第100話 『浮かれ蝶(三)、柳川一蝶斎』

 ギリシャ、パルテノン神殿のレリーフなどで知られている、大英博物館のエルギン・コレクションは、イギリスの政治家で外交官だったトーマス・ブルース・エルギンがギリシャから英国へもたらしたものである。

 安政五年(1858)、日英修好通商条約締結のため来日したジェームズ・ブルース・エルギンはトーマス・エルギンの息子である。

 彼も父の跡を継いで外交官、政治家として活躍した。

 ペリーがアメリカ大統領の国書を持って来航したのは嘉永六年(1853)のことである。

 それに対して幕府は回答を一年延期し、翌年再び来航したペリーに、漂流民の保護、薪水食料の供給は認めるが通商は不可、と回答し、三月に日米和親条約を締結、次いで各国と次々に和親条約を結ぶ。

 安政五年、井伊直弼が大老に就任すると、反対派の世論を無視して六月にアメリカと勅許を得ずして日米修好通商条約に調印、爾後八月にオランダ、ロシヤ、英国、九月にフランスと通商条約を締結した。

 これらを安政の五カ国条約といわれている。

 この日英通商条約締結の全権大使として来日したのが、J・B・エルギンで、今年平成二十年は安政五年以後百五十年目に当たり、日英通商百五十周年を記念してチャールズ皇太子夫妻が来日されたのは、つい最近のことである。

 J・B・エルギンに同行して訪日した秘書のオリファントという者が、『エルギン卿遣日使節録』という日本滞在記を書き残していて、それによると、条約の調印が済んで帰国する前に日本の手妻を見たことが出ている。

 日本側の関係者との宴会に先立って余興として、相撲取り、独楽回し、奇術師が来ることになっていたのだが、力士と独楽の芸人は現われなかった。

 同席していたヒュースケンはその両方を見たことがあって、力士の演技(相撲)は人間の闘牛のようなもので、見ていてあまり気持ちのよいものではない、と云い、独楽回しについては、ありふれた遊び道具を実にうまく操作し、特に張った綱の上で踊るように独楽を綱伝いに回す芸は見事だ、といっていた。

 このヒュースケンは文久元年(1861)一月、攘夷浪士に襲われて死んだアメリカ公使館員で、ハリスの書記兼通弁官として日米通商条約締結に活躍した人物で、その後オランダ語の通弁(彼はオランダからの帰化人)としてエルギン卿の日英通商条約やオイレンブルクのプロイセン(ドイツ)の対日交渉の支援をしたといわれている。

 予定していた余興がなくなって、ちょっとがっかりしていたところに奇術師がやって来たので皆ホッと失望から救われた。使節団の宿舎である寺のエルギン卿の居間を舞台にして、観客はその前の庭に並べた席に腰を下ろした。

 奇術師について、『遣日使節録』(岡田章雄訳、雄松堂書店)には次のようにある。

「その奇術師は品のいい老人で、目が鋭く、立派な聡明な顔立ちをして白いあごひげを長く伸ばしていた。

 この国でこれほどすぐれた容貌を見たことはなかった。その衣裳は、エジプトの魔術師がふつう着ているものとよく似ていた。

 その風采を増すのに実にふさわしいものだった」

 彼の奇術はまずは、浅い空箱の中から様々な物をとり出してみせることから始まった。次いで、扇の上の卵に口を付け、その中に少量の綿を入れ、それを数本の傘に変えてしまった。

 しかし、これらの奇術は西欧ではよく見られる手品であって、特に珍しいものではない。

「奇術ではなく、非凡な技??を発揮してわれわれを感服させたのは、有名な人口の蝶の演技であった」

 として、その蝶の演技を次のように説明している。

「その蝶はきわめて簡単な方法で作られた。

 一枚の紙を裂いた細長い紙片だけだった。

 これらの紙片をさらに裂いて小さな長方形にしたものを中央でひねると、それで大体胴と二枚の羽ができる。

 それからこの即席の蝶の二羽が、空中に吹き上げられ、下で動かす扇の作用でそのまま浮いている。

 二羽が別々になってしまうことを防ぐためばかりでなく、その動きを好むままに導くために、きわめて注意深く、また科学的に操作することが肝要である。

 さて蝶は、たがいにたわむれ、後を追うかのように高く舞い上がり、たちまち寄り添い、たちまち遠ざかる。

 同じ扇が二羽の上にそのように働くのか不思議である。

 それから二羽はそろって近くの灌木の葉の上に羽を休めるというところだが、もっと奇妙なことに、その扇の端に静かに止まるのである。

 この所作が、演技者に要求していた激しい注意力は、その芸が、観客に取っては実に容易なように見えても、それがあらゆる技術の訓練を呼び起し、また上達の域に達するまでに、疑いもなく長い間の練習を含んでいたことを示していた」

 この紙の蝶の手品は明らかに「浮かれ蝶」である。

 とすると、この白いあごひげの手品師は元祖柳川一蝶斎と思われる。もっとも、元祖一蝶斎は弘化四年(1847)に豊後大掾を受領して一蝶斎の名を譲っているので、この安政五年(1858)時は柳川豊後大掾藤原盛孝となっている。

 前回、元祖一蝶斎の生まれを文化元年と推定したが、そうだとすると、安政五年には五十五才になり、白いあごひげがあっても可笑しくない年頃といえそうだ。

 更に、次のように書かれている。

「その演技を続けている間、奇術師は例の親愛の態度で絶えずしゃべり続けていた。

 そして委員達の間に巻き起こした爆笑やヒゴ(HIGO)を笑わせた限度から判断して、彼の言葉はよほど滑稽な性質のものだったに違いない。

 もっとも彼は、終始きわめて冷静な謹厳な態度を保っていた」

 委員というのは条約の調印に係わった人達で、ヒゴというのは肥後で、岩瀬肥後守忠震のことと思われる。

 列席者の中にもう一人、シナノノ(SHINANONO)という日本人が出てくるが、これは信濃で、外国奉行井上信濃守清直である。

 信濃守は川路聖謨の弟で当時五十才、文中に「実に謹厳な老人である信濃守」と書かれている。

 多少脱線したが、元祖柳川一蝶斎の風貌、家、芸風など、この記事から知ることが出来る。

 二代目一蝶斎については前にも書いたように、元祖一蝶斎の子というが、今のところ、全く情報がない。

 三代目一蝶斎はパリ万博に行った柳川蝶十郎が明治になってから襲名した。

 蝶十郎はパリ万博後、外国の興行師に雇われてオーストリアまで足を伸ばし、ヨーロッパを巡って明治二年に帰国した。

 しかし、維新後間もない世の中がまだ不安定な時代、手品で食べて行くことは難しかったようで、印刷局の職工になって糊口をしのいだという。

 帰朝後、蝶十郎は名を蝶柳斎と改め、その後、三代目柳川一蝶斎を継いだ。

 明治六年九月に浅草蔵前八幡神社境内で、「英国ロンドン手品」と稱して、「人間の首切り術」を演じて大評判をとるが、まだ蝶十郎となっている。ヨーロッパを巡業中に仕入れてきたネタだが、これが我が国最初の西洋輸入奇術の公演といわれている。

 しかし、この公演は、『明治奇術史』によれば、「英国ロンドン手品」と稱したことはその通りだが、「人間の首切り術」ではなく、鶏の首を切り落してつなぐと又生えかえる、菜種を播くと芽がふいてくる、雪を降らして氷を作る、帯を切ってつなぐ、等々を演じてみせたという。

 いつ頃一蝶斎を襲名したのか、はっきりしないが、明治九年七月に英国人ヘンリイ・ブラックと一緒に柳川一蝶斎が茅場町と浅草馬道の寄席に出演しているから、「英国ロンドン手品」で評判をとって間もなく襲名したものと思われる。

 明治二十五年七月には鍋島侯邸で明治天皇の御前でその妙技を披露して大いに面目を施した。

 三代目柳川一蝶斎は明治四十二年三月十七日に日本橋本材木町一丁目の自宅で亡くなった。享年六十三才だった。

 本名を青木治三郎と云い、元神田平永町の金物屋の倅だったという。

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