屋様三郎の家にあったと思われるが、それを取得した経緯など、今以て不明である。

 露友の姉妹が荻江をやっていたということは、露友が教えたとも考えられるが、彼が家元になる以前に近江屋河岸の邸に誰か荻江の師匠が出稽古に来ていた可能性も否定出来ない。

 円朝の「牡丹燈籠」のモデルになったという露友の弟の弁次郎は、「北川町さんの話」に、「終に、この人は、その頃でいう蝦夷に行って、それっきり行方不明になっという話を聞きました」と載っている。

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