第133話 『玉屋山三郎と荻江節(九)、まとめ、拾遺』

 近喜といくの子供達については、まだ不明なことが多い。

 殊に、すみについてはわからないことだらけで、近喜といくの間に子供がいない訳でもないのに、何故すみを養女にしたのか、長女として養女にしたので、その時には子供がいなかったには違いないが、その理由がわからない。「北川町さんの話」にあった、「立派な支度をして原庭とかいう質店に嫁にやった娘だが、その嫁入り先がいけなくなった」という、その娘はその後どうなったのだろう。

 近喜がそのまま放って置いたとは思えない。
 その娘をいくとの間に引きとって養女にしたと考えられないこともない、と前章に書いたが、それは今のところ憶測でしかない。

 又、五代目露友の実の姉、佐橋章が昭和九年に四代目露友の長女である飯島すみから、露章という名を許されたが、それは後継者を約束されたものだった、と仁村美津夫氏の『宗家五世 荻江露友』にあったが、それによると、すみは昭和九年までは少なくとも生きていたことになる。それはまあ、いいとして、昭和九年に露章の名を貰ったというのは疑問である。

 何故なら、いくの没後、荻江節を復活させたのは、ひさ、うめの姉妹で、ひさは自分では家元とは稱さなかったが、邦楽界では家元格の扱いだった。そのひさが他界したのは昭和十一年で、昭和九年にはまだ存命だった。

 ひさの弟子である佐橋章がひさの許可なく勝手に露章を名乗れる筈がない。
 ひさの没後、荻江の家元は笹川臨風博士が預っていたようなので、博士から許されて露章になったとすれば有り得る話だが、そうであるならば、昭和十一年以降の話でないとおかしい。

 しかし、そうなると、すみの出番がない。

 いくが亡くなった後、守竹家を継いだ小よしという女性がすみと同一人という説も確証はなく、もし近喜がいくと一緒になる前にいた娘がすみとすると、蝶よ花よと育てられたお嬢様で、水商売の芸者家の後など継げる訳はない。従って、別人である可能性も高い。 その他の子供達についても、何人いたのか、名前その他、不明の者も多いが、その中で、二女のせいだけははっきりしている。

 この四月に、さよなら公演をして改築のため休座している歌舞伎座の顧問医をされていた赤羽紀武先生は、前章に出ていた赤羽武次郎、せい夫妻のお孫さんで、その先生から赤羽家の戸籍謄本の写しを頂戴したので、せいの周辺のことについてははっきりした。

 せいは、父は飯島喜左衛門、母はいくの二女となっていて、明治九年四月十一日生まれ。
武次郎とせいの婚姻届は明治三十三年五月三十一日に出されているが、その時、同時に明治三十年十二月三十一日生まれの長女、貞の認知届が出されている。

 又、結婚前のせいの住所が、日本橋区元柳町三十二番地で、戸主飯島ハナ姉、となっている。明治三十三年といえば、母のいくもまだ存命で、戸主が飯島いくならわかるが、せいは守竹家にはいないで、ある人の妾になっていたというはな(ハナ)の妾宅に同居していたということか。

 赤羽武次郎、せい夫妻には一男三女があった。
 はなについては、『三絃楽史』に「ある人の二号になっていた」とあるだけで、その他のことは一切わからない。せいに関連して、その妾宅の住所が知れただけである。
 富本豊志太夫の妻になった、いくの娘が誰だったのかも不明。

 大分、話が広がってしまったので、最後に近喜といくについて、書き残したことや新しく発見した資料を挙げてこの稿を締め括りたいと思う。

 いくについて、明治八年刊の『諸芸人名録』の「男芸妓之部」に「柳橋 山彦いく」とあるのは飯島いくのことと思われる。
 いくは荻江、富本もやっていたが、河東もやっていたようだ。『十寸見編年集』に、いくの名はないので、柳橋という土地柄から、山彦栄子の弟子と考えられる。
 栄子は柳橋の船宿、藤岡の娘で、河東節を初め母親の徳から習ったという。

 徳は、最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶の妻、山彦文子の弟子だったが、藤岡のお徳といってよく知られた女性だった。
 栄子はその後、母の師である山彦文子につき、文子が安政五年(1858)に亡くなった後は、可慶について修業していたようである。
 可慶の息の山彦秀次郎(後の秀翁)が維新後、河東節に見切りをつけ、渡米して日本を留守にしていた間、河東の頭取世話方として河東節連中をとりまとめていたのは山彦栄子だった。

 いくがその栄子の弟子であるとすると、母親の徳と近喜の四代目荻江露友が昵懇であったことも頷ける。
 明治十一年頃の新聞には、二人が何処其処のお浚い会に顔を見せたなどという記事が載っている。
 その肝心の四代目荻江露友についての情報は殆どないといっていい。特に晩年のことは全くわからない。

 前出の明治八年に出た『諸芸人名録』には荻江節の芸人はいない。荻江姓の芸人はいるが、それは吉原の幇間で、その芸名である。
 近喜が北川町の邸を澁澤倉庫に売ったのは明治九年で、その金で玉屋から荻江の家元の権利を買い、鑑札を貰って、その年に襲名披露を東両国の中村楼で催したものと思われる。
 その時に出来た曲が「四季の栄」といわれている。

 それ以後の四代目露友については、幇間になったとか、いう噂もあるが、確かなことはわからない。
 玉屋山三郎の山田山三郎が荻江家元の権利を近喜に売り渡して以後、吉原の幇間から荻江の姓が消える。(『諸芸人名録』の「男芸妓之部」に出ている荻江姓の芸人とは荻江米治という吉原の幇間である)

 明治九年以後の吉原細見で私が見ることが出来たのは明治十四年、十五年のもので、残念ながら九年から十三年の間のものは目にすることは出来なかった。  勿論、十四、五年の細見には荻江姓の幇間は一人も見当たらない。
 明治になってからの吉原細見で見ることが出来たのは明治三年と五年、その後は十四、五年になってしまう。

 明治三年の吉原には、荻江千代作と千蔵の二人の荻江姓の幇間がいる。
 五年になると、千代作の名が消えて、千蔵と露八の二人になる。荻江露八は「松廼家露八」の章で詳しく書いたように彰義隊生き残りの土肥庄次郎という元武士だったが、維新後に太鼓持ちに転身した有名な幇間である。

 その荻江露八も松廼家露八と改名している。松廼家は最初、松の家という姓で、松の家を名乗る幇間が出てくるのは明治になってからで、慶応元年の吉原細見には一人も見当たらない。

 もっとも、私は慶応ニ、三年の細見を見ていないので、その間に現われた可能性がないとはいえない。
 明治三年の細見には五名を教える。五年の細見にも五名の松の家姓の幇間がいる。
 明治八年刊の『諸芸人名録』の「松廼家節之部」というところに、頭取世話方として、松廼家静樹、唄方に八名、三味線方に六名の松廼家某の名が出ている。

 松廼家静樹だけ離れて出ているのは家元的人物と考えてよさそうだ。
 松廼家静樹という名を見た時、私は玉屋の花柳園山三郎の本名、山田清樹を連想した。

 まず考えたのは、荻江の家元の権利を手離すことにした後、その代わりとなるようなものとして松廼家節なるものを作ったのではないか。つまり、松廼家静樹とは山田山三郎ではないか、ということだった。住所は新吉原衣紋坂となっている。山田山三郎は玉屋癈業後、湯島に転居しているが、明治八年頃には、もしかして又、古巣の吉原に戻ったのではないか、と思って調べたが、わからなかった。

 松廼家静樹は山田山三郎ではないかもしれないが、名前からして荻江と関係が深い者には違いない。荻江露八が松廼家露八となったことからも、そんな気がしてならない。

 最後に、東京都公文書館にあった、飯島喜左衛門関係の二枚の文書を挙げて置く。
 二枚とも金に関するもので、いずれも罫紙に筆で書かれているが、近喜事、四代目荻江露友の動向を知り得る資料ではない。

 以下、読み下し文をそのまま挙げるが、その内容については未調査である。
(一)大蔵省の罫紙に書かれている。日付の壬申とは明治五年である。

「其府下別紙名前之者拾九人調達金證書写取調之儀ニ付尋問之筋有之候条明後廿九日第八字当省江罷出負債掛訟所江可申立旨可被相達候此段申達候也  壬申七月廿七日       大蔵省
東京府         」
(このあと、別紙三枚に十九名の住所と名前が書いてあり、飯島喜左衛門は二枚目の初め、十一番目に次のようにある)

「第六大区小壱ノ区深川福住町
飯島喜左衛門」

(二)東京府庁回議用と印刷された罫紙が使われている。日付はないが、明治十一年の書類の中に綴じられてあった。

「    下達案
第一大区十三小区
米沢町二丁目三番地
平民
飯島喜左衛門

旧郡山藩ニ係ル米代滞金公債下処分之儀該藩旧官吏ヨリ郷官庁ヘ再願之趣堺県ヨリ照会ニ付事実大蔵省ヘ及奥状候処明治六年三月第八十二号公布中第十項之旨趣も有之債主所持之書付は買上米之請取手形ニシテ金穀調達之證文ニ無之今更何様ノ事実申出候共一般之法則ニ悖リ採用難相成旨ニ致意相成候条此段為心得相達候事
年月日     」
(江戸時代、飯島家は可成りの金を郡山藩の柳沢家に貸していたようだ。この明示十一年の近喜の住所は深川から移ってきた柳橋の家の住所になっている)

第132話 『玉屋山三郎と荻江節(八)、近喜の子達』

 近喜といくの間には、『荻江節考』では、「実子はなかったようである」と書いてある。
 更に、「喜左衛門ではなく、いくには少なくとも三人の養女があった」として、その三人は守竹家の芸妓か、といっている。
 その筆頭が小よしで、いくが明治三十六年七月二十五日、五十九歳(数え歳)で亡くなった後、守竹家を継いだ女性で、中川愛氷の『河東と荻江』(筆者未見)に、

「いくの娘によしという者があり、さる鉄道家の妾となり、気位殊の外高く、芸事などはお話にならず、家元の印を握放しにて、家に伝わる荻江の秘書はいずれの手にか売飛ばして知らぬ顔」

 とあるそうで、『荻江節考』では、これが小よしと同一人か、といっている。

 又、この外、養女にせいとはなの姉妹があり、姉のせいは神田松下町の医学士、赤羽武次郎に嫁し、妹のはなはある人の二号になっていた、とある。

 中川愛氷の『三絃楽史』には、

「神田松下町の赤羽武次郎という医学士があって、この赤羽氏も(中川愛氷主催の)調声会に或人から紹介されて荻江の唄を唄った。素人にしては旨すぎると思ったが、それもその筈、荻江の唄に惚れ込んで妻にしたのが、いくの娘のせいであった。
 せいの妹のはなというのが、当時或人の二号になっていたが、せいもはなも荻江には興味を持っていず、赤羽氏も家元になって、どうこうしようという気持もなかった」(以上、要約)

 同書には、近喜といくの子については、このせい、はなの姉妹のことしか書いていないが、もう一人、名前もわからないが、いくには娘がいた可能性がある。

 それは、やはり同書の「富本の四十年」というところに、

「高橋桜洲なる人物が、戸倉某を四代目(富本)豊前太夫の落胤に仕立てて豊志太夫と名乗らせて井生村楼で名披露目をしたが、柳橋の守竹家のいくが富本にも肩を入れ、抱えの芸妓にも習わせた所から、戸倉も出入りしている内に、いくの娘を妻にするようになった」

 とあるからで、この娘が前出の三人でないとすると、もう一人、娘がいたことになる。

 前章で挙げた『宗家五世 荻江露友』という本には、町田佳声氏の「荻江節の起りとその芸を伝えた人々」に続いて、「宗家五世 荻江露友」と題した五世荻江露友師の伝記が載っている。著者は仁村美津夫氏である。
 その中に、次のようにある。

「昭和九年、四世荻江露友(近喜)の娘である飯島すみから正式に(五世荻江露友の実姉である佐橋章が)露章の名をもらうことになった。これは荻江の後継者をやくそくされたものであり、荻江では露友の露は門下にもほとんど使わせなかったのに、特に露を冠した露章の名が許されたわけである。
 この飯島すみも四世荻江露友こと、飯島喜左衛門の養女だった。すみの生まれは加藤家で、その家はやはり維新前には名門だったが、世の中が変って没落した。
 ”今紀文”とまで言われた深川木場の大金持ち飯島喜左衛の娘として、大きな財産を蕩尽し、四十九歳で亡くなった義父とともに数奇な運命を辿った女性だった」

 この飯島すみに関して、竹内道敬氏が著者の仁村美津夫氏に問い合わせたところ、すみは小よしの本名であるとの返答があった、と『荻江節考』に出ている。

 いくの没年について『荻江節考』には、明治三十七年とあるが、因速寺の過去帳では三十六年となっている。三十七年だと、いくの行年は六十歳になってしまう。或いは数え歳と満年令を混同していたのかもしれない。
 近喜の菩提寺である因速寺の過去帳では、近喜の家の墓の所有者の欄に飯島すみの名があるので、すみが長女であることは確かなようだが、小よしと同一人ということには多少疑問が残る。

 というのは、仁村氏の記述には間違いや曖昧な点が多く、そのまま受け入れ難いからで、例えば、近喜のことを深川木場の大金持ちと書いているが、近喜の屋敷は木場ではなく、近江屋河岸といわれた北川町にあった。又、近喜がいくと一緒になる前にいたという娘だが、「北川町さんの話」に、原庭とかいう質屋に嫁いだとあるのは、その質屋の屋号や姓が原庭ではなく、当時、現墨田区東駒形三、四丁目辺りを原庭といったので、場所である可能性もある。その娘の嫁ぎ先の質屋も維新で没落したとあるが、近喜はその娘を放って置いて何も手を差し伸べなかったのだろうか。

 考え過ぎかもしれないが、彼女が飯島すみで、いくとの間に養女に迎えたとも考えられないだろうか。
 一応、疑問を呈して置く。

 柳原緑風氏(荻江梅師の子)の『荻江節の歴史』には、

「唯近喜の長女四代露友の姉に当るとせ女は露光と云って矢張り荻江に堪能であったが、その娘えいが深川高橋の旧家三河屋質店事加藤家へ嫁し、えいの長女るいが祖母露光に就いて荻江を習得してゐたが之も先年病死しました。荻江の古写本はこの加藤家にだ大分残されてゐたが之も震災で焼失してしまひました」

 とある。仁村氏の「宗家五世 荻江露友」の中に、近喜の養女だった飯島すみの生まれは加藤家で、その加藤家は維新前は名門だったが、世の中が変って没落したとある。

 前に、近喜の姪(姉とせの長女)のえいが旧家三河屋質店の加藤家に嫁いだとあって、ここにも加藤家が出てくるのは偶然の一致なのだろうか。

 又、近喜の前妻との間に出来た娘が原庭という質店に嫁いだと「北川町さんの話」にあったが、えいが嫁いだ先も三河屋という質店であり、偶然といえばいえないこともないが、同じようなことが重なると、いささか気になる。

 中川氏は又、近喜の姪、つまり妹の露の娘の鶴子が、母の妹のかめの三味線で金屋丹前と深川八景を唄ったのを聴いている。

 こうしてみると、近喜といくの子供達は荻江節のあまり興味を持たなかったが、近喜の姉妹は皆、荻江節をやっていて、しかも、かなりの腕前だったようだ。
 ということは、誰だかわからないが、維新以前に荻江の師匠が近喜の屋敷に出稽古に来ていたに違いない。

 近喜の家族とは直接関係ないので引用しなかったが、「北川町さんの話」に、

「円朝(名人円朝)は、年中出はいりしておりました。又是真(柴田是真)なども出はいりしておりました」

 と出ている。
 円朝は近喜一家や荻江節のことを取りあげて、「牡丹燈籠」、「月謡荻江一節」(つきにうたうおぎえのひとふし)、「名人くらべ」などの作品を創っている。

 それについての詳細は、『せんすのある話』「荻江節」第十三~十五章を見て頂きたい。

 円朝の代表作ともいうべき「牡丹燈籠」は近喜の弟の弁次郎がモデルで、露という娘の名は近喜の妹の名で、作中露は飯島平左衛門の娘となっている。

 又、かめという末の妹の名は同じく『江戸は過ぎる』の「牡丹燈籠のお露さん」に出ている,近江屋河岸の堀割りに住みついている縁起のよい蓑がめから名付けられたに違いないだろう。

第131話 『玉屋山三郎と荻江節(七)、近喜の家族』

 四代目荻江露友になった近江屋喜左衛門、俗稱近喜こと、飯島喜左衛門の家族については、中川愛氷氏の書かれたものに拠っているのが殆どであるが、それを整理した家族表が『荻江節考』(竹内道敬著)に出ている。
 その表によると、近喜にはとせという姉がいた。

「とせは荻江露光という名を持っていた。とせの娘にえいというものがあり、深川高橋の質屋三河屋に嫁いだ。その長女にるいがあり、祖母のとせから荻江を習っていたが、大正の末に亡くなった」(以上、要約)

 これは中川愛氷氏の『河東と荻江』にそう載っているとあるが、私は同書は未見であるので、そのまま孫引きさせて頂いた。

 又、近喜には、露とかめという二人の妹があった。
 露の娘に鶴子があり、母の妹、つまり叔母のかめの三味線で、金谷丹前と深川八景を唄ったのを中川氏は聴いている。(以上、『三絃楽史』)
 近喜の兄弟姉妹関係は、姉一人、妹二人だけで、兄弟は前掲の家族表には載っていない。

 同表には又、近喜の子供として、次男の弁次郎というものがいて、円朝の『牡丹燈籠』のモデルになったと『小唄よもやま話』(英十三著)からの引用があって、次男があったからには長男がいたに違いないと、長男の下に?印が打ってある。

 近喜の妻のいくについて、『荻江節考』の「四代目の没後」に、

「四代目露友こと飯島喜左衛門が死んでから、荻江はどうなっただろうか。
 妻のいくはそのとき四十歳になっていた。彼女は正妻ではなかったともいわれるが、それはともかく、荻江を知っており、荻江いくという名取であったらしい。夫の没後、政吉という名で柳橋に芸者として出たとあり、のち、守竹家という芸妓置家を営んだという。四十歳になって芸者に出たというのは、喜左衛門と一緒になる前も、芸者であり、正妻ではなかったことを裏付けているようである」

「喜左衛門といくの間には、実子はなかったようである」

「しかし、喜左衛門にではなく、いくには少なくとも三人の養女があったことがわかっている。この三人は、喜左衛門の没後、守竹家の養女(つまり芸妓?)であったようだ」

 とある。
 ここに書かれていることはかなりの部分で違っているが、それは追い追い後述ではっきりすると思う。

 拙著『江戸吹き寄せ』の「四代目荻江露友家の家譜」にも書いたが、次男の弁次郎というのは飯島家の次男であって、飯島家の長男は近喜自身なのである。
 つまり、近喜には弁次郎という弟がいたわけである。
 いくの経歴については前章でも述べた通りだが、近喜との接点がいつだったのかは不詳。

 しかし、以下引用する『江戸は過ぎる』(河野桐谷編)の「北川町さんの話」に、娘がいたとあるから、いくと一緒になる前に正妻がいたのは確かで、彼女と離縁の後、いくと正式に結婚して、少なくとも三人の実子が出来たことはわかっている。

 その裏付けになった記録が『江戸は過ぎる』に載っている、前出の「北川町さんの話」(西村勝三郎氏未亡人の談)と「牡丹燈籠のお露さん」(都築幸哉氏談)の二話で、それに加えて、近喜の菩提寺、江東区東砂の因速寺から頂戴した近喜に関する資料から、全貌とまではいかないが、或る程度推定出来ることもあるので、以下関係箇所を引用する。

「露友さん(近喜)は、弟さんと、お嬢さんとがありましたが、露友さんのお母さんやお父さんは、その頃いたかどうだか子供心で憶えていません」

「お嬢さんは原庭とかいう質店に嫁ぎましたが着物等もずいぶんたくさん持って行き、立派な婚礼をしたけれど、直にそこもいけなくなったのでした。旦那(露友)の次は、弁次郎さんという人で、この人は馬鹿に色男で、浮世絵の美男みたような人でした。(中畧 )養子に行って、円朝の牡丹燈籠の話の種になったというのは、その後のことでしょう」(以上、「北川町さんの話」)

 因みに、話し手の西村勝三郎氏未亡人の甥のお母さんが、近喜の家の女中頭をしていたという。
 以下は、「牡丹燈籠のお露さん」から、

「私も父から聞いたことですから、よくは知りませんが、飯島はよほど大きかったものらしいのです。玄米問屋で、大名から玄米をとって金に換えたのです。先祖が近江から出たので、近江屋といった。そして、代々当主は喜左衛門といったので、それで、俗に近喜近喜といったのでしょう。北川町一町内が住居で、堀割の中にみの亀がいるので、画家がよくスケッチに出かけました。その亀は大分大きかったそうです。古く年経たので、亀の甲羅には藻が三尺ぐらい生えていたそうです。時折天気の良い日など、その亀が浮いているので、それが家の栄えるしるしであるとかいって、たいそう珍重しましたそうです」
「今日のおひさという荻江節のお婆さんは、おいくの弟子です。おひさがおいくの所に稽古に来てるのを私は子供心に覚えています。私の親父も少しは荻江節をやりましたが、今のおひさのやる荻江は大分ちがっているようです。荻江節も今日では、殆ど絶え絶えでしょう。円遊という落語家の妻君が、荻江節が上手でした。深川八幡の門前に、宮川とかいう鰻屋がありますが、あれが、おひささんのお弟子です。いっぺん「屋島」かなんかを伺ったことがありました」

 荻江ひさの話は、近喜の家族とは関係ないが、引用したのは、ひさの芸歴については不明な点が多く、ひさが荻江節を習ったのはいくではなく、富本わかという富本節の女芸人だったともいわれているし、また、ひさは守竹家抱えの芸者だったという説もあるようだ。

 町田佳声氏は、昭和三十一年に五代目荻江露友を襲名した前田青邨夫人のことを書いた『宗家五世 荻江露友』(昭和四十三年刊)の中の「荻江節の起りとその芸を伝えた人々」で、

「このようにして四代露友が復興した荻江節もまさに絶えようとしたのを、幸いにもその一門から柳原ひさ、梅の姉妹が現われて、明治から昭和へと荻江節をつなぐ橋(ブリッジ)の役目をしたのであるが、これはブリッジであっても尊とい存在であった。またこの柳原ひさ、同梅両女の履歴については梅の子である柳原緑風氏も身内のことで書き憎くかったのか、あまり詳しい記録を残してくれなかったのは残念であるが、幸い芸能方面のことだけは解っている。それは四代露友の地を弾いていた人に富本豊久と呼ぶ人がいた。(中畧)しかるにこの豊久は非常に芸の優れた人であったということで、この豊久の娘にわかというのがあり母に似た芸達者でこのわかにひさ梅両女は荻江を習ったという」

 とあるので、都築氏の話を引用させて貰ったわけだが、或いはひさ梅両女は富本わかから荻江節を習ったのかもしれないが、ひさがいくの所に行っていたのも確かなようだ。

 次回は、近喜といくの子供達について書く予定である。

 なお、前出の「牡丹燈籠のお露さん」の中に、「(近喜の)先祖が近江から出たので、近江屋といった」とあるのは誤りで、因速寺の資料によると、初代近喜は信州穂高宿の生まれで十二歳の時に江戸へ出て来て、三十四歳の宝暦六年の江戸大火の折、米と材木を商って五千両儲けたとある。

 十二歳で江戸に出て来た初代近喜はいずれ何処かに奉公したに違いなく、長年つとめあげて暖簾分けをして貰った、その奉公先が近江屋であったのだろう。  従って、三十四歳の時には既に独立していたことになる。

 因速寺の資料については、拙著『江戸吹き寄せ』の「四代目荻江露友家の家譜」を参照されたい。

第130話 『玉屋山三郎と荻江節(六)、東和といく(上)』

 前回、十寸見東和の会のプログラムに年表示がなかったが、他の同類の文書が明治四年に集中して残っていることから、同じく明治四年だろうと書いた。

 念の為、コピーにとり洩らした東和の願い書に年月日が書いてあるかもしれないと思って、都の公文書館に確かめに行ってきた。
 東和の願い書の外に、荻江千蔵の場合と同様、市井掛の伺い書も残っていた。

 それによると、明治四未年三月五日(願い書)、明治辛未三月五日(伺い書)と夫々なっていて、やはり明治四年に間違いなかった。
 このことから、山彦秀次郎が東和の順講に出演していない理由も判明した。

 秀次郎の父の十寸見可慶は、『十寸見編年集』によれば、明治四年三月二十一日に亡くなっており、奇しくも東和の順講の当日である。
 順講開催の願い書の日付は三月五日となっているが、恐らく可慶はそれ以前から重い病床にあって、息子の秀次郎は看病で順講どころではなかったと容易に想像がつく。

 さて東和だが、十寸見東和というと、山彦秀次郎門下の味沢貞次郎氏と思ってしまう。 味沢氏は鰻の大和田の主人で、築地成勝寺の元祖河東の墓、向島長命寺の河東歴代の墓が区画整理など寺の事情で癈棄されかけたのを、自分の菩提寺の羽田海岸寺に引きとった、河東節にとっては大恩人ともいうべき人である。(それらの墓は今も海岸寺にある)

 しかし、この明治四年の十寸見東和は味沢氏の一代前の東和で蔵前近くの浅草新片町在住の小野半次郎という者であることが願い書の記述からわかった。
 東和の順講に関する書類は、荻江千蔵の場合と同様、伺い書、願い書、口上書とあり、更に荻江千蔵関係の書類にはない当日のプログラムも残っているのだが、書式は殆ど一緒なので、必要な所だけ挙げることにする。

 まず願い書、

    乍恐以書付奉願上候
 一浅草新片町三番借地河東節三味線指
  南芸名十寸見東和事小野半次郎
  奉申上候来ル廿一日弟子共順講浚相催度
  奉存候処私宅至而手狭ニ而差支候間
  同所下平右衛門町廿三番借地瀬下八郎兵衛
  宅借請弟子共相集リ同日朝四ツ時より
  夕七時限り相仕舞候儀ニ御座候尤口上書
  八拾枚限り門弟の者而己エ相配り其他エ一切
  相配り不申候間(以下畧)

 万八が瀬下八郎兵衛宅となっていて、姓を瀬下といったようだ。

 時間は十時始めの夕方四時終了。口上書は八拾枚で、弟子而己(のみ)に配り、その外には配りませんというのだが、プロを見ると他の流派も大勢出ているので、これでいいのかと思ってしまう。

 しかし、市井掛の伺い書には、大参事、権大参事の宛名の下に承認の印が押してあるので、十寸見東和の順講は間違いなく催されたと思われる。  また、この小野半次郎の東和だが、以前松廼家露八について書いた章(「松廼家露八(三)」)の中で、仮名垣魯文が当時まだ土肥庄次郎といった武士で彰義隊の一員だった露八をからかって激怒させたエピソードを挙げて置いた。

 怒った露八が、魯文を叩き切ってやるといって捜していると聞いて家に帰ることも出来ず、上野池の端の麦斗ろという料理屋で、魯文が講釈師の桃川燕林や幇間の桜川正孝などの知り合いの連中(その中に東和もいた)と呑んでいるところに突然、何処でどう嗅ぎつけたのか、白刃を抜いた露八が入ってきたので一同は大パニックになり、魯文は転けつ転びつ真ッ青になって逃げ出し、燕林は腰を抜かして立てず、東和は二階から辷り落ちて気絶してしまったという、その東和が小野半次郎ということがわかった。(この話の詳細については「松廼家露八(三)」を参照)

 この東和は、『十寸見編年集』によると、可慶の弟子で初め半爾といったと出ている。 順講の主催者である東和が出演していないというのも妙な話だが、最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶の病状、死と関係があるのかもしれないが、これらの文書からはわからない。

 順講が河東節の順講か、各流持ち回りの順講なのかもはっきりしない。
 願い書は口上書を添えて提出し、それに対して市井掛が伺い書を出しているようだが、この河東節の順講開催の願い書はちょっと吟味しただけでも可成りいい加減なものである。

 例えば、口上書を弟子共のみに八拾枚配りますと願い書に書いているが、他流の師匠達が東和の弟子である筈がない。
 そんな願い書でも許可が下りたのは、実体が音曲の浚い会と知れているからか、又市井掛が荻江千蔵の名弘会の時と同様、「本日質素ニ相催候は勿論夜ニ入不申退席候様相達シ可申ト存候」と伺い書に書いているように、夜の集会は規制されていたのかもしれない。

 さて、次にいくだが、いくは柳橋花街から政吉という名で出ていた。

 余談になるが、今は水商売の女性の名をすべて源氏名といっている。これは昔、遊女の名を源氏物語から取ってつけたことに依るが、芸者などの何太郎、何助、何吉といった男名前を三田村鳶魚は権兵衛名といっている。

 成嶋柳北の『柳橋新誌』の初編は安政六年(1859)に成ったが、その中の芸妓名を列挙した小妓(半玉)のところに政吉の名が出ている。
 弘化二年(1845)生まれのいくは安政六年には十五歳(数え歳)になっている。『柳橋新誌』の第二編は明治四年(1871)に出た。

 同書に次のようにある。
 漢文なので、読み下し文を挙げると、

「(前畧)壬戌の夏、余柳春三と戯れに柳橋二十四番花信評を作る。阿金梅花に比し、阿幸桜花に比す、(中畧)梅吉は藤花、政吉は燕子花(かきつばた)、千吉は芍薬、(中畧)亦各衆芳に比す。而して当今存する者は唯阿幸、菊寿、政吉(今阿郁と稱す)阿蓮四人耳。)(以下畧)」

 柳春三とは柳北の友人、柳河春三のことで、『名人忌辰録』によると、

「柳川(河)春三 春蔭 尾張の人古き英学者にして一度開成所の頭取となる明治三年二月廿日没す歳三十七」

 とある。

 柳北は春三と二人で、二十四人の柳橋の芸者を花になぞらえた漢詩を作った。壬戌とあるから文久二年(1862)のことである。
 いくは十八歳になっているが、この時まだ半玉だったのか、或いは既に一本になっていたのかはわからない。

 しかし、明治四年、いく二十七歳の時には妓を罷めて郁(いく)となっている。
 政吉からいくになった時期も文久二年から明治四年の間で、それに近喜が関係していたのか、どうかも不明だが、その明治四年に、いくが既に諸流の一流の師匠達に伍して、荻江で活躍していたことが、十寸見東和の順講のプログラムで判明した。

第129話 『玉屋山三郎と荻江節(五)、順講の番組』

 芝浦の東京都公文書館に山田山三郎の調査に行った時に、荻江千蔵の名弘会開催の願い書を見つけたのだが、音曲、舞踊などに関する同様の文書も何通かあったので、その中のいくつかをコピーして来た。
 十寸見東和主催の順講の番組と口上書もその一部である。
 順講開催の願い書もあったのだが、コピーにとり洩らしてしまった。

 順講というのは、毎月の月浚いなどを場所を替えて持ち回りで行うことで、この十寸見東和の順講が河東節の順講なのか、或いは番組を見ると、義太夫、一中、富本、荻江なども出ているので、それら各流派の持ち回りなのか、これだけの書類からは何とも分からない。

 とにかく、その文書の内容は次の通りである。

口演
来ル三月廿一日柳橋萬八楼ニおいて順講
相催候間御賑々敷御来駕被成下候様偏ニ
奉希上候以上
会主
十寸見東和

 この三月廿一日というのが、明治何年の三月廿一日なのか、年表示がないので分からないが、他の同様の書類が明治四年なので、やはり同じく明治四年としてよさそうだ。
 次に、その番組を挙げる。

番組
                     十寸見東洲  山彦栄子
松 竹 梅                 十寸見東川  山彦小初
                     十寸見東鴈  山彦康子

おしゅん                 青桜      玉迺舎
伝兵衛 花川戸身替の段           宝雪      徳次
                     宝珠翁

源平妹脊の鶏合              都一中    都一静
                     都以中    都一不二
                     都一米

                     宇治紫文    宇治倭文
邯 鄲                  宇治紫交    宇治桂子
カケ合                  松 斎     山彦山子
                     十寸見東佐   山彦可運子

梅雨
金屋丹前                 あ や     いく
きみ

妹脊山吉野川               花澤三糸算
カケ合                   花澤扇左衛門

神楽獅子                  十寸見東佐   山彦桃子
下の巻                  十寸見東洲  山彦桂子
                     十寸見東洲   山彦良子
                     十寸見巴重

以上  会主  十寸見東和

この番組には七番の演奏曲目が出ているが、曲名と出演者名からすると、次のようになる。

(1)松竹梅(河東節)、(2)花川戸身替の段(富本節)、(3)源平妹脊の鶏合(一中節、都派)、(4)邯鄲(河東節と一中節宇治派とのカケ合)、(5)金屋丹前(荻江、この頃はまだ長唄の荻江であって荻江節とはいわない)、(6)妹脊山吉野川(義太夫節)、(7)神楽獅子、下の巻(河東節)。出演者の上段は浄瑠璃・唄、下段は三味線。

 出演者について、河東節連中を一番後回しにして、わかっていることを付け加えると、

 (2)の富本のトメを語っている宝珠翁とは、安政三年(1856)に富本豊前太夫を退き、豊珠翁と稱し、明治九年に七十二歳で亡くなった三代目富本豊前太夫と思われる。豊という字が宝となっているが、誤字なのか、或いはそう名乗ったこともあったのか、誤字とすると、二枚目の宝雪も豊雪なのかもしれない。三味線の玉迺舎はわからないが、徳次は富本の三味線弾き、六代目名見崎徳治だろう。六代目の名見崎徳治は天保四年(1833)生まれで、明治十年に死んだ。行年四十五歳。

 (3)の都一中は、明治十年三十八歳で亡くなった八代目の都一中で、三味線の都一静(いちしず)はお船倉の師匠といわれた都一清のことである。都一静(いっせい)というと、宇治倭文となった名人おしずが都派にあった時の名になってしまう。都派では、一静という名取りは「いちしず」と稱したという。

 (4)の邯鄲は、宇治派の一中節と河東節の掛け合いで、宇治紫文は初代紫文斎と名人おしづとの実子の二代目紫文斎である。二代目は多病のため明治八年に隠居して閑斎翁と稱したが、明治十二年五十九歳で没した。

 脇の紫交は後に紫鳳から三代目紫文斎を継いだ江左太夫の紫交かもしれない。三代目紫文斎は明治三十六年没。行年七十歳。
 三味線の宇治倭文は二代目で、名人おしづの筆頭弟子のやすである。

 初代は慶応三年(1867)七十四歳で亡くなったが、連れ合いである初代紫文斎が安政五年に死んで間もなく剃髪して清寿尼となり、倭文の名をやすに譲ったといわれている。
 二代目倭文は盲目だったが、浄瑠璃、三味線共に秀れていたという。

 (5)の金屋丹前は荻江で、三味線にいくの名があるが、いく以外の出演者についてはわからない。
この番組は、いくがこの時期既に荻江をやっていた証據ともいうべき貴重な文書だが、いくについては次回、今迄分かっていることをまとめるつもりでいるので、今はこれまでに止めて置く。

 (6)は義太夫で、花澤三糸算の算の字が番組に書かれた筆字では弄とも読めるが、明治の東京で義太夫三味線の頭取をつとめ、明治十四年に隠退した三代目花澤伊左衛門の別名、花澤三糸算と思われる。

 花澤三糸算について『浄瑠璃大系図』に、

「(花澤姓の元祖、初代花澤伊左衛門の)の門弟にて(中畧)、天保元年(1830)寅の春より一座にて尾州名古屋へ行夫より直に東京え赴きて彼地にて改名を致し花澤伊左衛門と師匠名跡相続致すなり元祖より三代目也彼地住居と相成三糸算と改め又伊左衛門にて出勤致明治十五年頃引込終らるる事実(以下畧)」

 三代目花澤伊左衛門の三糸算は浄瑠璃、三味線共に巧者で、弟子も多く、東京に花澤の義太夫を広めたのは彼の功績といわれている。
 もう一人の出演者、花澤扇左衛門については不詳。

 (7)は河東節。河東節の出演者については、『十寸見偏年集』を見れば可成りのことが分かるが、後の明治、大正の家元、山彦秀翁の山彦秀次郎の名が番組にないことと、会主である十寸見東和の名が出演者の中に載っていないことが気になる。

 山彦秀翁は、最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶(死後、九代目河東を諡されている)の子だったが、明治の初めに河東節に見切りをつけて渡米し、数年後に帰国して河東の家元となったことは分かっている。しかし、秀翁がいつ渡米して、いつ帰国したかは不明。米国ではあまりよいことがなかったのか、秀翁自身そのことには触れたがらなかったという。

 明治七年の『根元・諸芸東京自慢』という刷物に山彦秀次郎の名があるが、翌明治八年の『諸芸人名録』の河東節のところにはないので、渡米の時期はその頃と思われ、明治十七年四月末からの 東京新富座の助六の絵番付に山彦秀二(次)郎と出ていることから、その頃には帰国していたようだ。
 秀次郎の留守中、山彦栄子が河東節連中をとりまとめていたようで、『諸芸人名録』の頭取世話人名の河東節のところに山彦栄子の名が挙がっている。
 栄子は柳橋の藤岡という船宿の娘で、初め河東節を母親の徳から習ったという。

 徳は四代目荻江露友の近喜と昵懇で、お浚い会などによく一緒に出かけたようで、明治十一年頃の新聞に、荻江の家元と藤岡のお徳が一緒にどこそこの会に顔を出したという記事が出ているのをいくつか見たことがある。
 秀次郎が帰国してその門弟達が真澄会という後援会を作ったのに対して、栄子の一派を藤岡派というようになった。
 会主の十寸見東和と荻江いくについては、次回に―――

第128話 『玉屋山三郎と荻江節(四)、荻江千蔵』

 慶応四年(1868)は、一月に鳥羽伏見の戦争、五月に彰義隊の上野の戦いの後、九月に明治と改元になった。

 翌明治二年五月に函館五稜郭の幕府軍が降伏して、明治政府と旧幕軍との戦いは終わったが、それで世の中が安定した訳ではなかった。

 同年九月に大村益次郎が暗殺、翌明治三年には、旧幕の不満分子を集めて不穏な動きを企てたとして雲井竜雄が捕えられ、十二月に小塚原で処刑されるなど、明治の初年には世情不安がまだ、暗い翳を落していたようである。

 明治政府も特に人が集まる集会には神経を尖らせて規制したようで、邦楽のお浚い会のようなものでも許可がないと開催出来なかった。

 都の公文書館には、そうしたお浚い会の開催願いが何通か残っているが、その後治安が回復し、世情が安定するのに伴って規制も緩められたらしく、残っている願い書は、明治四年頃に集中しているようである。

 河野千蔵事、荻江千蔵の願い書もそうした一通で、文面は次のようになっている。

乍恐以書付奉願上候
一 新吉原揚屋町拾七番借地男芸者
河野千蔵事荻江千蔵奉申上候私儀
同所江戸壱丁目廿三番地主町人山田山三郎事
荻江清條門人ニテ先達テ中荻江ト申
芸名貰請是迄当所男芸者稼
罷在候処未右名弘会不仕候二付此度
同門弟中エ口上書八拾五枚ヲ限相配
来四月廿一日宅手狭ニ付浅艸下平右門町
廿三番借地料理渡世萬屋八郎兵衛方
借請名弘会相催申度奉存候尤も
是迄名弘会不仕全かねての義ニテ無縁ノ
者エ相配リ候義ニハ決テ無之候間何卒格別之以
御慈悲此段御聞済被成下置候様偏
奉願上候以上
新吉原揚屋町
拾七番借地
男芸者
訴人 河野千蔵 印
明治四未年三月廿三日 町月懸
藤田為作
東京府
御役所様

 この書類から、山田山三郎の玉屋山三郎が荻江清條と稱して、荻江の名取り名を出すなど、家元的な立場にあったことがわかる。

 清條の清は花柳園山三郎が山田清樹といった、その清を取ったのだろう。

 荻江千蔵は男芸者だったというので細見を見ると、荻江千蔵の名は安政の終わり頃から、その名が出てくるが、その頃の荻江千蔵は先代の荻江千蔵と思われる。

 しかし、以後慶応頃まで、ずっと吉原細見にその名が載っていて、明治三年の細見にも荻江千蔵の名がある。

 先の願い書中に、「先達テ(先だって)」とあったが、その言葉が、五年も六年も前のことを指しているとは思えない。

 せいぜい、明治三年の細見に出ている荻江千蔵が、河野千蔵ではないだろうか。

 又、願い書に千蔵と連名の藤田為作の肩書の町月懸だが、他の同様の願い書の連名の肩書に町月掛とあるので、同じものと思われる。

 この荻江千蔵の願い書に関係する書類として、他に二通、市井掛の伺い書と、河野千蔵が配布した口上書が残っている。

 市井掛の伺い書は次の通り、

為伝置候

大参事
権大参事        市井掛

新吉原揚屋町拾七番借地荻江千蔵
音曲浚願之義御聞届可相成哉尤本日
質素二相催候ハ勿論夜二入不申退席
候様相達可申ト存候此段相伺申候

辛未三月廿三日

 明治初めの警察制度については殆ど知らないが、明治政府は東京の治安に関しては幕府の江戸町奉行所の組織をそのまま利用したといわれているので、市井掛というのは旧町奉行所の定廻り同心に当たる役目の者か。

 大参事の下に北嶋の印、権大参事の下には平岡の印、又、市井掛の下に五つ程の印が押してある。

 辛未とは、いうまでもなく、明治四年のことである。

 次に、荻江千蔵が配布した口上書を挙げる。

口演
益御機嫌克被遊御座恐悦
至極奉存候さて私儀先年師匠より
芸名貰請候二付此度右名弘
浚相催度候処私宅手狭二候間
両国柳橋万屋八郎兵衛方に
おいて来ル廿一日晴雨共仕候間
何卒御賑々敷御光来之程偏
奉希上候以上
四月      荻江千蔵

 荻江千蔵の名弘会々場の万屋八郎兵衛というのは、俗に万八と呼ばれた有名な料理屋兼貸座敷で、書画会やお浚いなどによく利用された。

 特に大浚いとか、大規模な書画会になると、柳橋の万八か、向両国(むこうりょうごく)といわれた本所側にある中村屋平吉の中村楼に決まっていたという。

 式亭三馬は文化八年(1811)三月に中村楼で、滝沢馬琴は古希の天保七年(1836)八月に万八で、夫々盛大な書画会を催している。

 荻江千蔵は願い書の中では万八について、浅艸下平右衛門町廿三番借地料理渡世と書いているが、口上書では両国柳橋万屋八郎兵衛としている。

 浅草下平右衛門町としたのは、今の浅草橋の所に浅草御門があったからで、願い書では下平右衛門町の衛という字が脱字している。

 荻江千蔵は荻江門弟中に口上書を八拾五枚配布したいと願い書に書いているが、その全部が全部同門の門弟宛に配った訳ではなく、当然中には贔屓の客や荻江とは無関係な普段お世話になっている人なども含まれていたと思われる。

 曾って山彦秀翁が荻江について語った話の中に、

「(花柳園)山三郎が音頭で、社中といふのは男女二十名くらいありました」

 とあったが、その時からすると、八十五という数字を多少割引いても、荻江連中の数は二、三倍になっているとみていいだろう。

 都公文書館の資料の中に、いくの名が載っている文書を見つけた。

 いくは四代目荻江露友の妻女となった女性である。

 それについては、次回に

第127話 『玉屋山三郎と荻江節(三)、山田山三郎』

 花柳園山三郎が亡くなった後、次代の山三郎の時に江戸幕府は崩壊し、明治の世になった。

 明治政府の下、東京は大小区制が布かれ、吉原は第五大区第十二小区に編入された。

 明治四年十一月二十八日のことである。

 その第十二小区の戸長(小区長のこと)に山田山三郎の名があった。

 玉屋は山田姓であることから、それは玉屋山三郎に違いないと直感した。

 都の公文書館に行って調べたところ、山田山三郎は第十一小区の戸長も兼任していることがわかった。

 明治政府は、明治五年十月二日に「僕、婢、娼妓解放令」を布告し、人身売買を禁じたが、それによって吉原は大打撃を受け、多くの妓楼が癈業に追い込まれた。

 中万字屋をはじめ、和泉屋、山城屋、久喜万字屋、大黒屋等々、いずれも店を閉め廓を去った。

 玉屋も御多分のもれず、閉店の止むなきに至ったが、その正確な日付は今のところ分からない。

 明治六年十二月二日付で、山田山三郎を第五大区第十一、第十二小区の戸長に任命する旨の書き付けが残っているが、湯島天神三丁目山田山三郎とあるので、玉屋の店を閉じたのはそれ以前で、廓を去った山三郎の移転先が湯島であったことが知られる。

 その後の山三郎について、公文書館の書類から分かることは、山三郎は明治十年に病気に罹り、療養中の業務を高木六蔵という書記に代行させたようで、「事務代理申付」の伺い書が出されている。

 どんな病気だったのかは書類に書いてないので分からないが、療養は長期にわたったようで、明治十一年七月二十二日公布の「郡区町村編成法」が同年十一月二日から実施に移され、旧大小区制は癈止、東京府は麹町区以下の十五区と、荏原郡以下の六郡で構成されることになった。

 明治十一年十一月二日付で、山田山三郎は浅草区役所に雇われ、同四日に書記に任命されている。

 給料は月給十二円とある。

 しかし、その同じ十一月二十九日に辞表を出している。やはり病気のせいかもしれない。

 翌日の明治十一年十一月三十日に辞表は受理され、正式に退職。以後、山三郎は公の場から姿を消す。

 その後の山三郎についての情報は皆無である。

 かなり以前のことになるが、『吉原雑話』に次のような記述があるのを見つけた。

「玉屋山三郎元祖山田宗順。
 正徳四年二月二十九日死(小文字添書)
  山田次郎左衛門
 此説未詳、玉屋次郎左衛門は本家三之丞家、玉屋山三郎、玉越太郎兵衛先祖よりして親類也、故に其墓本所押上大雲寺中、撞鐘堂のむかふ俳諧士の祇徳が墓とむかひあって有る也、山桐屋の墓也」

 これを見て、玉屋の菩提寺は大雲寺ではないかと思い、機会があったら行って確かめたいとかねがね思っていた。

 大雲寺は別名役者寺とも云い、市村羽左衛門、坂東彦三郎、瀬川菊之丞、尾上菊五郎、松本幸四郎、中村勘三郎などの歴代の墓があるので有名な寺で、関東大震災後、押上から江戸川区の瑞江に移転して、今は瑞江葬儀所のすぐ目の前にある。

 墓碑史蹟研究会を主催しておられる星沢豊子さんから、例会で大雲寺に行くという御案内を頂いたのは昨年十一月のことである。  勿論、悦んで参加させて頂いた。

 私は会員の皆さんとは別行動で、大雲寺ご住職の西城宗隆氏にお目にかかり、お話を伺った。

 結果を先にいってしまうと、残念ながら大雲寺は玉屋の菩提寺ではなかった。『吉原雑話』にあった山田宗順の墓も既に無く、万延元年六月二十五日に亡くなった花柳園山三郎についても過去帳を調べて頂いたが、該当する人物は見当たらなかった。

 大正の大震災の折、膨大な量の過去帳をすべて持ち出すことが出来ず、比較的新しいものだけ持って出たそうで、その中に幕末のものもあったので、花柳園山三郎について調べて頂くことが出来た。

 玉屋に限らず菩提寺が分かれば、過去帳を調べて貰え、はっきりすることも多い。

 例えば、没年月日、行年がわかる場合もある。

 大雲寺は玉屋の菩提寺ではなかったが、西城住職が大変ご親切に応対して下さったので、後日お礼に拙著をお贈りしたところ、ご丁寧な返事のお手紙を頂戴した。

 その中に、

「先日申したように、浅草蔵前榧寺さんが玉屋の本家筋の檀家であったということを、随筆で読んだことがあります。江戸時代は正覚寺が正式名で、現在の寺名は俗称であったと思います」

 とあったので、この二月の初めに榧寺を訪れた。

 榧寺は春日通りに面した大変モダンな感じのする寺で、バスで春日通りを通る時、いつも目にしていたので、地図などで確かめる必要もなかった。

 榧寺では、寺の方々が方丈さんと呼んでいるご住職がご婦人だったので、びっくりした。

 私が伺った趣旨を述べると、すぐ携帯電話をかけて何か話しておられたが、電話した先はは七十年榧寺に勤めて榧寺のことなら何でもご存知という方だそうで、その方も玉屋のことは全く知らないということだった。

 榧寺では過去帳はすべて揃っている由で、花柳園山三郎についても過去帳を出してきて調べて下さったが、該当する人物は見つからなかった。

 方丈さんのお話では、浅草のお寺さんの集まりがあって会場は榧寺なので、その時に玉屋の菩提寺について訊いてあげましょう、といって下さった。

 名刺を置いて行ってくれれば、後で連絡して下さるというので、名刺と一緒に持って行った拙著を差し上げて帰った。

 偶々私の他に、方丈さんのアポイントメントをとって来ているセールスマン風の人が待っているので、あまり突っ込んだ話が出来ず残念だった。

 結局、何の収穫もなかったのだが、携帯電話をかけ終わった時、方丈さんが私に向かって、

「玉屋じゃなくて、三浦屋じゃないんですか」

 といわれたのが、耳に残った。その時、

「いや、玉屋です」

 と私は答えたが、後で考えると、もしかしたら、榧寺は三浦屋の菩提寺だったのかもしれない、と今は思っている。

 三浦屋といえば、高尾太夫や助六でお馴染みの揚巻などを抱えている吉原を代表する大妓楼だったが、宝暦年間(1751~1763)に突然断絶した。

 原因はいろいろいわれているが、未だにはっきりしないようだ。

 榧寺が三浦屋の菩提寺だったとすると、三浦屋を調べる時には何か大きな手がかりになるかもしれない。

 次回は、山田山三郎の荻江との係わりの資料を都公文書館で発見したので、それについてーーーー。

第126話 『玉屋山三郎と荻江節(二)、花柳園山三郎』

昭和四十五年、コロンビア・レコードから出た「荻江節考」というレコードの解説書『荻江節考』(竹内道敬著)に、

「(吉原では)男芸者で長唄を表芸にしていた者は、長唄の姓(たとえば松島、杵屋、芳村、岡安など)を使用することが禁じられていたのではないか」

として、

「荻江姓を名乗る男芸者は、荻江節を伝承していたのではなく、むしろ、長唄を表芸にしていた男芸者が、何らかの理由で(禁止されたか遠慮したかして)荻江を名乗っていたのではないか」(以上、要約)

とあるが、これはやはり前章でも述べた通り、吉原の座敷で素で演奏する長唄は、長唄の原曲そのものではない、所謂吉原風長唄なので、そうした長唄の元祖とも云うべき初代荻江露友の姓を名乗る者が多かったのかもしれない。

更に、同書には、

「(長唄の)富士田の姓は、安永元年(1772)、同二年でなくなり、その後も松島、坂田、岡安の名が散見するが、それらも一人だけで、数年を経ずしてなくなってしまう。また頭書の「長うた」というのも、安永二年以降にはない」

ここには出ていない錦屋という名もあるが、岡安、錦屋は三味線弾きで、寛政年間に出てくる坂田は、元祖の坂田兵四郎が「めりやす」の名人だったこともあって、「めりやす」の唄い手だったのかもしれない。

要するに、殆どの長唄の男芸者が荻江姓となり、そうした連中が演奏する吉原風長唄を、三升屋二三治は、荻江風と呼んだのだろう。

荻江の現存曲は二十三曲で、その内の現在道成寺は一部分しか残っていない。

それを分類すると、

(一)、長唄系のもの
(二)、地唄系のもの
(三)、荻江独自の曲

以上の三種類となる。

(一)は長唄から引き継いだもので、(二)と(三)は花柳園山三郎がプロデュースした新曲である。

それらの新曲について、『荻江節考』では、

「主として吉原俄で出来たもので、作曲者は荻江里八であろう」

(要約)

としているが、里八が一中節の大野里八から荻江里八に改名したのは、弘化二年(1845)の吉原細見からで、花柳園山三郎が新しい音曲を作る運動を始めた時期と一致している。

従って、里八の前に川口お直がいた訳で、お直と里八がどのように荻江の新曲の創作に係わったのかは、今後の研究課題だろう。

吉原俄についてだが、荻江に関する番組として、嘉永三年(1850)の寿文矢屏輔(ももちすじふみのやびょうぶ)と、安政五年(1858)の花柳春日迺神楽(はなやぐやかすがのかみがく)が残っている。

嘉永三年の番組は一中節と荻江の掛け合いで、一中節は宇治紫文斎の宇治派だが、三味線に名人お静の宇治倭文の名はない。

荻江は、唄は荻江露輔、千代作、露文の三名、三味線は荻江里八、亀次、和吉の三名、番組の下部に、持主安房万字屋とあるが、持主の意味は不明。

荻江の出演者の内、露輔(露助)、千代作、里八は、いずれも弘化二年以後の吉原細見にその名が出ているが、唄の露文、三味線の亀次、和吉の名は吉原細見の男芸者の部に載っていない。

或いは、助人で一時的に荻江姓を名乗ったものか。

花柳園山三郎は、都派を破門された宇治紫文斎の後ろ楯となり、宇治派を創派させたといわれている。

荻江と宇治の掛け合いには、そうした二人の関係が見え隠れする。

紫文斎の伴侶である名人お静は琴の師匠だったとも云い又、以前書いたように、宇治派には百島勾当も加わっており、荻江に地唄を取り入れたのには、それらの人達の関与もあったと思われる。

安政五年の番組(私蔵)の一部安政五年の番組(私蔵)の一部
図(A)                        図(B)

安政五年の番組(私蔵)は一部を図(A)、(B)、(C)に挙げた。

表紙(図(A))には、

「当ル戊午初俄 花柳春日迺神楽、翁いか、千歳 もむ、三番叟 よね」

とあって、下部に扮装した六名の舞い姿の絵が出ている。

続く図(B)は同番組の二頁目(表紙の見返し)で、右上に長唄とあり、その下に唄の荻江さき以下四名と、左上の三絃とある下に出ている四名の内の最初の二名、荻江つう、よのは吉原の女芸者と思われる。

三絃の残りの二名は男性で、荻江和吉と里八である。里八の名が他の芸人達と違って、荻江里八と大きく書いてあるのは、リーダーというか、責任者なのかもしれない。

左下に、持主和吉と此処にも持主という言葉が出てくるが、嘉永三年の番組の持主は安房万字屋とあり、妓楼か引手茶屋か。

持主という言葉通りにとれば、番組の持主で金主元ということなのか。今のところ、どういうことなのか、意味不詳。

荻江和吉は嘉永三年の番組にも出ていたが、吉原細見にその名はない。

元々長唄の芸人で、助人として一時的に荻江を名乗ったとすると、杵屋和吉かもしれない。

もし、そうだとすると、三世杵屋和吉は天保年間に亡くなっているので、その息子の四世和吉ということになる。

安政五年の番組(私蔵)の一部
図(C)

安政五年の番組の二枚目は、図(C)の如く、最初に、

「翁舞四社迺神歌(おきなまいししゃのかみうた) 荻江嗣流 山田清樹曲節」

とあって、以下、その詞章が二枚(四頁)、

次に、

「石橋 荻江嗣流 山田清樹作」

として、その詞章が一枚半(三頁)あり、全部で五枚(十頁、最後の頁は余白)の番組である。

この番組で最も目を引くのは、二頁目(表紙の見返し)の出演者のところで、図(B)を見てわかる通り、右上に長唄と書いてある。

花柳園山三郎は自分がプロデュースした新曲を荻江とはいわず、長唄といっているのである。

この安政五年の二年後の万延元年に、花柳園山三郎は死んでいるので、まず存命中は、自分達の作った音曲は長唄であって、つまり長唄の荻江連中と考えていたようだ。

花柳園山三郎自身、荻江嗣流とは稱したが、自らが荻江なにがしとなった記録は見つかっていないので、それはなかったと思われる。

しかし、新しい音曲を作る運動を推進する指揮をとったのは花柳園山三郎で、荻江連中の家元的存在だったことは事実で、それは花柳園山三郎が亡くなった後も次代の玉屋山三郎に引き継がれたようだ。

第125話 『玉屋山三郎と荻江節(一)、荻江風長唄』

 荻江節については今迄、何回も書いてきたが、一応ざっと整理して置く。

 初代荻江露友は、有名な富士田吉治楓江と並び稱された長唄の唄うたいで、楓江については『せんすのある話』の「吉原雀」の項に詳しく書いたので省略するが、寛保、宝暦頃の平澤常富の見聞録『後はむかし物語』に、

「長唄、路考(初代、瀬川菊之丞)が時は坂田兵四郎、仙魚(瀬川菊次郎、初代菊之丞の弟)が時は松島庄五郎なり、此の両人は此ころの唄の上手なり、此後、富士田吉治出て一家をなす、継て荻江露友出るといへ共、楓江にはおよばず」

 又、幕末の『三升屋二三治戯場書留』の長唄の項に、

「荻江露友は楓江には及ばずとも、荻江風といふを世に弘しは、なかなかおよぶところにあらず、今も猶、荻江風多くありて、人知るところなり」

 とある。

 初代露友は明和三年(1766)11月から、明和五年八月迄市村座に出演した後、吉原に引っ込んで客の求めに応じて座敷で唄を聴かせていたという。(『鹿の子餅』)

 長唄というのは歌舞伎の伴奏音楽が発展して出来たもので、長唄という名稱共々、音曲の一ジャンルとして確立したのは明和の初め頃で、その考証は『江戸落穂拾』の「長唄の成立」に書いた。

 本来、歌舞伎の伴奏音楽である長唄を座敷で、客が飽きないように聴かせるには、それなりの工夫が必要である。

 単調で冗漫な部分を大幅にカットし、聴かせ所を集める等、ダイジェスト的処置を施し、唄い方も座敷では劇場のように大声を張り上げる必要がないので、声の出し方をソフトに節を細かく唄うなど、従来の長唄と異なる特色を打ち出したようである。

 それは今残っている長唄系の荻江節の曲、例えば、高尾懺悔とか、金谷丹前などを調べてみるとよくわかる。

 殊に高尾懺悔は長唄に元の曲が残っているので、比較してみると、その相違点がはっきりわかる。

 初代露友のレパートリイには当時流行のめりやす(長唄の短い独吟物)も当然入っていたと思われる。

 短い独吟物ときたら、座敷で客に素で聴かせるには持って来いである。

 初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻(やなぎさわ のぶとき)作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。

 初代露友は天明七年(1787)に死んだといわれているが、初代が活躍した安永、天明の頃の『吉原細見』の男芸者の中に荻江露友の名は見当たらない。

 荻江姓の者が出てくるのは、私が目にした細見の中で天明二年(1782)のものに、荻江藤兵衛、荻江籐次、荻江松蔵の三名の名が初出する。安永二年(1773)の細見の芸者(この頃はまだ、女芸者も入っている)のところに、「長うた 藤兵衛」とある、その藤兵衛が荻江藤兵衛と改名したと思われる。

 その後、天明六年の細見では荻江姓を名乗る男芸者は十一名を数え、天明から享和にかけて十名程はいたようだ。

 文化年間(1804~1817)には少し減るが、八、九名は下らない。

 しかし、天保年間(1830~1843)になると、荻江姓の男芸人は激減し、二人しかいない場合が多い。

 後述する玉屋山三郎が廓の流行唄を作ろうと運動を始めたのは天保の終わり頃だったと思われる。

 この玉屋という妓楼は大籬(おおまがき)と呼ばれる大店で、江戸町一丁目の角にあったので、俗に角玉屋とか又、暖簾に火焔の模様を染めていたところから火焔玉屋とも呼ばれていて、主は代々山三郎を名乗った。

 この山三郎は『安政文雅人名録』に、

「心法清樹 名直温宇楽道 号好文堂又歌山堂 新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎」

 とある人物で、この他に花柳園とも号したようだ。前にも書いたが、西川流を破門された西川芳次郎の面倒をみて、自分の花柳という号を与えたのもこの山三郎で、芳次郎は後の初代花柳寿輔である。

 又、都派から破門されて孤立した都一閑斎が独立して別派が立てられるよう両者の間に入って調停役をつとめたことは「一中節の三派」の章に書いた通りで、都一閑斎は宇治紫文斎となった。

 こうしてみると、花柳園山三郎はなかなかのやり手だったようだ。

 邦楽研究家の故川崎市蔵先生から頂いた資料に明治四十一年三月の雑誌『歌舞音曲』に載っている「荻江節の事」と題する山彦秀翁の話の記事がある。

 山彦秀翁は幕末の河東節の太夫、十寸見可慶の倅の秀次郎で、晩年に秀翁と稱した。

 可慶は明治四年に亡くなったが、没後九代目河東を諡されている。秀翁は大正八年七十九歳で亡くなる迄、河東節の家元として、その保存と普及に貢献した人である。

 その記事というのは、

「吉原の廓内に維新頃迄、立派に暖簾を揚げていた大店で、玉屋というのがありました。

 此楼主の山三郎が、なかなかの音曲通で、地が芸好きの利けもので、玉屋の旦那が通り名でした。廓内は遊女屋渡世の外に、引手茶屋とか料理茶屋とかがある。

 此茶屋の主人や幇間衆や、芸妓の古顔などが寄って、何にか此の廓の流行唄を出したいとの話、其処で山三郎が色々節廻しや、絃の道を調べて、漸く仕上げたのが荻江節なんです。

 節は長唄に京唄をつき交ぜて、それをもっと淡白にやったという具合、しかしまァ京唄の方が勝っていましょうか。

 山三郎が音頭で、社中といふのは男女二十名くらいありました。惜しいことには、山三郎が安政の末か、文久の初めか覚えていませんが病死しました。わか死でしたね」

 前にも挙げたので重複するが、大変重要なことが出ているので、再び引用させて貰った。

 この山三郎は花柳園山三郎で、川崎先生は晋永機の『万延年中京上り旅日記』から、山三郎が万延元年(1860)六月二十五日に亡くなったという記述を発見されたが、享年は不明である。

 山彦秀翁は花柳園山三郎が若死にだったといっているが、荻江節を作る活動を始めた天保の末に少なくとも二十歳位になっているとすると、没年の万延元年には四十歳近くになっている。

 花柳園山三郎の始動を天保の末としたのは川口お直との関係からである。

 お直は元吉原芸者で、清元、河東節に堪能だったという。又、作曲に勝れ、清元の名曲、北州、梅の春はお直の節付けといわれている。

 お直は晩年、橋場で川口という料亭を営んでいた。

 私が、お直が荻江をやっていたというのを発見したのは、『贅高名花競』(ぜいたくこうめいはなくらべ)という見立番付のしゃれの方(東方)の三番目に、

「橋場 古今まれもの 川口荻江唄」

とあるのを見つけたからで、元吉原芸者だったこともあり玉屋とはよく知る間柄だったと思われる。

 そう考えると、花柳園山三郎が既に作曲に燦々とした実績を持つお直の才能を黙って放って置く訳がないとして、現存の荻江曲の松竹梅はお直の節付けではないか、という推論を前に書いた。(『江戸吹き寄せ』の「荻江節の作曲者」)

 お直は弘化二年(1845)十一月二十六日に亡くなった。行年は不明だが、七十歳位だったと思われる。

 お直が既に荻江をやっており、評判をとっていたとすると、花柳園山三郎の活動はお直の生前でなければならない。又、遊芸娯楽などに厳しかった天保改革中は先ず無理だったと思われるので、老中水野忠邦が免職となった天保十四年(1843)閏九月以降とすると、翌天保十五年は十二月に弘化と改元になったので、月が明ければもう弘化二年になる。『吉原細見』にみる荻江姓の男芸者は天保の末には僅か二名しかいないが、弘化二年に急に六名に増えていることも新しい荻江の活動を裏付けている。

 しかし、お直は弘化二年の末に死んでしまった。お直が荻江に係わったのは、長くても二年位の間だった。もう少し長生きしてくれていたら、荻江のレパートリイも増え、名曲も生まれたに違いないと惜しまれてならない。