第51話 『襲名披露興行(六)続河東節連中』

 現在の「助六由縁江戸桜」で河東節連中が御簾内で語ることは古例通りだが、昔と違うのは、御簾内に明かりが点き、御簾の目もかなり粗くて、出演者の顔が見えるようになっている。(決して見易いとは云えないが)
 出演者が、自分が舞台に出ていることを観衆に知って貰いたいと思うのは、ごく自然の欲求と思われる。はっきり顔を見せたいのなら、出語りをすればよいのに、何故顔の見えない御簾内で語ったのか、それには江戸時代の身分制度が大いに関係しているようだ。
 江戸時代には士農工商という階級があり、その下に更に非人と呼ばれる賤民階級があって、弾左衛門という非人頭が支配していた。
 宝永五年(1708)に京都四条河原の操り師、小林新介という者と非人の間でごたごたがあり、その裁判で、歌舞伎狂言座の者が弾左衛門の支配に属するか(非人であるか)、どうか、が争点となって、結局、一定の場所に特設した劇場で入場料を標示して興行する者達は賤民ではない、という裁定が出た。つまり、非人ではないということが明らかになった。『勝扇子』という書の冒頭に、
「歌ブキ狂言座之輩、えたの手下并に非人の類に無之証書、宝永五年之公事荒増(あらまし)を記し、二代目團十郎これを勝扇と号し家蔵す」
 とある。
 二代目團十郎はその裁決が余程うれしかったのだろう。とは云うものの、役者達が制外などと呼ばれたのは、士農工商の階級制度外という意味で、常人の中では最下級の者として河原乞食などと蔑まれた。『譚海』によると、京と江戸の往来に必要な関所の通行手形は通常、大家などの町役人が発行したものだが、役者の手形は江戸から京都へ上る時は非人頭の弾左衛門が、反対に京から江戸へ下る場合は京都の天部という非人頭が、夫々出したという。
 江戸時代の河東節連中の主なメンバーは蔵前の札差や富裕な商人達で、札差達は武士の禄米を担保に高利の金を貸付けて法外な利息をとってその懐を肥やし、大商人達は支配階級の武士と結び付いてその権力にとり入り、独占的な商売で巨万の富を得ていた。
 彼等は芝居好きであって役者を贔屓にしていても、自分達は芝居者と同じ階級の人種ではないと一線を画するやり方が御簾内の出演という形をとったのではないか、と思われる。
 江戸時代、時代が下がるにつれて武士達は次第に経済的に苦しくなって行き、幕末には、小禄の旗本や御家人、又その二、三男坊などで芝居の舞台裏で笛を吹いたり鼓を打ったりしている者もいたようだ。
 遠山の金さんもまだ部屋住みの若い頃、木挽町の森田座で吉村(芳村とも)金四郎といって笛を吹いていたという。
 武士には能楽の素養のある者が多かったので、特に囃子方の技術がある者にとっては、芝居の裏方などは好きな道で金が稼げる恰好のアルバイト先だったのだろう。
 しかし、これはどこまでも内々のことであって、それが公然となったらタダでは済まないのである。
 森鴎外の小説で有名な渋江抽斎の親友だった森枳園は福山藩阿部家のお抱え医師だったが、芝居が好きで、遂に見るだけでは満足出来ず、初めは使者とか通行人のチョイ役で舞台に出るようになった。
 ある時、阿部家の女中が宿下がりの折、芝居を見に行って舞台に立っている枳園に気が付き、枳園が芝居に出ていることが知れ、枳園は阿部家を首になったという。
 江戸時代には、こうした表と裏、本音と建て前がうまく使い分けられていたようだ。
 小身の武士のアルバイトを厳しく規制したところで、困るのは彼等で何の解決にもならない。それで多分、内々のことには目を瞑っていたのだろう。
 しかし、森枳園のように階級制度を公然と乱すような行為は許し難かったのかもしれない。
 枳園を首にしたのは幕府ではなく阿部家だが、或いは阿部家にしてみれば、そんなことで、もし幕府から何かお咎めを受けるようなことになってはたまらない、転ばぬ先の杖の処置といったところか。
 普通の町人が芝居の舞台へ出て顔を見せたところで、別にどうということもないかもしれないが、札差とか豪商達はいずれも支配階級の武士を通じて幕府を相手にして大儲けをしているので、もし何かあって、その関係が断たれると、莫大な富を得て来た権益を一挙に失いかねない。
 大商人の中には札差同様、大名や旗本などに金を貸して暴利を貪る者もあった。
 幕府は暫々、その貸金の金利を規制したり、棄捐令を出したりしている。
 河東節連中の札差や豪商連にしてみれば、芝居には出たいが、幕府の忌諱に触れるのも恐い。
 御簾内の出演には、そんな彼等と彼等より上の武士階級との関係、下の芝居者達との関係、それらがからみ合った複雑な思惑が見え隠れしているようだ。
 以上が私の推測だが、身分制度が関係していることは確かである。
 さて一方、半太夫節連中についてだが、前に書いたように半太夫節と半太夫節から出た河東節は、芝居の方では江戸節として一緒の扱いになっている。
 半太夫節にも素人の旦那衆による半太夫節連中があって、主として中村座の助六の時に出演していた。「河東節」(第二十八回)の稿で、鶴迺屋主人という人が、嘉永三年中村座で八代目團十郎が助六を演じた時、半太夫節連中として出演した父親のことを書いているのを紹介しておいたが、この時の助六は「助六廓の花見時」で、半太夫節連中も又、御簾内出演となっている。
 半太夫節も河東節も、江戸の中期以降、やる人は殆ど老人達ばかりになっていたようだ。
 川柳に次のようにある。

 河東節どれも朝湯にはいる人
     (一九、天明四年 1784)

 河東節上手のはから水がもり
     (四〇、文化四年 1807)

 半太夫天命を知る人ばかり
     (一四、安永八年 1779)

 この稿の初回で挙げた『川柳江戸歌舞伎』という本の付録に「歌舞音曲」の章があって多数の句が載っているので、その中から半太夫と河東に関する句を拾ってみる。

 真闇な簾の内で頤を振り
     (安永年中 1772 ~1780 )

 簾の内、とあるから、河東節か、半太夫節の連中を詠んだ句に違いない。
 同じような句に、

 長唄の上手といっぱあごを出し
     (明和元年 1764)

 楓江はかうだとあごで二つゆり
     (一九、天明四年 1784)

 いずれも長唄の句だが、楓江とは明和八年(1771)に亡くなった長唄の名人、富士田吉治のことである。「いっぱ」とは、「いえば」である。(第二回「吉原雀」参照)
 江戸時代の河東節連中の浄瑠璃がどんな風だったのか、それを偲ばせるような句もある。

 唐人の泣出すやうな河東節
     (三八、文化四年 1807)

 十寸見連間抜のやうに語り出し
     (一三九、天保六年 1835)

「唐人の」の句は助六狂言の上演記録から見ると、文化二年(1805)三月、河原崎座の「御江戸花賑曾我」に出演の河東節連中を詠んだものと思われる。河東節は「助六所縁江戸桜」で助六は市川男女蔵、意休は尾上松助、後の初代松緑だった。次句は天保三年(1832)三月、歌舞伎十八番の内として、七代目團十郎が海老蔵と改名して演じた「助六所縁江戸桜」の時の河東節連中を詠んだものだろう。前にも書いたが、十寸見連とは河東節連中のことである。この助六の時、六代目海老蔵が八代目団十郎を襲名して、外郎売を勤めた。
 どちらの句にしても、素人連の河東節の出来は大したことはなかったらしい。
 河東節とは限らないが、次のような句もある。

 やけふ聲三味線ひきがまぎらかし
     (寛政年中 1789~1800)

「やけふ」とは、「いろは歌」の文句の「おくやまけふ」の<や>と<けふ>の間は<ま>で、つまりマが抜けている(間抜け)ということである。長田幹彦の小説『祇園小唄』に、舞妓が「やけつぎ抜けました、なに?」という謎かけをする場面があるが、これも同じで、「間抜け」に「腑抜け」ということだ。
 「三味線ひきがまぎらかし」という文句が笑わせる。
 川柳では槍玉に挙げられて評価の低い河東節連中だが、三升屋二三治は『芝居秘伝集』の「十寸見蘭州」のところで、次のように述べている。
 河原崎座で高麗蔵の初助六の時、四明という八十余才の老人が出演して河東節を語ったが、若者も及ばぬ妙音で、「しんぞ命を揚巻」という独吟などはリンリンという声だった、と出ている。
 更に又、この四明は『十寸見要集』にその名が出ている二代目蘭州と覚えているが、初代か、二代か、うろ覚えとある。
 この蘭州は、正確には、志明といった二代目蘭州である。二代目蘭州は吉原の娼家の主人で佐倉屋又四郎といったが、後に剃髪して志明と名を改めた。この河原崎座の高麗蔵(後の松本幸四郎)の助六は寛政九年(1797)三月の「富士見里和曽我」だったと思われる。志明は二三治によると、その時八十余才とあるが、寛政十二年に八十二才で亡くなっているので、この助六の時には七十九才で、まだ八十になっていない。しかし、八十近くになっても、そんなにいい声が出たとはなんとも羨ましい限りである。
「唐人の」句が詠まれた文化二年は寛政九年から八年後、「十寸見連」の句の天保三年の助六は三十五年後のことである。唐人の泣き出すような河東節と、間の抜けたような河東節と、どちらがマシなのか、わからないが、時代が下るにつれて河東節連中の質が落ちたということか。
 ところで、現在の河東節連中はどうなのだろうか。評価が気になるところだ。
                      終わり

第50話 『襲名披露興行(五)、河東節連中』

 扇は、その形状から末広という別稱があって目出度いということから、慶事の進物や配り物には欠かせない。
 昭和六十年の現團十郎襲名時に配られた扇面の画は、先年物故された加山又造画伯のものだったが、今回の海老蔵襲名のそれは、父親の團十郎丈が海老蔵の名に因んで描かれた海老の画である。
 五、六月の歌舞伎座での海老蔵襲名披露公演も、途中團十郎丈の入院休演というハプニングがあったものの、六月二十六日に目出度く千秋楽を迎えた。
 その六月の夜の部には、歌舞伎十八番の助六、「助六由縁江戸桜」が出て、河東節連中が出演した。
 市川家の助六は河東節で、河東節連中という素人の旦那衆が出演するのが恒例になっている。河東節連中は十寸見連(ますみれん)ともいうが、これは元祖河東が十寸見河東といったからで、現在では、唄方の太夫は十寸見姓、三味線方は山彦姓を夫々名乗ることになっている。山彦は元祖河東の三味線弾きだった山彦源四郎の姓を取ったものだ。
 今の助六は、幕が揚がると舞台は新吉原の三浦屋という妓楼の前である。
 三浦屋は京町一丁目に実在した店だが、宝暦三年(1735)に廃業している。廃業の原因については不明。
 河東節連中はその三浦屋の格子の後方に控えている。格子の内側には簾が掛けてあるので、そこを御簾内(みすうち)という。
 まず、口上があって、それが済むと、口上を述べた役者は御簾内へ向き直り、
「河東節御連中様、どうぞ、お始め下さりましょう」
 それが切っ掛けで、河東節が始まる。
 歌舞伎には常磐津、清元、義太夫などを始め、様々な浄瑠璃が使われているが、「どうぞ、お始め下さい」などといわれて語り出す浄瑠璃は他にない。
 この河東節(半太夫節もそうだったようだが、それについては後述)の特別扱いについて、『歌舞伎十八番』(戸板康三)には、
「これは河東節の伝統を守って来たのは富裕階級の旦那衆だったので、芸人扱いせずに厚く対したのが慣例になった」
 といっている。三升屋二三治の『賀久屋寿々免』には、
「両家(河東と半太夫)共に頼みによって出勤する、客同様の取扱なり、故給金無之」
 とある。  半太夫節は明治時代に絶えて今はないが、江戸時代には、河東節連中と同様に、素人の旦那衆による半太夫節連中があって、劇場へ出演の時は御廉内で語り、その扱いも、河東節連中と全く同じだったという。
 半太夫節と、半太夫節から出た河東節とは、芝居の方では二つとも江戸節として一緒に引っ括めて考えていたらしく思える。
 半太夫節のことは話がややこしくなるので、ちょっと別にして、河東節はいつから特別扱いを受けるようになったのだろうか。
 宮川政運は『俗事百工起源』の中で、河東は初めから出語りしなかった、といっているが、これは疑問だ。
 半太夫節から分かれた河東節は、初めは半太夫節などの他の諸流と同じく出語りしていたと考えられる。勿論、これも他流と同様、出演者はプロの芸人達で素人は入っていない。
 では、いつ頃から変わったのかということになる。
 宝暦(1751~1763)の頃から、半太夫節と河東節の芝居への出演は次第に助六狂言の時のみに限られてくる。
 寛延二年(1749)三月、中村座で二代目團十郎、團十郎は享保二十年に海老蔵と改名したので、この時は既に海老蔵となっている、その海老蔵栢莚(以下、栢莚と書く)が一世一代の助六、「男文字曽我物語」で本人としては三十三年ぶり三度目の助六を勤めた。
 栢莚は正徳三年(1713)、初めて助六を演じた役者である。この最初の助六が半太夫節だったか、どうか、は諸説あって不明。
 二度目はその三年後の正徳六年(六月に享保と改元)の「式例和曾我」で、この時は半太夫節だった。
 寛延二年の助六は河東節で、河東節の名題は「助六廓家桜」である。
 この時、芝居の助六姿で吉原通いをしたという蔵前の札差、大口屋治兵衛暁雨や魚河岸の鯉屋藤左衛門、この二人は当時、十八大通と呼ばれた大金持ちの通人達である、その他、神田新場の連中など、いずれも栢莚贔屓の面々の肩入れで、芝居は大当たりとなった。
 河東節による次の助六は宝暦六年(1756)四月の中村座で、二代目松本幸四郎が四代目市川團十郎となっての初助六で、「長生殿常桜」(ちょうせいでん・ふだんざくら)、河東節は「富士筑波卯月里」である。
 この時、暁雨と同じ蔵前の札差しの大口屋八兵衛金翠は、吉原大上総屋の遊女、総角(あげまき)の客だったことから、すっかり意休気取りで、意休役の二代目澤村宗十郎を贔屓にして自分の紋入りの豪華な衣装を贈ったりして、四代目團十郎や栢莚贔屓の連中と張り合い派手な贔屓合戦を演じた。「専ら上総屋の総角に鼻毛を数えられていた」と馬文耕の『当世武野俗談』にある。
 三升屋二三治は『十八大通』(別名『御蔵前馬鹿物語』)に蔵前札差の馬鹿遊びについて書いているが、金翠の贔屓にした役者を大半五郎としている。しかし大半五郎の初代坂田半五郎は享保九年(1724)に死んでいるので話が合わない。馬文耕は宝暦八年に刑死している金翠と同時代の人であり、二三治は天明五年(1785)生まれのずっと後世の人である。
 この五年後、宝暦十一年市村座の助六、「江戸紫根元曾我」の河東節が「助六所縁江戸桜」である。
 更に、その三年後の宝暦十四年(六月に明和と改元)の春、中村座の助六に出演予定だった四代目の伝之助河東は無断で伊勢参りに出かけて行き芝居の初日に間に合わなくなった。中村座では慌てて急遽半太夫に頼み込んで幕を開けることが出来たが、以後一度の例外を除いて(安永八年の「御囁万年曽我」)、中村座ではすべて半太夫節となり、河東節の出番は無くなった。
 以上、前に書いた「河東節」の稿(第二十八回~三十一回)と重複するところが多いが、再確認の為に挙げた。
 私が見た、「河東節は出語りしない」という記録で一番古いものは、津村淙庵の『譚海』第十二巻に出ている記事である。『譚海』の第十二巻の後半は淙庵自身の見聞ではなく、淙庵の母からの聞き書きとある。淙庵の母は天明七年(1787)に七十五才で亡くなった、と文中にみえることから、正徳三年の生まれである。元祖河東が死んだ享保十年には十三才であり、その後天明に至る迄の時代を生きた人の記録として貴重なものといえる。
「其比(そのころ)は、芝居狂言に河東ぶしとて所作をいたせしかば、今の狂言とは様子上品にて、面白き事也し。尤出語り抔(など)と云事はせず、すだれの内にて語る斗り也。但半太夫は芝居の浄るりへ出る事をせず河東ばかり也」
 半太夫が芝居へ出ないというのは誤りで、頻度は少ないが出演していた。この引用文の前後に海老蔵のことが出ている。この海老蔵は三升屋助十郎の二男升五郎を養子にしたとあるので、二代目團十郎の海老蔵と知れる。二代目團十郎は享保二十年にその升五郎に三代目團十郎を継がせ、自分は海老蔵と改名した。すなわち、二代目海老蔵栢莚である。
 栢莚に関係した話として、三代目團十郎の死や元祖澤村宗十郎のことなどに触れているが、三代目團十郎が死んだのは延享元年(1744)で、栢莚自身は宝暦八年(1758)に亡くなっているので、引用文の冒頭にある「其比」というのは、大体その間の十数年間を指していると思われる。この間に河東節が特別扱いを受けるようになったと推定するのだが、その一番の根拠は大和屋文魚である。
 大通と呼ばれ、『十八大通』にも出ている文魚は、暁雨、金翠などと同じく蔵前の札差で、河東節の名手だった。『江戸節根元由来記』では文魚のことを名人といっている。『十八大通』には、「江戸中の大通といわれる人は皆、この文魚に従って、親分子分などと頼んで、女郎買いの稽古所といわれた。また河東連中ばかりでなく、河東節をやらないと文魚の気受けが悪く、誰も彼も河東節をやらされ、文魚の文の一時を貰って子分になり、大通の内に入った」
 とある。この文魚は寛政十二年(1800)、七十一才で死んだというから、享保十五年の生まれである。『江戸節根元由来記』には文魚と共に名人として、平野氏の隠居の竹雅という人物の名も挙げている。
 『十寸見編年集』では平野ではなく、野村氏の隠居となっているが、竹雅は寛政三年六十七才で死んだというから、享保十年生まれで、文魚より五才年長になる。竹雅もいずれ裕福な家の隠居だったと思われるが、その家業はわからない。文魚同様、札差とも考えられるが、『十八大通』にその名を見ないから、札差ではなかったのかもしれない。
 この二人について、『十寸見編年集』では、
「両人とも風調に遊び、世業をなさず、近世の名誉なりと云」
 といっている。ということは、二人共プロの芸人ではなく、ただ好きで河東節をやって、その道を極めたということである。
 この文魚や竹雅達が河東節連中として出演したのが、素人の旦那衆による河東節連中の始まりではないか、と思っている。
 特に文魚には大勢の子分がいた。それらを引き連れての出演だったのだろう。
 それが、何時の助六だったのか。
 寛延二年、栢莚は一世一代の助六を演ずるに当たって、その出端に河東節を使った。
 栢莚は河東節を好み、三代目河東(宇平次)と親しかったことが知られている。(『中古戯場説』)それで河東節を採用したのかもしれないが、この助六は大評判で大入りだったというから、あるいは、この助六で河東節が再認識されて、通人の間に流行をみることになったのかもしれない。
 この寛延二年、文魚十九才、竹雅二十四才。この時、二人が出演した可能性は無いとはいえないが、文魚の年令からみて、ちょっとまだ早い気がする。
 次の宝暦六年の助六の時の可能性が一番高いようだ。文魚は二十七才、竹雅三十二才のいずれも男盛り。この時の狂言「長生殿常桜」の二幕目が助六で、助六は四代目團十郎だった。栢莚も存命で二幕目には出なかったようだが、大江左衛門将門と手白の猿の精という役で出演している。栢莚はこの二年後の宝暦八年に亡くなっているので、次の宝暦十一年の助六の時にはこの世にいない。
 こうしてみると、素人の旦那衆による河東節連中が誕生したのは、宝暦六年の四代目團十郎の初助六の時ではないかと思われる。
 因みに、この助六は不評だったという。
 では何故、河東節連中は出語りをしないで、御廉内ばかりで語ったのか、という疑問については次回で

 ——河東節連中の話で総まとめをするつもりだったが、テーマが大き過ぎて一回ではまとめ切れなかった。残りは次回へ繰り越させて頂くことにした——

第49話 『襲名披露興行(四)、八代目團十郎』

 八代目團十郎は、名古屋へ行くことをひた隠しにしていたところをみると、名古屋の若宮の芝居で父の七代目と共演することは予め知っていたと思われる。
 さすがに名古屋では團十郎の名を使うことを憚って、市川白猿と名乗っている。
 八代目團十郎が自殺したのは嘉永七年(1854)八月五日で、その翌日に中の芝居の手代、山形屋忠七という者が発見して大騒ぎになった(以下、箇条書きにして挙げる)。
 その日に奉行所へ届け出て検死を受けると共に、庄八と萬吉が江戸表へ注進のため出立した。
 七日、明け方に遺骸を千日焼場にて火葬。
 同日、寅吉が故人の弟、重兵衛の書状を持って江戸表へ二度目の注進に立つ。
 先に江戸へ向かった庄八、萬吉の二人は、道中で七代目の妾のお為の一行と出会い、話に手間取って遅れたというが、先に江戸に入ったのは寅吉で、十六日の夜、九ツ時(十二時)に猿若町へ着いて善兵衛に報告し、それから親族や河原崎權之助にも急報した。(庄八、萬吉の江戸着は十九日という)
 八代目團十郎変死の知らせを受けた善兵衛は、翌十七日、まず関係する名主へ此の旨を届け、昼時頃に南町奉行所へ前出の書面を提出した。書面では、「子細不知自害相果候に付」とあって、自殺の動機については、持病の疳症が起こって「打臥強く取昇せ候哉」といっているだけで、あとは大坂でのその後の処置に簡単に触れ、團十郎と同道の同人弟、重兵衛が飛脚を以って申し越しましたので、此の段、お訴え申し上げ奉ります、と結んでいる。
 八代目團十郎の辞世は、「うしろ富士難波に残す旅の笠」
 法名は、篤譽浄莚實忍信士。
 茶臼山の西方にある板松山高岳院一心寺に葬った。(以上、『歌舞伎年表』)
 これについて、『ききのまにまに』では、「御検死のうへ、死体仮埋めを仰付らる、則攝州天王寺村浄土宗一心寺江葬る」
 又、法名は、觀恵智恩信士、辞世は、「夜明ければ義理と孝とにからまれてためを思ひて吾身果行(わがみはてゆく)」
 とあって、法名と辞世が違っている。
 同書には、更に、
「(父親の)海老蔵は野辺の送りのかへさ(帰り道)に行方しれずになりしが、やがて高野山に入しと聞こえしかど、其後早々中の芝居へ出勤興行」
 と載っている。やはり、七代目にとって、まさかの大ショックだったのだろう。
 八代目團十郎の人気は大変なもので、嘉永三年(1850)三月の中村座の助六(「助六廓の花見時」、半太夫節で、彼にとっては二度目の助六)では、水入りで八代目團十郎が入った天水桶の水が徳利一本一分で忽ち売切れて足りない程だったという。
 その三年後、三代目中村仲蔵が書いた『手前味噌』の嘉永六年(死の前年)六月のところに、
「この頃、八代目大人気たちて何をしても大てい大入にして云々」
 とある。八代目團十郎は人気絶頂の時に死んだのである。
 八代目團十郎は、前出の善兵衛の書面にも「持病の疳症」が起こった、とあるように疳癖で、年若くして市川團十郎という大名跡を継いで、それに負けまいという気が強かったせいかプライドが高くて、先輩の役者とのトラブルも結構あったようだ。
 伊原青々園(敏郎)の『近世日本演劇史』によると、八代目團十郎は容姿と風采に優れ、声は疳走って高く、七代目九代目などと同様、市川家独特の名調子で、口上などは辯舌さわやかだった、とある。
 書画にも長じ、俳句もなかなか上手だった、として、次の三句が挙げてある。
 ・魚刎ねて涼しき月や水の隈
 ・枯れし野に一筋青し隅田川
 ・山畑は鎧の袖か五月あめ
 又、小唄の「梶の枕」と「露は尾花」は八代目團十郎の作とある。「梶の枕」という唄は今は伝わっていない。又「露は尾花」の方は、ポピュラーで今もよく聞かれる唄が果してそれなのか、よくわからない。(以上、『近世日本演劇史』)
 八代目團十郎の突然の死は江戸市民にとって寝耳に水のショックだった。
 人気絶頂だっただけに、死絵という故人を追悼する絵の刷り物は三百種を越えたという。
 三升屋二三治の『芝居秘伝集』の四十七項に、「八代目自殺」として、
「此のとき江戸中大評判にて、何処へ行きても此の話計りなりしが、果して町々の錦絵店、三升の死絵のみにて他の画なし。古今稀なる人気と驚きたりし」
 とある。嘉永七年は十一月の末に安政と改元になったので、その翌年の安政二年の春、浅草の奥山で八代目團十郎の一代記を生人形の見世物にした興行が大当たりで、百二十日間で千五百両の利益があったという。八代目團十郎の人気の程が偲ばれる。

 明治時代には、まだ実際に七代目や八代目團十郎の舞台を見た人達が生きていて、書いた物や談話の記録が残っている。
 明治の各界名士達のインタビュー集、『唾玉集』にも芝居に関する話がいくつか載っている。
 その中で、「天保時代の梨園」と題した四方梅彦の話の中に八代目團十郎のことが出てくる。
 四方梅彦は、初め初代柳亭種彦の門に入って戯作者となり、後年河竹黙阿弥の紹介で狂言作者となって竹柴瓢蔵といった。晩年は『歌舞伎新報』の客員だった。
 蜀山人は狂名を四方赤良といったが、これは四方という酒屋に因んで付けた名で、赤良とは酒のことである。四方梅彦は新和泉町(今の人形町三丁目辺)にあった、その酒屋の倅で、文政五年(1822)の生まれである。八代目團十郎より一才年長になる。
 四方梅彦とのインタビュアは伊原青々園である。
「今の堀越(九代目團十郎)の兄貴の八代目は余程の変人でね、当時は家内が苦しかッたから、方々から金を借りたものだが、利息を払ふに他人に持たせて遣るなんてえ事は一向しないで、皆自分が持ッて往く、誠に義理堅い男で御座いましたよ、大坂で自害したのも、つまり此の気風だから江戸の御贔屓に面目がない、済まない、済まないと思詰めて取上ぼせたからで御座いますよ、器量は今の九代目より悪かッたが、親孝行といふので滅法人気があって、それに芸の上手で、特に大坂へ行く年の狂言なぞは大出来で御座いましたよ」
 (嘉永二年四月、八代目團十郎は大坂にいる父の海老蔵に会うため江戸を立ったが、その前月、御名残狂言と銘打って河原崎座で「勧進帳」の弁慶を演じた)
 九代目團十郎の写真を見ると、顔が長く、あまり美男とはいえない。それより劣るとすると、むしろ醜男ともいえそうだ。
 八代目團十郎は、その当たり芸に、切られ与三、勘平などがあって、二枚目の印象が強い。この四方梅彦の話の聞き手、伊原青々園は前出のように自著の中で、八代目團十郎のことを、「容姿と風采に優れ」といっている。どっちが本当なのか?
 一応、そのまま書いておく。
 四方梅彦の話で、八代目團十郎についてはこれだけだが、歌舞伎ファンにとって興味のある話がそれ以外にも出ているので、もう少し引用させて貰うと、
「当時の菊五郎(三代目)なんぞは、昔にもない名人だ、と葛飾の北斎も申した位だから、成程、当時が一番役者揃の時代かと思はれますね、しかし、私は一概に昔ばかりを贔屓するぢゃ御座いません、今の(九代目)團十郎だッて、「忠臣蔵」の四段目だけは親に優ッて居りますよ、だが、「勧進帳」なんぞになると、あれは七代目が中興しただけに、如何も九代目も及びませんよ」
 四方梅彦は明治二十九年に死んだ。享年七十五才だった。

 歌舞伎座での海老蔵襲名披露興行から書き始めて、とんだ横道に深く入り込んでしまったようだ。
 次回は話を元に戻して総まとめとしたい。

第48話 『襲名披露興行(三)、遠山の金さんと天保改革』

 前回、遠山金四郎のお陰で江戸の芝居が命拾いしたと書いたが、伊原青々園の『歌舞伎年表』の天保十二年(1841)のところに、次のようにある。
「十一月二日、水野越前守より町奉行遠山左衛門尉に『風聞書』なるものを下し、意見を問ふ
 十一月十日、遠山左衛門尉より越前守へ直ニ上ル」
 として、『芝居場所替外取締の儀に付勘辨仕候趣申上候書付』という書面が載っている。
 長文なので、要約しながら挙げるが、先ず、
「二日に頂いた、堺町葺屋町芝居場所替え其の他、歌舞伎役者共の風俗等の義に付いて、『風聞書』の箇絛へ夫々勘辨した趣を申し上げる」とある。
 風(『風聞書』)「最初は芝居の場所替え、破却の問題で、芝居の興行場は繁華な場所にある為、度々焼失し、その都度場所替えの話が出ているが、いつも、三座の起立には由緒があるといっている」
 遠(金四郎)「堺町、中村座は二百十八年、葺屋町、市村座は百七十八年、木挽町、河原崎座(三座というのは中村座、市村座、森田座であるが、この時は森田座に替ってその控え櫓の河原崎座が興行していた)は百八十二年、相続して来ている」
 風「この度、堺町葺屋町両座が焼失したので、場所を移転すべきか、又は、破却(廃止)すべきか、を勘考し、更に調べたところ、劇場は遊戯の場所とは申せ、便利の筋も相聞こえ、破却には当たらないというが————」
 遠「芝居町の場所替えについては、これまでも度々、御沙汰があったが、先役の者共が委細申し上げて来た通りで、旧来その侭に差し置いて来た。しかし、破却という話は初めてで、これまで議論もなかったので、全く存じよらないことである」
 その他、芝居で上演の狂言が勧善懲悪でなく、淫奔の風紀上よろしくないものばかりだとか、役者が高い給料をとって分不相応な贅沢をしているとか、かなり細かいことまで『風聞書』では具体的に触れている。
 金四郎はそれに対して、今後、狂言は専ら勧善懲悪の意を綴り候ようにさせ、役者の奢りについては、不埒の至りつき篤と相糺す、と『風聞書』の指摘を認め、その処置対策を述べているが、場所替えについては、深川、向嶋、青山四谷など具体例を挙げてデメリットを強調し、最後に、享保、寛政の御改革の時にもその前後に度々三芝居が類焼しても場所替えの御沙汰はなかった、この度は再建の普請に取り掛かる前に、火災の害にならぬよう取り締まり方を厳重に申し渡し、場所替えはせず、このまま今の場所に差し置き度い所存、と書いている。
『歌舞伎年表』には、この後に、
「一説には、御右筆成瀬吉右衛門が越前守の芝居破却に決定し、既に其の運びをなし居る事を遠山に急報せしより、直に答書を作り弁護して破却の難を救ひたりともいふ」
 とある。
 遠山金四郎はこの時、北町奉行で、南町奉行は矢部駿河守定謙(さだあき)である。
 矢部は、燿甲斐(ようかい)といわれた鳥居甲斐守燿蔵の術策により、この翌月の十二月に南町奉行の地位を取って替わられる直前のことで、果して遠山と同様、意見具申を求められたか、どうか、わからない。
 金四郎の答申に対して、評議の上、裁定が出たのは十一月十八日で、劇場の破却は免れたものの、場所替えという厳しい決定だった。
 翌十一月十九日、「堺町専助店、狂言座、勘三郎外拾九名」宛に手渡された触書には、まだ移転先は特定していないが、「取調追て可及沙汰」とあり、焼失していない河原崎座についても、「類焼大破の節は是又引払申付候間、其旨可存」と言及している。
 その後、操り座を含め、江戸三座は後に猿若町となった浅草山の宿の小出伊勢守の下屋敷跡へ一まとめに集められ、役者はすべて同町内に居住し、出歩く時は編笠着用とされた。
 七代目團十郎の海老蔵が江戸を追放されたのは、翌天保十三年六月のことである。
『武江年表』によると、猿若町に於いて、同年八月、操り座初興行、九月には中村座、市村座が、更にその翌年(天保十四年)の九月、同じく木挽町から移転して来た河原崎座が初興行、とある。
 七、八代目團十郎周辺の記録を目につくまま拾って来たが、記述に誤りがあってもそのまま挙げたものもあるので、補足しておく。
 弘化二年五月、八代目團十郎は親孝行で褒賞され、北町奉行所に呼ばれて銭十貫文を褒美として貰った。『巷街贅説』では北町奉行は遠山左衛門尉となっているが、この時、遠山金四郎は南町奉行であって、北町奉行は鍋嶋内匠頭であることは前に書いた。『天弘録』には褒美の金は白銀とあったが、通常こうした褒美の金は銭で渡されるのが普通なので、これに関しては、『巷街贅説』の方が正しいようだ。『真佐喜のかづら』という書には、「為褒美鳥目拾貫文とらせ遣す」
 とあり、銭となっている。その後に、
「前書之通町奉行鍋嶋内匠頭役宅において被申渡候付、市中町々自身番屋江張置候程にて、古今めづらしき行」
 とあるから、自身番屋に貼り出すなどというのは珍しいことだったのだろう。
 喜多村信節の『ききのまにまに』には、
「(弘化二年)五月六日、当市川團十郎親海老蔵へ孝心に付青緡十貫文御褒美被下、間もなく此由板行して売ありく」
 とあるから、このことは瓦版にも刷られて世間に喧伝されたようだ。
 さて、八代目團十郎の自殺についてだが、当時としては大変ショッキングな事件で、書かれたものも多く、自殺の原因については諸説ある。
 前出の『歌舞伎年表』の中の「三升(八代目團十郎)噂はなし」にその説が出ているが、末尾に、「以上衆人の噂をあつめたるもの、就中第一条は町奉行探索掛の書上げなり」とあるので、その第一条だけを抽出して挙げる。
「(八代目團十郎は)竊に大坂に上がり興行しては、江戸の金主に不済(申し訳ない)由にて死たりともいへど実は然らずといふ。名古屋若宮芝居興行中、父は大坂より八百両受取り、八代目上坂のことを約し、八代目も是非なく上阪したれど、興行しては江戸へ不済といひしを父は怒りて、我妾さとと通せるを知り居れど此まで口外せず、今汝大坂を断らば、われ大坂の金主へ済まずといふ。為女が讒言と思へば、いろいろ辨解すれど聴かず、餘儀なく出勤とは極たれど密かに江戸の帳元へ書をやりて、御尊判を願ひてなりと迎ひをこすべしと言やりけるに、為女が私慾より名古屋の給金も横取りし、今大坂の分も利得にせんとて帳元へ堅く断りて迎を出させず。團十郎は待てども迎ひ来らず、遂に自害せりと言ふ。腹は切らず咽を突、人に知られぬやう苦痛の聲をも出さざりしと云。又両膝を細帯にて巻、紋付の帷子袴をつけしといふ。
 おためは猿蔵(七代目の四男、為の子)を九代目にせんと色々悪計をなし、團十郎を斥けんせしより自害せり」
 ここに出ている、さと、為というのは七代目の妾の名である。七代目には三人の妻と三人の妾がいた。長男の八代目團十郎と次男の重兵衛は三人目の妻、すみの子で、次男の重兵衛は疱瘡で片目を失い、役者にならず、後に失踪して行方知れずになったという、三男は六代目高麗蔵(後の七代目海老蔵)で、妾さとの子、四男は猿蔵、五男は河原崎權十郎で、後の九代目團十郎、六男は市川幸蔵、七男は八代目海老蔵で、この四人は、いずれも為の子である。
 為は七代目が最も愛した妾で、江戸追放になった時も為だけが七代目と同行した。為については、『多和戯草』(たわけぐさ)という書の冒頭に「お為ごかしの魂譚」という章があって、典型的な悪女として書かれている。八代目團十郎を自殺に追い込んだのは為のせいとしている。
「三升噂はなし」の続きの記述によると、七代目が追々老衰して息子(八代目團十郎)に逢いたがっているから、夏休み中に名古屋へ来るように、と八代目團十郎に勧めたのは為だったという。
 以前、「重ね扇」(三)(第二十一回)で、二代目團十郎が夏の六、七月の暑い間、休みをとって以来、主な役者達が夏休みをとるのが恒例になった、と書いたが、八代目團十郎もそれに託けて江戸を立ったようだ。名古屋へ行くことは伏せて、『ききのまにまに』によると、自分は病身なので、療養の為、相州豆州の間の温泉場へ行く、と稱して、六月廿九日に江戸を出て、七月九日に名古屋に着いた、とあるが、八代目團十郎の自殺後、市村座の興行人の善兵衛という者が提出した書面には、
「私抱役者之内團十郎儀兼て心願有之、信州戸隱山へ参詣に付伊香保温泉へ罷越度」
 とあって、行く先が違っている。
 当時の市村座の座元、十三代目市村羽左衛門(後の五代目尾上菊五郎)はまだ十一才で、善兵衛はその後見人だった。
 善兵衛のこの八月十七日付の書付は南町奉行所に届け出たものだから、この方が本当なのだろう。(この時の南町奉行は池田播磨守頼方である)
 八代目團十郎は最初三十日間という予定で出かけたが、出先から更に二十五日の日延べをいって来た、ところが昨日(八月十六日)、大坂からの飛脚で、伊香保から四国の金比羅へ参詣に行くことにした、といって来た、日延べをいって寄越した時には、そんなことは何もいっていなかった、と善兵衛は書いている。          
          —————-この稿続く—————-

第47話 『襲名披露興行(二)、七、八代目團十郎』

 七代目團十郎が初めて大坂を訪れたのは、文政十二年(1829)で三十九才の時のことである。
 人気絶頂で、大坂では七代目を歓迎する次のような唄が出来た。
「蝙蝠(こうもり)が出て北浜の夕涼み、川風さっと福牡丹、荒い仕掛の色男、去なさぬ去なさぬ何時迄も、浪花の水にうつす姿絵」
 蝙蝠、福牡丹など成田屋の紋を詠み込んでいる。
 この唄は今でもよく耳にするが、元の曲節は失われてしまい、今の唄は初代清元菊寿太夫が新たに節付けしたものといわれている。
 七代目團十郎は生涯に四度、上坂しているが、二度目は天保五年(1834)四十四才の時で、既に團十郎の名跡は二年前の天保三年に長男の海老蔵に譲り、自分は再び元の海老蔵に戻っていた。
 天保十三年(1842)六月、奢侈のつみで江戸十里四方追放となった七代目(以下、七代目で通す)は成田山の寺内、延命院に引き籠もり、その後、下総埴生郡幡谷村に移り住む。
 翌天保十四年、七代目は三度目の上坂をして、十一月大坂角の芝居に出演した。
 七代目、五十三才。
 その二年後の弘化二年(1845)五月、八代目團十郎が、親孝行であると奉行所から表彰され褒美を貰った。
『巷街贄説』巻五に「三舛孝褒」とあって、

       猿若町一町目専助地借
             歌舞伎役者
           八代目 團十郎
             同人母
                すみ
             町役人

 其方儀、幼年よりにうわにて、父母の心に背く事無く、芸道心掛、去寅年(天保十三年)父海老蔵御仕置に相成り、其方若年故給金もおとり、其上借財厄介多、難渋之暮方に有之処、
———以下略———–

 以下長文なので要約すると、父に仕送りを続け、質素倹約の生活をし、父が病気の時には自ら看病し、弟や妹ばかりか父の弟子で七十才になって扶養者もいない團兵衛という者の面倒を死ぬまでみてやった。又、蔵前の成田不動の別院に毎朝日参して、父が一日も早く戻れるよう祈願した、などとあって、
「右体の孝心を尽し、兄弟等の世話行届段、きどく之儀に付、為御褒美鳥目十貫文とらせ遣はす
   已五月   」
 更に続けて、
「右は、北の奉行所にて、遠山左衛門尉被仰渡候趣、浅草最寄は勿論、町々番屋々々へ張出し有由、爰に記すは往還を売歩行くものを贄す家業柄といい是も又大江都の名物なるべく、やがてぞ白猿の免許もあるらんと、ひいきとりどりの風説なりし」
 北の奉行所にて遠山左衛門尉とあるが、この時、遠山の金さんは南町奉行であって、北町奉行ではない。北町奉行は鍋島内匠頭である。
 町々の番屋にこれらの張り紙をさせるなど、いかにも訳知りの金さんらしく思えるが、『天弘録』の同じ五月のところに、
「○五月十一日、歌舞伎役者八代目市川團十郎、父母へ孝行を尽し、依之町奉行鍋島内匠頭御役宅に於て、御褒美として白銀被下之」
 とあって、北町奉行鍋島内匠頭となっている。褒美の金子も十貫文といえば銭だが、ここでは白銀としている。
 嘉永二年(1849)の四月に八代目團十郎は、久しく上方に行ったままの父、七代目に会う為に大坂へ出かけて行った。
 その時、出来た唄が、
「つがもねえ男気の、花のお江戸をはるばると、ここに三升の團十郎(なりたや)と唐までも、人の噂の八代目、さぞや色香も深見草、親子手に手を酉の年、富士の山より贔屓の山が、ほんまに名高い親玉さんぢゃわいな」
 嘉永二年は酉年、深見草は牡丹の異稱である。この曲節も今は伝わっていない。
『俳優世々の接木』では、この大坂行きを嘉永元申年のこととしているが、唄の文句に「親子手に手を酉の年」とあるところをみると、嘉永二年の誤りだろう。この文句から、この時、二人は同じ舞台で共演したようにもとれるが、八代目團十郎は京大坂の芝居には出演せず、高野山へ参詣した後、京都の名所を巡って八月に江戸へ帰った。(『俳優世々の接木』)
 この年、嘉永二年の暮れに、七代目はやっと御赦免になる、
 江戸十里四方追放となった天保十三年から七年後のことである。
 前出の『巷街贄説』の巻六に、

      申 渡
          猿若町一町目専助店
           歌舞伎役者
               團十郎
 其方父海老蔵儀、先年深川島田町熊蔵地借十兵衛方同居罷在候節、不届有之追放申付置候処、弘化四未年文恭院様七回御忌御法事之御救に、御免被仰付候間、其旨可存
   酉十二月廿五日

 文恭院とは十一代将軍、徳川家齊の法名で、その七回忌の法事の特赦によって許されたということである。しかし、家齊が亡くなったのは天保十二年(1841)で、七回忌というと弘化四年(1847)に当たる。赦免状が出たのは嘉永二年で、その二年後になる。
 家齊が死んだのは天保十二年の閏正月三十日だから、二年後とはいうものの約三年近くの月日が経過している。なんで特赦にそれ程時間がかかったのか不思議だ。
 親孝行で有名な八代目團十郎が放れ放れになって大坂にいる父を江戸からはるばる尋ねて行く、という美談が世間に広まり、儒教の教えに基づいて親孝行を奨励する幕府が恰好の材料とみて施した特別な処置だったかもしれない。
 翌嘉永三年早々、七代目は晴れて江戸へ戻り、三月の河原崎座の舞台に立った。
 追放以来、八年ぶりのことである。
 その七代目は又、嘉永六年の正月から上坂して角の芝居へ出演する。
 四度目の大坂行きである。前回の大坂行きで莫大な借金を負った為ともいわれている。
 翌嘉永七年(嘉永七年は十一月に安政と改元になる)の夏、八代目團十郎は名古屋へ行き、大坂から下って来た父の七代目と一座して共演、「古今の大入大当たり」(『俳優世々の接木』)だったとある。
 その後、八代目團十郎は父の七代目と同道して大坂へ行く。
 実は、八代目團十郎には市村座との契約があって、名古屋からすぐ、江戸へとって返すつもりだったのだが、父親から一緒に大坂に来て中の芝居へ出るように強いられ、断わり切れず、止むを得ない大坂行きとなったのだった。
 七代目と八代目團十郎親子は大坂へ船乗り込みをしたようだ。『俳優世々の接木』によると、
「閏七月廿八日夜桜の宮(名古屋)より中の芝居へ乗込その人気いわんかたなく川筋迎ひに舟篝り提灯萬燈の如く実に天神祭り同様也」
 とあり、大坂では大変な歓迎ぶりだった。
 八月六日が初日と決まり、その前日の五日、総稽古もすんだ夜、大坂嶋の内の宿、植木屋久兵衛方で八代目團十郎は自殺した。享年三十二才だった。
 自殺の原因やその背景については長くなるので次回に譲り、今回はその後のことを簡単に記して終わることにする。
 八代目團十郎の自殺は誰も気付かず、朝になって大騒ぎになった。『俳優世々の接木』の続きに、
「跡のそうどう大方ならず父白猿(七代目)を始家内は勿論芝居掛りの者一統まで途方にくれ道頓堀川竹も闇夜に火の消たる如く也」
 とある。
 七代目はこの四年後の安政五年十二月に江戸へ戻り、翌安政六年春の中村座に出勤したが、同年三月、草摺引の五郎に出演中に倒れて、河原崎権之助(河原崎座の座主で九代目團十郎の養父)宅で亡くなった。(『俳優忌辰録』)
 六十九才の生涯だった。
               ———–この稿続く——–

 *お詫びと訂正 前回の稿中、筆者のミスで年号の一部と八代目團十郎の年令に間違いがありましたので、遡って訂正させて頂きました。(本文訂正済み)

第46話 『襲名披露興行(一)、睨み』

 この五、六月の歌舞伎座は十一代目市川海老蔵の襲名披露公演である。
 襲名といえば口上があり、市川家の場合はそれに「睨み」というパフォーマンスをしてみせる。
 市川家の襲名に「睨み」は今ではつきもののようになっているが、元々は襲名時にやるものではなく、正月の仕初式(しぞめしき)という儀式の一部だった。
 仕初式とは、小池章太郎著の『考証江戸歌舞伎』によると、芝居年中行事の一つで、春正月一日からの三日間、座頭(ざがしら)役者が「巻触れ」(まきぶれ)という春狂言の名題、配役を書いた巻き物を読みあげた後、「一つ睨んでご覧に入れます」といって裃(かみしも)の肩をぬぎ、左手に巻き物をのせた三宝を持ち、右手を胸のあたりに握ってキッと見得をする。これは、座頭でも市川團十郎の専売特許の見得、とあるが、襲名の口上での「睨み」はこの仕初式の光景を復活、再現させたもので、戸板康二著の『歌舞伎十八番』には、最初は昭和十一年十月の明治座で二代目市川左團次が亡父の胸像を建てた時の記念興行で、次は昭和二十七年五月の歌舞伎座で男女蔵の三代目市川左團次襲名の時、その後、海老さまといわれた海老蔵が十一代目團十郎を襲名した時、夫々口上の後で演じた、と載っている。團十郎以外の二人も市川姓を名乗る役者として「睨み」を演じた訳であるが、幕末まではこの仕初式の「睨み」は團十郎にしか許されていなかったという。
 十一代目團十郎の襲名以来、「睨み」は市川家の襲名時の恒例となったようだ。

 座かしらハにぎりこぶしへあごをのせ
    (五五、文化八年、1811)

 この句は仕初式を詠んだものとして、前出の二書にも出ているが、西原柳雨編の『川柳江戸歌舞伎』という本では、墨染桜の関兵衛や山門の五右衛門などの睨みとしている。
 句の脇のカッコ内の和数字は『柳樽』の篇数で、下に刊行年とその西暦を表示しておいた。この句は『柳樽』第五十五編の句で、文化八年(1811)刊行である。引用句については以下同様。出典が『柳樽』以外の『万句合』等の句については刊行年のみを記した。
 座頭というのは、一座の役者の内で、人品、伎倆ともすぐれた者がつくべき地位で、当然ながらその座の芸術的責任がある。團十郎だけが座頭ではないが、家柄がなくてはなれず、家柄がなくて座頭になったのは、有名な初代中村仲蔵と幕末から明治にかけて名優といわれた四世市川小團次の二人だけだという。(『考証江戸歌舞伎』より要約)

 手のひらを握って睨む荒事師
   (三八、文化四年、1807)

 荒事は初代團十郎以来、市川家の御家芸である。歴代の團十郎は目が大きかったといわれているが、確かに小さな目や細い目では睨んでも凄みがない。

 海老蔵は役者の中で大きな目
    (天保年中)

 この海老蔵とは、『歌舞伎十八番』を制定した七代目團十郎のことである。
 寛政三年(1791)生まれの七代目團十郎は、新之助として五才で初舞台、寛政十年八才の時に海老蔵と改名、寛政十二年十才で七代目團十郎を継いだと『俳優忌辰録』にある。
 七代目は天保三年(1832)に長男新之助に八代目を譲り、自分は再び元の海老蔵に戻った。八代目は文政六年(1823)深川木場生まれで幼名を新之助、文政九年海老蔵と改むとあるから四才の時の改名である。以下『俳優忌辰録』によると、
「天保三年三月市村座にて八代目團十郎と改め八年春市村座初舞台初座頭弘化二年(1845)五月七日親孝行に付御褒美頂戴嘉永二年(1854)四月上坂同年八月帰府安政元年(1854)七月尾州より大坂え登り名古屋にて興行八月朔日大坂表へ着六日変死、大坂一心寺に葬る」
 とある。これによると、八代目を襲名したのは十才の時で、座頭になったのは五年後の十五才の時となる。しかし、その前の「八年春市村座初舞台」とあるのがわからない。これでみると、八代目團十郎を襲名して五年後に初舞台を蹈んだようにもとれるが、初座頭としての初舞台ということなのだろう。
『歌舞伎十八番』では、八代目は十六才で市村座の座頭になったとして、面白いエピソードを記している。その春の仕初式の時に先輩(五代目沢村宗十郎らしい)に侮辱され、自分の寿命は三十才に縮めてもいいからいい役者になりたいと願をかけたという。
 今回の新海老蔵襲名公演で、團十郎と海老蔵の共演は百何十年ぶりとか、いっているのは、この七代目團十郎の海老蔵と八代目團十郎の親子以来ということである。
 十才で八代目團十郎を襲名した、その天保三年の頃、巷間で流行った唄の
文句が『巷街贅説』の巻三に出ている。
 それは今日でも耳にすることが出来る「お江戸日本橋七ツ立ち——–」という唄の元唄、「お前を待ち待ち蚊帳の外———-」という唄で、それに次いで替え唄として、
「お江戸で名高き團十郎、あらためて、海老蔵になります親の株、コチャ、下手でも上手でもかまやせぬ」
 團十郎という名前が大事で、十才の團十郎の芸にそれ程期待をかけちゃいない、下手でも上手でもいいんだ、といっているようにもとれる。その当初は世間からあまり期待されなかった八代目は真面目な性格で、やがて大変な人気役者に成長して行く
。  話が大分横道に逸れてしまったが、前に挙げた「海老蔵は役者の中で大きな目」という句は、実は単に海老蔵の目が大きいこと詠んだものではなく、別なもう一つの意味をかけていっているのである。そうでなければ、この海老蔵が何代目の海老蔵なのか、わからない。そのもう一つの裏の意味から、七代目團十郎の海老蔵とわかるのだ。
 持って廻った云い方をしたが、今でもひどく怒られることを大目玉を喰らうという。この大目玉と七代目自身の大きな目をかけていっているのである。
 天保十二年(1841)、水野越前守の天保の改革により「質素倹約令」が発令され、庶民の贅沢な行為は厳しく規制されたが、七代目のそれを無視したような種々の振る舞いが幕府の忌諱に触れ、奢侈の咎で翌天保十三年五月(四月とする説もある)に南町奉行鳥居甲斐守の役所に召喚され、手錠のまま家主にあずけられ、六月に江戸十里四方追放を申し渡された。
 そのことを大目玉を喰らったこととして、七代目の大きな目とかけて詠ったのが、「海老蔵は——-」の句である。
 『藤岡屋日記』の天保十三年六月二十二日の所に、
「歌舞伎役者海老蔵、奢侈の故をもて、江戸十里四方追放を申付られたり、
     市川海老蔵、不届きに付公より手鎖の御咎を
 身のほどを白猿ゆへの御咎を
     手にしっかりと市川海老錠」  とある。白猿は七代目の号で「はくえん」だが、ここは「しらざる」と読む。
 天保十二年から天保十三年にかけては、芝居の関係者にとって受難の年だった。
 天保十二年十月七日の明け方、堺町から出火近辺に類焼。この火事で、中村座、市村座のニ座が焼失した。折から天保の改革の真っ最中で、芝居などは倹約令に反する無用のものであるから、これをしおに劇場を閉鎖すべしという強硬論も出たが、それに反対したのは北町奉行の遠山左衛門尉景元だったという。遠山左衛門尉というのは我々がよく知っている遠山金四郎の金さんである。金さんの背中に桜吹雪の彫り物があったか、どうかの詮索は別にして、下世話に通じている金さんは、江戸の庶民には芝居という娯楽は絶対に必要なもの、と主張した。この件は結局、当時まだ場末の浅草山の宿近くの丹波園部二万六千石の大名、小出家の下屋敷の跡地に三座並びに操り人形座を移転することで決着し、江戸の歌舞伎はどうにか命脈を保つことが出来たが、これは偏えに金さんのお陰といわれている。
 天保十三年四月二十八日から、芝居小屋の移転地は猿若町という名稱になった。それ以後、歌舞伎役者は猿若三町の内に住まわせられることとなった。『武江年表』に、次の歌が載っている。
 をちこちのたれもむれくる山の宿
    さるわかまちとよぶ小鳥かな

 テレビや映画でお馴染みの遠山の金さんは南町奉行だが、遠山金四郎は天保十一年から十四年まで(1840~1843)北町奉行を、弘化二年から嘉永五年まで(1845~1852)南町奉行と二度にわたって南北双方の町奉行を勤めている。猿若町への移転話の時、金四郎は北町奉行だった。
 次回は、七代目と八代目團十郎のその後について—————