第80話 『荻江節の作曲者(二)、川口お直』

花柳園山三郎が新しい荻江を創る運動を起したのは天保の末頃と思われる。

前出の『荻江節考』に、弘化二年(1845)になって、それまで二、三人だった荻江姓を名乗る吉原の男芸者が急に六名に増えた、とある。天保十六年は十二月になって弘化と改元になったので、月が明ければ、もう弘化二年である。

又、同書には、山三郎は企画者であって、実際の演奏や作曲をしたのは荻江里八ではないか、としている。里八は、清元は清元斎兵衛、一中節は菅野里八として活躍した人物である。

私が川口お直が山三郎の荻江の運動に一枚加わっていたのを発見したのは、幕末の見立番付を調べていた時で、『藤岡屋日記』の弘化三年(1846)三月のところに出ている『東都 贅沢高名花競』という番付の中である。『藤岡屋日記』には番付そのものが載っている訳ではなく、その内容が箇条書きにしてあるのだが、その中に、

「橋場 古今まれもの 川口荻江唄」

と出ている。

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橋場の川口といえば、お直の店であり、『せんすのある話』の第三十一章に料理屋の見立て番付を載せて置いたが、その西の大関にランクされている有名店だった。

お直については、『江戸落穂拾』第十一章にも書いて置いたので、此処では重複しないように補足して置くことにする。

五世清元延寿太夫の『延寿芸談』に、「川口なほさん」という項があり、お直のエピソードなどが載っているが、前に書いたことやあまり関係がないと思われることは除外して、次に挙げる。

「清元の中でもっとも大物とされているのは、「梅の春」と「北州」で、これは作が結構なばかりでなく、作曲は川口なほで実によくできている。なほは初め吉原の芸者だったが、後に忠七という者と一緒になり、両国薬研堀に洒落た留守居茶屋を開いた。この忠七の兄が諸侯へ出入りの大源という茶道具屋だったので、川口の料理屋では格別の食器を使用した。それで大そう評判になった。
そのうち、忠七が深川古石場にあった岡場所へ大津屋という遊女屋を開業し、大津屋古石と名乗って河東節や一中節を相当に語ったものという」(要約)

大津屋古石について、池田孤村(画家、酒井抱一の弟子)の門下、胝狐仙の著『諸芸小伝』に、

「大津屋古石、深川古石場妓楼のあるじ、妻奈保。チクメイともまた鼻ともいう。天保中没。夫婦とも中興の一奇人なり」

と載っているとある。

「初代斎兵衛は腕がよかったので、新宿から連れてきて清元へつけたのはおなほで、太兵衛(二代目延寿太夫)が名人と言われるように偉くしたのもおなほである」

忠七がなくなったのは天保三年(1832)三月十四日で、お直が没したのは弘化二年(1845)十一月二十六日である。享年は不明であるが、お直については前に書いたように、他の資料から七十才位だったと推定される。

初代の斎兵衛は初め清沢萬吉と云い、文政三年(1820)十一月に斎兵衛と改名、天保四年(1833)に隠居して斎寿と名乗った。天保の末年に没したという。

二代目斎兵衛は荻江里八が継いだ。里八は初め、荻江と一中節をやっていたが、後に清元延寿太夫(二代目)の許に入り、二代目延寿の目にとまって、初代斎兵衛が隠退した後を襲って二代目斎兵衛となった。里八の斎兵衛は作曲の名人で、小唄にもその才能を発揮、「雪は巴」、「筆のかさ」など、名曲を残している。また、清元お葉が、「散るは浮き」、「あの花が」という小唄を作曲したとき、その替手をつけたのは里八だということである。里八の二代目斎兵衛は慶応三年(1867)に死んでいるので、前出の『荻江節考』に三代目斎兵衛とあるが、これは二代目の間違いではないだろうか。

お直が橋場へ移ってきたのは夫の忠七が亡くなった後のようである。天保七年(1836)にお直が楓樹を数百林寄贈して向島の土手に植えたことを刻した石碑のことは、『江戸落穂拾』第十一章に館柳湾撰の碑文共々挙げておいたが、その碑文の冒頭に、「石浜酒楼主娼、姓川口氏、名那保」とあるので、その頃は既に橋場に料理屋を開業していたことが分かる。石浜は橋場辺りの古名である。

弘化四年(1847)八月の日付が或る三升屋二三治の『貴賤上下考』の「川口おなほ」のところに、「今橋場に家残りて、養子忠七、川口の名を残す」とある。お直は養子に亡夫の名を継がせたようだ。前出の川口の名が載っている見立番付は安政六年(1859)板であるから、お直没後も結構川口は流行っていたものとみえる。

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『延寿芸談』には、お直のエピソードがいくつか出ているが、その中の一つ。

「お直はその顔付と猫背であったことから猫という渾名だった。又、ひどい白髪だったため、その髪を染めたり化粧をするところを人に見られるのをひどく嫌って、身だしなみをととのえる時には一間を閉め切って、そこで化粧をした。
ある時、清元斎兵衛がなにかの用事があって川口へやってきた。
斎兵衛は小僧時代から常にお直のところに出入りしていたので、とあるので、この斎兵衛は二代目の里八の斎兵衛だと思われる。
斎兵衛は別に案内も乞わず、つかつかと奥の間に通ったが、お直の姿が見えないので、「お内儀さんは?」とお勝手へ訊きに行くと、女中が、「茶の間でなければ次の間でしょう」というので、次の間の襖をガラッと開けると、お直は一生懸命髪の手入れの最中だった。
斎兵衛はすぐ襖を閉めて、茶の間で待っていると、暫くして、化粧をすませたお直が静かに襖を明けて、にゅうっと顔を出して、斎兵衛に、
「なんぞ見たか、見たであろう」
といったという。
猫という渾名のお直が、化け猫のセリフをそのまま云った訳である。
それから、斎兵衛が、
「あなたもすっかり老い込みましたねえ」
というと、お直は、
「ふん!いつお前追い出したい」
と云ったそうで、偉い見識だったという(要約)

お直の弟子に清元延津賀という堀(山谷堀)の師匠があった。延津賀は、為永春水の『梅暦』にも実名で登場し、米八と仇吉の喧嘩の仲裁をしたりしている。

「ある時、長府の殿様、毛利元義公に招かれて、お直と延津賀が伺候し、一段語ることになったが、毛利家の奥女中が延津賀が酒好きなのを知っていて、気を利かせて茶の代わりに酒を出したので、延津賀は酔ってお直の語っている間に撥をとり落としてしまった。お直は怒って、持った扇で延津賀の頬を打った」

毛利元義は清元「梅の春」の作詞者といわれている。『江戸落穂拾』の「梅の春」のところに委しく記したので畧すが、『延寿芸談』では、五世延寿太夫の聞いたところでは、と断わって、蜀山人が「北州」と同様に作詞し、お直が作曲したと伝えられている、とある。

「又、お直と延津賀が大名の婚礼に招かれ、「北州」を演奏することになったが、「背中合わせの松飾り」という文句が、帰る、戻るなどと同様婚礼にふさわしくない言葉といわれ、即座に、「軒に賑わう松飾り」と語ったという」

お直と夫の忠七の墓は深川閻魔堂近くの心行寺にあるそうである。忠七の兄、大源は伊藤源兵衛といったらしいが、源兵衛の二女、琴は松平不昧公の奥に勤めていたという。お直には義理の姪にあたる。

不昧公とは茶人大名として有名な松江藩主松平治郷で、茶道具屋の源兵衛は松江松平家にも出入りしていて、その関係で娘を奉公にあげたものと思われる。不昧公の父で先代藩主の松平宗衍は富本節の後援者だったが、不昧公は清元贔屓だったことは前に書いた。

初代延寿太夫の子で巳三次郎といった太兵衛は文化十三年(1816)十五才の時に不昧公の御前で元服して栄寿太夫という名を与えられたが、そのように、松江の松平家と清元の家やお直の一族とは深い関係があったようだ。大源の娘の琴は、後に河竹黙阿弥に嫁いだ。その娘が晩年の宇治倭文(都一静)の許に入門して一中節を習ったお絲である。

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