第101話 『四代目荻江露友家の家譜』

 四代目荻江露友を継いだ近江屋喜左衛門こと近喜は本姓を飯島と稱した。

 近喜については不明のことが多いが、近喜の生家、近江屋は深川北川町の豪家で、玄米問屋を営んでいたといわれる。

 しかし、その近喜以前の飯島家に関して書かれたものは殆ど見たことがない。

 近喜の墓は江東区東砂の因速寺にある。

 私が同寺を訪れたのは一昨年(平成十九年)の夏のことだった。

 因速寺は改修の真っ最中だった。

 応対に出て下さった女性の方に近喜の墓へ案内して頂いたが、近江屋については大奥さんがいろいろ御存知なのだが、その日は外出されていて御留守、とのことだった。

 頂戴してきた同寺のパンフレットを見ると、四代目露友のことも出ていたが、私が調べたのと違うところもあったので、拙著をお送りしたところ、大奥さんの武田幸子さんから御礼の電話を頂いた。

 その時のお話の中で、五月に長野県安曇野の井口喜文という方が近喜の墓を訪ねてみえて、近喜の飯島家は井口家から出た、という話をされた由を伺った。

 もう一度改めて因速寺に伺って、委しくお話を聞きたいと思いながら忙しさにかまけて、アッという間に一年が経ってしまった。

 この京扇堂HPの連載が百回を迎えるに当たって、切りがよいので百回までをまとめて上梓するつもりで、最後の百回目は今まで拘ってきた荻江節か河東節のことを書く予定だったが、「浮かれ蝶」の稿が予想外に長くなって一回分超過してしまった。自分の年令を考えると、これが最後の一冊になるかもしれないので、敢えて予定通り、新刊の最後に近喜の飯島家のことを取り上げて、締め括ることにした。

 昨年の十月の末に因速寺を再訪し、武田さんに初めてお目にかかり、飯島家の出自に関するお話を伺って帰った。その時のメモから筆を起こしたが、確かめたいことが出てきて武田さん宛に二、三度お電話したが、お忙しいようでなかなか連絡がとれなかった。

 やっと電話でお話が出来て、御多忙中にも拘らず、大変貴重な資料を送って下さった。

 それは、井口氏が作成された飯島家の歴史年表と古文書の写しの二種の書付と因速寺の過去帳のコピーである。

 近江屋の家の主人は代々、喜左衛門を名乗ったようである。

 喜左衛門家が出た井口家は、長野県の穂高宿の問屋職で、初代は元禄の頃に井口家から分家して等々力町村の庄屋を勤めたという。

 この喜左衛門家の四男として享保八年(1723)に生まれたのが、後の初代近喜である。

 井口氏の資料では、井口家から分家したのは井口喜左衛門で、初代近喜の喜左衛門はその四男なのだが、長男ではないのに、喜左衛門を名乗っているのに多々の疑問を感ずるが、一応資料のままにしておく。

 その当時、喜左衛門家は甲州や江戸へ煙草を販売していた。

 初代近喜は享保十九年(1734)十二才の時に江戸へ出てくる。

 宝暦六年(1756)江戸大火の時、米穀と材木を商って五千両を儲けた。

 しかし、その後、商売の方は振るわなかったが、数年後、幕府の請負工事に応募して永代橋下の暗礁を除去して船運の便を通じ、三千両を儲けた。時に近喜、三十三才。

 明和元年(1764)、東照宮百五十年に当たり将軍家治の日光参詣に際し、江戸より三十余里間の路傍の土手を直し、芝の代わりに稗を植えるという機智を発揮して、五千両余の利益を得た。近喜、四十二才。

 このようにして資産を次第に増やし、深川北川町に土地を買い屋敷を構えた。いつから近江屋と稱したのか、また信州出身の近喜がなぜ近江屋となったのかは不明。

 安永から天明にかけては、資産は三拾万両を超え、田安、清水、一ツ橋の三卿をはじめ、相馬、脇坂、堀田、細川等の諸侯や大小二十数藩の御用達をつとめたという。

 天明四年(1784)、近喜、六十一才の時、家督を養嗣子の喜平次に譲り、故郷の穂高宿に家を建てて隠居する。近喜には子がなく、兄の半蔵の次男、喜平次を養子にしたが、その喜平次は後に離縁となり、郷里に帰って江戸家と稱した。(或いは、近喜には子があったが、早逝したのかもしれない)
 穂高宿に帰った近喜は、松本藩主の戸田侯より御用達を命じられ、松本東町に移った。

 寛政二年(1790)、松本城本丸普請のため、千両を寄進し、一代苗字御免を許される。近喜、六十七才。(この時、飯島という姓を名乗ったと思われる)

 寛政十一年(1799)、近喜、七十六才。藩に金子を用立て、一代七人扶持を貰う。しかし、その後、藩との折合いを欠き、屋敷を藩に納めて江戸に帰った。(多分、再三にわたる藩の金の無心にあって応じかねたものと思われる)

 近喜は文化六年(1809)、深川北川町の屋敷で亡くなった。享年、八十六才。

 以上が、井口喜文氏の初代近喜に関する書付の概要である。参考資料として、『長野県史近世史料編、5』、『穂高町史』、『南安曇郡誌』、雑誌『信濃』(小穴芳美氏)、山田実氏(喜左衛門の江戸活動調査)の名が挙げてある。

 井口氏の書付のもう一枚は、活字化されている古文書の写しで、近喜が江戸板橋宿から松本保高(穂高)町村まで行く通行手形で、発行人は江戸浅草本願寺門跡留守居、原山専右衛門で、「先触」とあり、その下に、宿々問屋役人中、船川役人中と出ている。文面は以下の如くである。

「本願寺御門跡御内 飯嶋了喜 本馬一疋
 印 軽尻一疋 人足十三人
 右者明後廿九日朝江戸出立信州松本領保高町村迄旅行之事候宿々書面之人馬差出之船川無滯可被取計候為其先触如此候」

 その後に、

「江戸浅草本願寺門跡留守居 四月廿七日
 原山専右衛門(印)
 板橋宿より中山道より上田通り信州松本領保高町村迄 右宿々 問屋役人中 船川役人中」

 この書面の解説が付いているが、「先触」とは、公用等の旅行者のために前もって宿駅に人馬の継ぎ立てや休息の準備をさせた通告書、「本馬」とは荷物を運ぶ馬、「軽尻」とは人が乗って荷物はつけない馬。

「飯嶋了喜」については、喜左衛門、本願寺の旦那とあり、前に書いた近喜の経歴が載っているが、ここでは井口喜左衛門家の四男ではなく、二男となっている。

 又、 飯嶋了喜となっていることについて、本来は井口姓だが、親戚の細萱の母方の飯沼の「飯」と、牧村の祖父方の宮嶋の「嶋」をとって「飯嶋」と稱した、という。

 細萱、牧村は地名と思われる。これによると、飯島ではなく飯嶋が正しいのかもしれないが、一応今迄通り、ここでは飯島で通すことにする。

 近喜は松本東町に居住の頃、真宗の正行寺の住職、佐々木了秀師の弟子になって、了喜と改名したという。

 井口氏の資料はこれで全部で、以上がその要約である。

 ここでは、初代近喜は文化六年に亡くなったことになっているが、因速寺の過去帳では、文化十一年八月廿四日となっていて五年の差がある。

 因速寺の過去帳は、上から、埋葬者の戒名、埋葬年月日、葬種、所有者、改葬年月日の項目が載っているが、葬種は一例を除いてすべて不詳となって、改葬年月日の項も殆ど記載がない。また所有者については、近江屋の過去帳に出てくる最初の人物、妙勝信女は延享五年(1748)五月十一日と埋葬年月日が記されているが、その下の所有者の欄に、飯島寿美、とある。

 飯島寿美は四代目露友の妻のいくが露友の死後、柳橋で守竹家という芸者家を営みながら荻江を教えていた、その守竹家の養女といわれている。

 従って、この因速寺の過去帳は元の原本からの写しであるのかもしれない。

 過去帳の十一行目に、了喜禅門、文化十一年八月廿四日、とあるのが、初代近喜に違いないから、もし文化十一年没とすると、享年は九十二才になる。

 或いは、これは埋葬年月日であって、所縁のある松本の正行寺あたりに埋葬されていたものを改葬した日付なのかもしれない。  四代目露友の近喜が飯島家の何代目に当たるかを過去帳から調べてみると、初代了喜禅門の後に出てくる男性の法名は、

 明願禅門、文政九年(1826)四月十二日
 了実信士、天保十三年(1842)六月十九日
 遷兎信士、慶応元年(1865)五月十六日
 道意信士、明治十七年六月三十日

 この道意信士が四代目露友の近喜である。

 その四行後に、妙意信女、明治三十六年七月廿五日、とあるのが、露友の妻のいくである。

 初代近喜には子がなく、兄の子の喜平次を養子にしたが、後に離縁になっている。その時期は不明だが、家督を譲ったのが、天明四年初代が六十一才の時であるから、少くとも三代目はそれ以後に又、養子として迎い入れたものと思われる。

 長命であった初代の存命中に三代目が亡くなることも考えられるが、天明以後、文化十一年に了喜禅門の名が出てくるまでに、男の法名はない。とすると、次の文政九年に記帳のある 明願禅門を三代目と考えてよさそうである。それでいくと、露友の近喜は六代目となる。勿論、前記の故人がすべて近江屋の当主と仮定した上でのことである。

 露友の近喜は天保七年(1836)生まれであるから、彼の父親の忌日はそれ以後でなくてはならない。

了実信士は天保十三年没、 遷兎信士は慶応元年没。前者とすると父が亡くなったとき、露友の近喜はまだ七才である。そう考えると、後者が父である可能性が高く、前者は祖父なのかもしれない。

 四代目荻江露友について書かれているものも少ないが、その露友が出た飯島という家については殆ど知られていなかった。

 すべてはっきりしたという訳ではないが、ある程度のことがわかったのは、因速寺の武田幸子さんのお陰と深く感謝している。    

コメントを残す