玉琴姫と小敦盛(たまことひめとこあつもり)
御影堂の扇(みえいどうのおおぎ)

文:西川照子  写真:永田 陽

創業天保三年(1832) 六代 眞阿弥京扇堂 齊木俊作氏
扇塚….五条の御影堂

昔、表看板として便われていた扇(齊木眞氏)

「京は五条の橋の上、大の男の弁慶が、」—そう京は五条の橋の上では、弁慶さんが牛若丸から太刀を奪おうと、薙刀を振り上げている—そんな昔話が甦る、京は五条橋。

いえ、今は、全りと昔の面影なくして、かつてここが下寺町と呼ばれ、寺々が立ち並ぶ所であったことも思い出せないような—それでも、五条の交叉点(五条通と河原町通)の東南には尼寺の竹林院、その南には、京は因幡葉師の伝説の主人公・橘行平、そして在原業平の兄・在原行平伝承を持つ等善寺があり、そして、コンクリートの巨大な通路となってしまったものの、”五条橋”の畔には、「扇塚」がある。

なぜここに「扇塚」?
昔むかし、ここに五条は御影堂という時宗の寺院があった。正式名、新善光寺。しかし京の人は、ただ”御影堂”といえぱ、この時宗の寺を指した。今、その場に立って、聞こえるものは、車の疾駆する音。御影堂は滋賀県木之本に移って、今はない。その跡地はガソリンスタンドである。

玉琴姫….捨て子の小敦盛

時宗の寺・御影堂では、扇を仕立てていた。美しい女人が、美しい扇の絵を折っていた。女人は時宗の尼である。出家しているが有髪で、夫を持つものもいる。
なぜ、この寺では扇を折るのか。それには深いふかい理由がある。
源氏と平氏が争っていた時代。熊谷直実蓮生房(くまがいなおざねれんしょうぼう)という武人がいた。戦さの最中である。殺さねば殺される、或いは主の為には命を捨てる覚悟で戦さに出向く、そういう中で、熊谷直実蓮生房という人は、悲劇の主人公となってしまう。彼は弱冠十六歳の若者を殺してしまったのである。若者の名は平敦盛(たいらのあつもり)—平家の公達である。その顔は女人のように美しく、まだまだ幼い。しかも直実が手に掛けようとする瞬間、すこしも恐れず、キッと睨んで死を覚悟している立派さ。我が子と同い年というのも、前世の因縁か。直実は敦盛の首をとる。
敦盛には、妻子がいた。妻の名は、浄土宗・金戒光明寺塔頭・蓮池院の伝承では幼名を清照姫、また玉織姫・玉琴姫。大納言源資賢(みなもとのすけかた)の養女という。

「古浄瑠璃」の『小敦盛』では、二条大納言按察使(あぜち)資賢卿の娘とある。蓮池院には、子の伝承はない。しかし室町の御伽草子以来、直実と敦盛の悲劇を扱う物語には、子が存在する。名を「ほうどう丸」という。但し、この名は殆ど表われない。敦盛の子故、「小敦盛」と通称される。
室町のものがたりでは、母は、その子が敦盛の御子と解れば殺される、と思い、捨てる決心をする。

その捨て子を拾うのが、法然上人、そして養育するのが、何と、世の無常を感じて法然の許で出家していた熊谷直実蓮生房なのである。もちろん、直実は赤子が敦盛の子とは夢にも知らない。しかし、或る日、母子は、法然の説経の場で再会—直実の悲劇は一層深い。しかしこの悲劇は、直実一人のものではない。法然も辛い、母も哀しい、子も寂しいと、みなみな涙の中。その中で、母は出家—一時は八瀬の奥に庵を結ぶが、都恋し、子恋しと洛中に出て御影堂という一宇を建て、そこで念仏三昧の生活。子の「小敦盛」も出家し、後に立派な僧になったという。
古浄瑠璃『小敦盛』には、母が御影堂で扇作りを始めたことが記される。
「やせの山かにとりこもり、しはのいほりをむすひあけ、そこにも心たまらす、都へのほり、寺をたて、寺のなをは、みゑいたうとかをうち、てっからあふきをおらせ給ひ」。
御影堂の方の伝承では、この寺は後嵯峨天皇の皇子建立という。皇子の出家名は王阿弥陀仏。この王阿を頼って、小敦盛の母は出家。如仏尼(にょぶつに)と称した(法名・蓮華院生一房如仏尼)。或る時、王阿が原因不明の熱病にかかった。如仏尼は熱をさまそうと扇で風を呼んだ。すると忽ちにして王阿の病は癒えた。それが契機で、御影堂では、女人たちが扇を作るようになったという。初めは、総ての工程を御影堂でしていたのかも知れないが、近世、特にその名を高くしてからの「御影堂の扇」は、「折り」とある。現代の扇屋の如く最終工程、仕上げをしたのであろう。

眞阿弥….持阿弥浄円

かつて、この御影堂を中心にして、多くの扇屋が軒を接していた。それらの扇屋は、阿弥を称した。『都の魁(さきがけ)』(明治十六年/一八八三)にも、「底阿弥(ていあみ)」(五条寺町西入ル御影堂内西側一軒目)、「永正庵林阿弥」(五条寺町西入ル御影堂内)、「泰昌庵量阿弥箕田源吉」(京五条寺町西入ル御影堂内)と、おそらく塔頭であったと思われる立派な店構えが描かれる。まだまだある。「御影堂内」という住所に阿弥を称する扇屋がある。「珠宝庵香阿弥こと清水友太郎」「乗阿弥岩次郎」「持阿弥浄円」。こちらのお店のご先祖はみなみな、時衆の徒だったのであろう。

そして、ここに載る「持阿弥」—こちらはつい最近までお商売をしていた。平成二年一九九○)四月二十日発行の京都扇子団扇商工協同組合『記念誌』(組合設立十五周年・扇塚建立三十周年)には「御影堂持阿弥宏瀬清太郎」の名がみえる。さらに、そこには、持阿弥と並んでもう一つの阿弥号を持つ店が記される。
「眞阿弥斎木京扇堂」—そう「京扇堂」さんである。京扇堂さんはなぜ、阿弥号を持つか—その答は簡単に出た。「持阿弥」さんで修行をしたからという。「京扇堂」の初代・齊木兵助は、東本願寺の寺侍であったが、持阿弥で扇の術を得、最初は現在地ではなく、西本願寺前の花屋町(油小路通花屋町下ル)に店を構える。天保三年(一八八二)のことである。なぜ寺侍から扇屋に—時衆の匂いが標う。
斎木氏—その出自にも時衆の香りがする。斎木氏は代々富山の魚津藩に仕えた武士であったが、戦国の御代、石山合戦に加わり、後に東本願寺に仕えることになったという。富山魚津—日本海沿岸に時宗の寺は多い。そして、本願寺八世・蓮如さんの真宗の寺が、その時宗の寺に覆い被さるようにしてある。

先日、福井県坂井郡丸岡町長崎の時宗寺院・称念寺(新田義貞の墓所)を訪ね、ご住職の高尾察良師にお話をうかがった時、改めて、時宗と蓮如の間係を思った。
蓮如さんの教えは北陸で、日本海の風の冷たい地で花咲かせた。彼がその布教の地を日本海沿いにもっていったのは政治的・宗教的事情も多々あるが、私は、その祖・親驚さんの配流の地・佐渡や直江津を思うてのことと、一つには考える。けれどその教えはあまりに一遍さんや二祖・遊行上人真教さんの〃時宗〃と似ていると思うし、また、その芸能好きは、”時衆”にそっくりなのである。

京では、巷に「蓮如上人さんの子守歌」なるものが伝えられる。例えぱこんな風—「ヤショウメ、ヤショウメ。京ノ町ニヤショウメ。売ルモノヲ見ショウメ。(中略)六角町二売ル物、売ル物。コイ、フナ、タイトスズキト。ウグイ、カレイ、ナマヅト、イセゴイト……アワビ、カツホ、スルメト」。
これは蓮如上人が我が子の為に作った子守歌。我が子の名は九々丸(くくまる)。八十一歳の時の子故、この幼名があるとか。
京の祇園、井上流の地唄舞「萬歳(まんざい)」は、目出度い席で舞われる。祝言(しゅうげん)。「やしよめやしよめ、京の町のやしよめ、売つたるものは何売つたるものは何、大鯛小鯛、鰤(ぶり)の大魚、飽(あわび)、栄螺(さざえ)、蛤子(あさり)蛤子、蛤(はまぐり)蛤、蛤召さいなと売つたるものはやしよめ」。と、扇の所作も花やか。

蓮如さんは本願寺に、芸能人をたくさん呼んで、歌・踊・舞・カタリに興じたという。そうして自らも、歌い踊り、カタった。蓮如さんが手に持つたのは、僧侶の扇ではなく舞扇?蓮如さんの子守歌の元は、千秋萬歳(せんずまんざい)の詞(ことば)から来ている。そして、今も京の童歌(わらべうた)として伝えられる。

優女(やしょうめ) 優女
京の町の優女
売ったるものを 見しょうめ
金襴緞子(きんらんどんす) 綾や緋毛氈(ひもうせん)
どんどん縮緬 どん縮緬

魚津…齊木氏の出自

蓮如という人は、親鸞のものがたりをカタって歩いたに違いない。直江津の居多(こた)神社では、「この地に親驚が七年あまりも住んでいた」と伝え、現宮司・花前(はなさき)氏は、その物語を著作としている。

花前氏—この氏と魚津藩が繋がる。永禄十二年(一五六九)、上杉景虎の配下である、河内豊前守長親(かわちぶぜんのかみながちか)は魚津藩主となると、居多神社神職・花前盛貞に、魚津の「宮津八幡富職」を与えている。魚津藩の斎木氏その名も神々しいが—この氏は、その出身地・「斎木」に氏神・斎木神社を持っている。社に奉仕する斎木氏、その斎木氏が扇を作る。持阿弥で修行する以前に、この氏はもしかしたら御影堂の塔頭に既に住まいしていたかも知れない。

御影堂の塔頭・蓮華院で、扇を折った玉琴姫—このヒメの扇—久寿(くす)扇という。
久寿扇—「扇塚」建立の折、竣工記念で復活(刻)した。五色の糸が扇の扇形の端から流れ出ている。薬玉(くすだま)のあの色。赤・黄・青・緑・自。西方浄土に往生する時に握る阿弥陀さまの手から出るあの糸。
魚津藩の斎木氏は、本願寺→蓮如→時宗を調べることで甦る、と思う。それにしても、阿弥号の記憶を残すのは、今はここ眞阿弥京扇堂のみ。しかも現在の店舗のある場所は、限りなく、五条御影堂に近い。


「京老舗」 淡交ムックより、許可を得て転載しています
平成十年六月三十日初版発行 (c)1998
株式会社淡交社 (http://www.tankosha.co.jp/)
ISBN4-473-02030-4
p138~141