第115話 『松廼家露八(六)、終焉・追補』

 先月図書館で、初版明治発行の『大日本人名辞書』という古い人名事典の中に、かなり詳細に松迺家露八のことが書かれているのを見つけた。

 今まで、この稿で触れていなかったことも出ているので、要約して次に挙げる。

「(土肥庄次郎は)旧一ツ橋家近習番頭取の土肥半蔵の長男で、御旗奉行
格大坪流槍術指南番土肥新十郎の孫。天保四年十二月江戸小石川小日向武島町に生まれる。初め祖父について槍術を学び免許を得、入江逹三郎に剣術、伊東一郎次に砲術、山口仲次に水泳術を学んだ。しかし、壮年に及び遊蕩に耽り、家督を弟八十三郎に譲って家を追われることになった。家を出た庄次郎は吉原の幇間となり、荻江露八と名乗った。そのことから、祖父や父は激怒して、庄次郎に腹を切れと迫った。しかし、介錯人の小林鐡次郎の気転によって救われ、江戸を出た庄次郎は長崎へ行き幇間となった。その頃、偶々尊王攘夷の風が吹き荒れ国中が騒然となる中、庄次郎は悟るところあって江戸に戻り、彰義隊が組織されるや、馳せ参じて隊士となった。
 彰義隊が上野の戦いに敗れた後、一旦庄次郎は上州の伊香保に隠遁したが、再び江戸に潜行して榎本武揚の軍に投じて、軍艦で函館に行こうとした。しかし、颶風に相遇して庄次郎の乗った船は駿州清水港に漂着してしまった。明治元年八月二十六日のことである。
 どうしてよいか分からなくなった庄次郎は再び江戸に舞い戻って幇間となった。
 その後、静岡行きを思い立ち、十三年間静岡で幇間を勤めたが、三たび吉原に帰り松迺家露八となった」

 これによると、庄次郎が幇間になったのは江戸時代のことで、その頃の細見にその名がないのは、まだ見習い中であったのかもしれない。師匠は荻江千代作だろう。

 また静岡から帰って松迺家露八になったというのは疑問で、庄次郎の荻江露八は松迺家露八と改名して松迺家節の家元となったとされているので、明治九年の芸人登録中に松迺家を名乗る者が十五名いることからも、その頃には露八は既に松迺家露八になっていたと思われる。

 以下、更に『大日本人名辞書』から引用させて貰うと、

「明治三十六年、庄次郎既に老ひて稼業また意の如くならざれば、其の春廃業して阿吽堂仁翁と改め、静かに老後を養ひ、此年十一月二十三日、[七十一歳 見あきぬ月の 名残哉]、[夜や寒き 打ち納めたる 腹づつみ]の二句を口吟して没す。年七十一。南千住元通新町円通寺に葬る。持ち芸として特に喝采を得たるは、布袋の川越し、妊娠娘、狸の腹鼓、仁王、泣虫の子供、仁王の蝦蟇、屋根船の提燈等なり。尚晩年幇間を勤むる傍ら、武士道の衰微を概し榊原健吉と共に毎年春秋二季に武術大会を催して其の振起に努力せりといふ」

 明治三十五年十月の快気祝いの会から露八が亡くなる明治三十六年十一月まで約一年強の間しかない。引用文から露八が廃業の会を催したのは明治三十六年の春とわかる。

 露八の死因について、中気で亡くなったと書いてあるものを見た。推定になるが、露八の静岡行きは明治十年代の初め頃で、東京に戻ってきたのは二十年代の前半、それから三十年代にかけてが露八の全盛期だったのではないだろうか。

 その頃、中気というから脳梗塞か何かで倒れ、暫く(快気祝いの口上に長らくとあるから少なくとも一年以上だろう)療養してよくなった明治三十五年十月に快気祝いの会を催して現役に復帰したが、往年の如くには身体が思うようにならず、僅か半年足らずで廃業を決意するに至ったと思われる。

 中気で死亡したというから、或いは再度脳発作に見舞われたのかもしれない。

 (追補)

 露八の快気祝いの番組の最後に出演の幇間の名が出ているが、会主の露八の名の横に「補助」として、富本半平、桜川孝作、二名の名がある。

 舘野善二著(昭和四十九年刊)の『思い出の邦楽人』の中に、「桜川忠七さんと富本半平さん」という章があり、富本半平について、

「明治三十七年深川に生まる。先代富本半平の養子、千代ッ平(ちょっぺい)と名乗って、十二歳で初座敷。富本半平としては二代目になる。得意芸は”仁王”。女形から変身して、上半身裸になっての阿吽の呼吸でキマる親ゆずりのその芸は、もう見られなくなったのである(昭和四十五年正月二十一日没)」

 とある。この記事から、露八の快気祝の番組に出ている富本半平は初代だとわかるが、この二代目の得意芸の”仁王”というのは露八の得意芸の仁王と同じ気がする。

 この稿(松迺家露八)(二)で露八の得意芸を列挙した後に、

「露八は、故人千代太夫から譲られた芸をするが、大兵肥満の同人にはぴったりはまったもので(以下畧)」

 としてしまったが、これに続いて露八の得意芸の仁王の説明が出ているのである。

「その筋はというと、お酌が成田から芝山の仁王に参詣する内に、仁王がお酌に乗り移って、しまいに仁王の身振りをするというので本調子の『淀の川瀬』の謡を使って、その切れ目で肌を脱いで、頭に手拭を載せ、肥った腹をぽんと叩いてウンウンと云い、阿吽の呼吸をするのだ。その仁王のまねがおかしい」

 とある。これは正に二代目半平の”仁王”と同じだろう。

 二代目半平が生まれた時には露八は既に死んでいるから、二代目半平はその芸を初代から受け継いだものと思われるが、それは明らかに露八の得意芸であって、廃業した露八が気心の知れた初代富本半平に譲って行ったものに違いない。

 更に遡れば、露八が荻江千代作の千代太夫から引き継いだものなのである。

 こうして考えてくると、もしかしたら、二代目富本半平が初名を千代ッ平といったのも荻江千代作から取ったのかもしれない。

 故老の話によると、大正の初め頃、吉原には少年太鼓持ちといって二代目半平を含めて三名の子供の幇間がいたそうである。

 半平、喜代作、喜久平とその名を聞いた気がするが、半平以外の名はうろ覚えであまり自信がない。

 露八と同じく幕臣から維新後、新聞記者に転身した戸川残花が明治四十四年正月の『日本及日本人』という雑誌に、吉原の露八の家を訪れた時のことを次のように書いている。

「その吉原の住まいに尋ねて行ったことがあるが、門口から家中が一目に見渡されるような、三間ばかりの狭い家だった。好く掃除してあって、塵一つ見えぬ。そこに露八は裸でいて、団扇づかいしながら話す。天真爛漫で実に気持ちがよかった。露八なども一世の侠骨、世をすね通した方であろう」

終わり

第114話 『松迺家露八(五)、続・番組』

 露八が、幇間㾱業の狸会というのを常磐木倶楽部で催し、それから名を阿吽堂仁翁と改めたが、その後数ヶ月して亡くなったということは前々章(松迺家露八(三))に書いた。

 明治三十五年十月の会は同じ常磐木倶楽部で催されたものだが、狸会とは違うもので、露八の口上によると、長い間病気で休業していたが、やっと健康を回復したという、その快気祝だったようだ。

 当日のプログラムの見開きの部分、プロの一番右側に狸の面の画が描いてあるが、その画家の署名、楓湖とは松本楓湖(1840~1923)のことで、楓湖は常陸国河内郡小野村の医師、松本宗庵の子で画の師は菊池容斎、明治三十一年創立の日本美術院の幹事、門下から速水御舟、今村紫紅、高橋広湖を輩出した著名な画家である。

 絵に描かれている狸の面を作ったと思われる武田友月については不明。

 さて、番組についてだが、最初の出し物、「松の栄」は明らかに御祝儀曲だが、同名の曲は生田流、山田流の箏曲以外には見当たらないので、どういう曲か、わからない。

 木遣り(キヤリ)の演者についても手掛かりがない。

 野呂松人形については後回しにして、先に奇術の帰天斎正一について述べる。

 帰天斎正一は天保十四年(1843)生まれで、本名は波済粂太郎(なみずみ くめたろう)と云い、初めは林屋正楽という落語家だったという。「西洋奇術の元祖」を名乗る東京の奇術師だった。

 有名な手品師、松旭斎天一は明治十三年一月に大阪で来阪中の帰天斎正一の舞台を見てショックを受け、それまで音羽寿斎(おとわ じゅさい)と名乗っていたのを松旭斎天一と改名したといわれる。松旭斎は本名の服部松旭から、天一は帰天斎正一の天と一からとったという。(以上、藤山新太郎著『手妻のはなし』より要約)

 明治十年から二十年頃にかけての東京の寄席の番組に、西洋奇術と銘打って帰天斎正一の名が散見する。

 さて、野呂松人形だが、斉藤月岑の『声曲類纂』に、

「寛文延宝の頃(1661~1680)、和泉太夫座に野呂松勘兵衛と云し人形遣ひあり、頭平めにして青黒き顔色の賎気なる人形を遣ひて、是をのろま人形と云。のろまは野呂松の畧語也」

 とある。

 また、大正二年刊の『趣味研究・大江戸』という本に、山田春塘という人が「野呂松人形」と題して次のように書いている。

「野呂松人形は高尚な宴会の余興として、其の流れを汲む連中が折節演じ、箔押しの衝立を手摺に青頭を操り、江戸趣味を復興させつつあるのだが、此野呂松人形は宛(さなが)ら能楽に於ける狂言の如く、初代野呂松勘兵衛は例の和泉太夫が、金平浄瑠璃の間狂言に滑稽洒落な所を見せ、何時も喝采を博したに違ひない。其門弟等は土佐節へも出る、江戸節へも出ると云ふ事になり、必ず浄瑠璃の間は野呂松人形である」

 この後に、大正年間、大震災以前の野呂松人形の実状が書かれていて、家元や人形遣いの名も出ている。

 その後、関東大震災で伝承してきた人形も焼け、後継者もなく、昭和の初頭には野呂松人形は絶えてしまったと思われるので、その輪郭だけでも書き残して置くことにした。

「人形は初めは一人遣いであったものが発展して三人遣いになったこともあったらしいが、幕末には一人遣いになっていた。野呂松人形というのは古雅なもので、文化文政の頃(1804~1829)には一般には歓迎されず、蔵前の札差とか、木場の材木屋といった大町人達の遊び道具になってしまい、野呂松人形のプロがいなくなって一時絶えてしまったのを大町人達が復活したので、いずれも素人ばかり、出遣いもお囃子も全部素人だった。今日(大正二年)では連中も追々物故して、お囃子は歌舞伎より聘することとなった」(前出『大江戸』より要約)

「江戸言葉に愚しい者を指して、のろまと称するのであるが、のろまと云へば侮辱の言語に過ぎぬ。(中畧)此勘兵衛の主として使った人形は、頭ひらきて色青黒く賎しかったので、当時風采の挙らぬ可笑気な態を見ると、野呂松と言ひ囃したのが何時か訛り、のろまと称するやうになったのだ。最初は座興の洒落に云ったのも、果には侮辱を意味するやうになり、今日まで遺伝されて居るので可笑(おかしい)が、肝腎の本家たる野呂松人形の方は、社会より忘却されている」(同『大江戸』)

 人形の使い方については、同書に、

「木偶(でく)廻しは人形の裾から左手を差入れ、右で右手や裾捌きをして一人で遣ふのだから、操り人形とは趣きを異にするのだ。野呂松の秘事とするのは左手で、先づ三ツ指で人形の頭を抓み、残った無名指に小指を掛て左手を操り、人形全体の調子を執ねばならぬ。木偶廻しの左手が利やうになれば、自然に人形が活動して来るのださうな」

 とあり又、出し物については、全盛時代には番組も二百番以上あったそうだが、封建時代に諸侯方へ招聘された当時、摺物として置いたのが即ち六十二番だった。しかし、今日では道具が揃わないから、脚本はあるとした所で其を演じる事は出来ない、という。

 六十二番の中で五十番位は演じられるが、多くは余興だから趣味のある祝い物、新市の祝いとか、又は滑稽な代々法師、浮れ恵比寿、鬼の宝と云ったようものが、よく出る出し物だったようで、明治三十五年十月の露八の会のプロにも、「鬼の宝」が出ている。

 また、同書には、当代の家元として辻気楽翁の名が出ている。当代というのは同書の刊行年、大正二年と思われる。

 野呂松人形に関する記事を調べていたら、『能から歌舞伎へ』(松本亀松著、昭和十八年刊)に、明治三十五年八月発行の『都の花』という雑誌掲載の野呂松人形についての記事の要約が出ていて、その中に次のようにあった。

「この人形(野呂松人形)も実は明治維新の際、㾱滅に瀕したのでしたが、幸にも再興され明治三十五年頃までは、例月五の日に浅草本願寺中の某院で、稽古会が催され、希望者に観せてゐたのでした。当時家元は幕府の金方御用を勤めてゐた井上久次郎といふ老人でした。明治三十五年には浅草区馬道八丁目に住ひ、七十一歳で、斯の道の名を野呂松鶴翁といひました。他に野呂松気楽(七十歳)、野呂松三甫(七十歳)、野呂松松甫(五十歳)、大浦某(五十三歳)、天沼某(五十歳)、野呂松亀遊(三十歳)他二三人が居りました」

 同じ明治三十五年の記事であることから、露八の会の野呂松人形出演者と照会してみると、「鬼の宝」の蟲翁のみ不明で、気楽翁は気楽(七十歳)、三翁は三甫(七十歳)、松翁は松甫(五十歳)、亀遊は亀遊(三十歳)とわかるが、当時の家元だったという鶴翁の名はない。もしかして、鶴翁が改名して蟲翁となったのかとも思ったが、家元が弟子より前に出るとは考えにくい。だとすると、翁とは五十歳以上の者をいうようだから、大浦某(五十三歳)か、天沼某(五十歳)のどちらかが、八月から十月までの間に野呂間蟲甫となったとも考えられる。

 鶴翁は、その間に亡くなったものか或いは、病気の為に出演出来なかったのかもしれない。

第113話 『松迺家露八(四)、墓・碑、会の番組』

 私蔵の古本の中に、この稿を書くのに何か参考になるようなものはないかと探していたら、鴬亭金升の書いたものに、

「明治の吉原には好い幇間が居た。善孝、孝作、露八も好かったが、民中は近眼と生酔ひが愛嬌になって贔屓の客が多かった」

 とあった。
 鴬亭金升(1868~1954)は戯作者、新聞記者で、本名は長井総太郎。旗本の家に生まれ、梅亭金鵞の門下となる。左団次、小山内薫も彼に師事したという。(以上、『演劇百科大事典』より要約)

 金升の文中に出ている幇間名の内、善孝、民中、露八については既に触れたが、孝作は初出なので、ちょっと調べてみた。

 私が目を通した『吉原細見』の内、明治五年のものに、露八同様初めてその名が出てくる。明治十四、五年にはこれも露八と同じく名が載っていないが、二十年、三十二年、三十五年の細見にはその名が出ている。

 露八は旧徳川家が移封になった静岡に行って十二、三年其処にいたので、その間吉原にいなかったらしいが孝作については不明。

 この十二月の初めに私は南千住の円通寺に行った。

 円通寺には以前、星沢豊子さんが主催しておられる墓碑史蹟研究会の方々と一緒に訪れたことがある。

 その時、折れてしまっている露八の碑を見つけたのだが、よく確かめもせず帰ってきてしまったので、もう一度調査のために再訪したのだった。

 露八は明治三十六年十一月二十三日に亡くなって円通寺に葬られたことになっている。
 私は露八の墓は円通寺の一般墓地にあるものと決めてかかっていたのだが、よく考えると、彰義隊士の墓がある場所には、彰義隊士達の遺骸を引き取った仏磨和尚や三河屋幸三郎他彰義隊の関係者の墓や碑なども集められているので、露八の墓も同じ墓域にあったのではないかと思い直した。

 あるとすれば、勿論、折れた碑の傍だろうと見当をつけて行った。

 榎本武揚書の露八の碑は、「土肥庄次郎之碑」の「庄」と「次」の間で、二つに折れてしまっているので、立っている碑は「次郎之碑」になっている。その碑の下の部分の表裏にも、折れて落ちている碑の先端部分にも誌文は何も刻られておらず、ただ、榎本武揚書とあるだけである。

 榎本武揚は明治四十一年に七十三歳で亡くなっている。露八に後れること五年である。

 武揚は贔屓にしていた露八のために筆をとったのだろう。

 折れた碑の右脇に小さな、先の尖った五輪の塔のような墓があり、台座の石に「土肥氏墓」という字が見られるところから、それが露八の墓と思われた。墓は蓮の蕾を模したようにも見えるが、あまり見かけない形をしている。

「土肥氏墓」と書いてある右側に、多分「庄次郎」と刻んであるのだろうが、「庄」の字が摩耗していて「次郎」という字しか確認出来ない。反対の左側にも字らしいものが見えるが、よくわからない。

 露八の戒名は、「正心院頼富松寿居士」というのだが、墓には戒名は見当たらなかった。

 さて、肝心の露八の会のプログラムに話を戻そう。

 寒玉師から頂戴したコピーについて、ざっと説明しておく。

 一番右側に大きな狸の面の画が描いてあり、その背景にその面が入っていた箱が蓋が開いたままになって出ている。開いた箱の蓋の裏に、{古澤主慶需 武田友月×(花押か?) 謹造之」と書いてある。狸の面の画の右に「楓湖」と署名、印が押してある。

 次いで、露八の口上が出ている。活字ではないので、筆者の筆で書かれた文字の読解力不足や、コピーが薄くて判読しにくいところもあるのだが、読める部分を中心に出来るだけ忠実に復元をしてみると、以下のようになる。

「永らく病の床に打臥しをりしも厚き御愛顧のお蔭をもて全快致し候に付、酒は一切たて林茂林寺に浮かさるる身となりしも、あゆみの心にまかせ云々」

 と云った調子で、

「お礼の会を日本橋常盤木倶楽部で催し、左記の坐興を致しますので、お伝合御駕来を伏してこい願い上げ奉ります」

 とあり、次の九番の番組が出ている。

 一、松の栄              松迺家連中
 一、キヤリ 千秋万歳        中山長吉
                      大野鎌吉
 一、同   富士見西行       平山銭五郎
 一、同   恵比寿          大隅平次郎
 一、野呂松人形
     鬼の宝   蟲翁     亀遊
                    松翁
 一、同 庭見物   気楽翁  三翁
                    松翁
                    亀遊
 一、奇術 狸の赤玉          帰天斎正一
 一、同  露の飛玉          帰天斎正一

 書画先生席上揮毫
 茂林寺見立抹茶
         以上

  三十五年十月  会主  松廼屋露八

        補助 富本半平
            桜川孝作

       哥澤芝喜太夫  都民中
 狸囃子  桜川〆孝     桜川孝八
       桜川遊孝     桜川正孝
       桜川延孝     桜川長寿

                  松迺家喜作
                  松迺家魚八
                  松迺家平喜

    素七書 印

 最後に、素七とあるのは、この番組を筆で書いた人物と思われる。

 このプロについて、わかることから書いて行くが、露八の狸に対する執着というか、関心の深さは尋常ではなく、狸に関するものの蒐集は有名だった。

 プロに目を通してみると、最初の狸の面の画と云い、口上に茂林寺を読み込んだり、番組の中にも、「狸の赤玉」とか、狸囃子があって、露八好みの狸が其処此処に顔を出している。

 茂林寺見立の抹茶というのが、どういうものか、ちょっと知りたい気になる。

 露八の会の番組の詳細については次回に―――

第112話 『松迺家露八(三)、逸話、人柄』

 露八が武士で、まだ土肥庄次郎といっていた元治元年(1864)の長州征伐の折には、槍を持って奮戦したといわれている。

 彰義隊員だった頃の話が、『幕末明治 女百話』という本に出ている。

 女遊びを覚えた庄次郎が熱を上げたのは、吉原江戸町二丁目の大まがき(大店)鶴泉楼の愛里という花魁だった。

 何しろ肥った漢で、頭の髪を大たぶさに結った、あんまり容貌のよい方ではなかったので、蔭口が「三宝荒神」またの名が「ひきがえる」といわれていたという。

 その渾名の名付け親が戯作者の仮名垣魯文で、その頃、魯文も同じ鶴泉楼の愛衣という花魁と熱くなっていた。

 愛里と愛衣は朋輩同志で親しかったようだ。

 その愛里から、魯文は庄次郎宛の「逢いにきて欲しい」という手紙を書いてくれと頼まれて安請け合いし、甘い言葉を並べて書いてやったのまではよかったのだが、ご丁寧にひきがえるの絵まで描き添えたので、庄次郎は一見して、すぐに魯文の悪ふざけと見破った。

 彰義隊の隊士で血気盛んだった庄次郎はカンカンになって怒って、魯文を一刀の下に切り捨ててくれようと、もの凄い見幕で鶴泉楼へ乗り込んで行った。

 ちょうど三月四日の雛祭の最中だったというから、慶応四年(九月八日に明治と改元)の三月四日のことだろう。

 その時、魯文は鶴泉楼で愛衣相手に白酒を飲んでいたが、庄次郎が血相を変えて乗り込んできたと聞いて、慌てて逃げ出した。

 家に帰っても、鶴泉楼にいなければ、家まで捜しにくることは分かっているので、家には帰らず、上野池の端にあった「麦斗ろ」(むぎとろ)という料理屋へ行き、桃川燕林という講釈師と飲んでいると、追い追い、馴染みの一中節の十寸見東和(ますみとうわ)、幕府御用達の神田佐久間町米問屋伏見屋の番頭、桜川正孝(吉原の幇間)、数寄屋町の芸者などが集ってきて、飲めや唄えの大騒ぎになった。

 そこへ、どう嗅ぎつけてきたものか、庄次郎が白刃をひっこ抜いて飛び込んできたので、魯文はまっ青になって逃げ出す。

 十寸見東和は二階から辷り落ちて気絶。

 桃川燕林は腰が抜けて立てない。平生、修羅場を読むに似合わない不態(ぶざま)な始末。

 おみき(数寄屋町の芸者)は戸棚に滑り込む。

 桜川正孝は雪隠(トイレ)に閉じ籠って、一生懸命桟を押えて、くわばらと唱えたという大騒ぎになってしまい、

「これは大変、宅で怪我があっては」

 と麦斗ろの主人が庄次郎をひたすら宥め、

「これは何かのお間違い。決して悪くはお取り計らい致しませぬ。この場は私にお任せくださいまし」

 と粋な捌きを買って出たので、庄次郎も静まり、

「騒がしてすまん。任せる」

「それは有り難う存じます。ソレ医者を呼べ」

 と石田道鶴という近所の竹庵老を迎え、東和、燕林を介抱し、これも隠れていた仮名垣魯文を説得して、手打ち仲直りの式を挙げることにした(以上、要約)

 この文中、一中節の十寸見東和とあるのは一中節ではなく、十寸見というのは河東節の太夫の姓であるから、河東節の間違いと思われる。

 河東節の十寸見東和とすると、有名な鰻屋大和田の主人である味沢貞次郎氏かもしれない。或いは調べてみないとわからないが、その一代前の東和かもしれない。

 また、「竹庵老」とあるのは、「薮井竹庵老」の略で、薮井竹庵は医者の戯称である。

 露八が大兵肥満だったことは、これまでのことから分かった。

 「たいこ持ち」のことを花柳界の隠語で、「たぬき」という。

 それと関係があるのか、どうか、知らないが、露八は器具、書画など、狸に関するものを蒐集していたようだ。

 老年に及んで病気がちになった露八は、廃業の狸会というのを常盤木倶楽部で催し、それから名を阿吽堂仁翁(あうんどう におう)と改めて、病を養うこと数月にして没した。

 露八の遺骸は南千住元通新町円通寺に葬られた。維新の際に戦没した幕臣達や彰義隊の戦士達の葬られている寺である。(『文芸倶楽部』増刊『明治奇人伝』)

 露八は明治三十六年十一月二十三日、吉原京町一丁目の自宅で、中風で没したという。

 吉原のたいこ持ち、松迺家露八は、旧幕の連中は勿論、明治新政府の高官といえば、その多くは旧敵だった薩摩、長州、土佐出身者だったが、露八が彰義隊の生き残りというのを面白がって贔屓にしたので、名物男になった。
 榎本武揚は特に露八に目をかけて贔屓にしていたという。

 ある時、露八に向かって、

「貴称は江戸の児の面汚しだ。いつまでも道楽者の太鼓を叩いているよりは、土手のあたりに庵室でも結んで、引っ込んだらどうか。そして土手の道哲を気取るのだ。鉦叩く料金は、生涯おれが出してやろう」

 といわれた。露八は笑って、

「以前の土肥庄次郎なら、カンカン坊主にもなれましょうが、松迺家露八が衣を着て、鉦を叩いて見たところで、浮かばれる亡者はありますまい」

 といった。

 これには子爵(榎本武揚)も笑われて、それなりになってしまった。(前出の『明治奇人伝』)

 土手というのは吉原の土手、日本堤のことで、道哲については『吉原大全』の巻一に、「土堤の道哲の事」とあって、

「道哲庵は金龍山の下、日本堤へとりつく所左の方にあり、開山念誉上人(ねんよしょうにん)、引願山専稱院西方寺といふ。
 此寺に道哲といふ道心の僧住けり。此人俗なりし時、高尾と深き中なりしが、高尾故ありて身まかりければ、此寺に庵を結び道哲庵と名づけ、常念仏発端の願主となれり。
 墳(つか)の傍に紅葉をうへて、しるしとす。
 是みうらや二代目の高尾が墓なり。石塔に地蔵をほり、法名、伝誉妙心信女、万治三年(1660)とあり」

 と出ている。

 二代目の高尾太夫は仙台高尾といわれ、仙台侯伊達綱宗に、「忘れねばこそ思ひ出さず候」という有名なラブ・レターを書いた遊女であり、「君は今 駒形あたり ほととぎす」という句を詠んだといわれている。

 それとは別に、隅田川に浮かべた船の中で仙台侯から求愛され、拒否した為に中洲の三股という所で刀で切り殺されたともいう。

 しかし、これらはいずれも後世の作り話で、仙台侯の敵娼(あいかた)は三浦屋の高尾ではなく、京町高島屋の薫(かおる)だったというのが本当らしい。

 南千住の円通寺には正面本堂に向かって左手前に、上野寛永寺から移築された黒門があり、その一郭に彰義隊士の墓がある。

 また、同じ墓域に榎本武揚撰になる土肥庄次郎の碑もあるのだが、今は上下二つに折れてしまっていて、見る影もない。

──この稿続く──

第111話 『松迺家露八(二)、荻江露八』

 松迺家露八は『芸能人物辞典 明治・大正・昭和』によれば、天保四年(1833)に一橋家の臣、土肥半蔵の長男として生まれ、本名を土肥庄次郎、前名を荻江露八といった、とある。

 次いで、

「槍術・剣術を修業、一橋家中で評判を得たが、遊びを覚え吉原に入りびたり、勘当される。幕末の動乱のなかで荻江節の師匠となり幇間として各地を放浪。明治元年の上野彰義隊の戦いには参加したが箱館戦争には加われず、結局吉原に戻り幇間となる。その際荻江節を松迺家節と呼びかえ、松迺家節の家元として鑑札を受ける。
 芸が巧みで、元彰義隊ということからもてはやされ、薩長の高官の前でたいこ持ちを続けた名物芸人。
 吉川英治に『松のや露八』というモデル小説もある」

 この中で、土肥庄次郎の前名を荻江露八といったとあるのは間違いで、荻江露八というのは吉原で幇間になった時の芸名で、本名でも俗名でもない。他に荻江露八の名を挙げた人名辞典が見当たらなかったので、『芸能人物辞典』から引用させて貰った。

 この外にも疑問の点がいくつかある。

 まず、「幕末の動乱のなかで荻江節の師匠となり幇間として各地を放浪」とあるが、江戸時代に荻江節なるものは無い。

 初代荻江露友は明和五年(1768)八月以後芝居から退き専ら吉原でお座敷本位の長唄を客に聞かせていたのだが、その頃から廓内で荻江姓を名乗る男芸人が急増する。彼等の演奏する長唄は芝居の伴奏音楽である長唄そのものではなく、聞かせ所を集めたダイジェスト版であったり、節も細かく技巧的な長唄だったようだ。

 芝居と違って演奏だけで聞かせるには、それなりに工夫が必要な訳である。

 こうした長唄を三升屋二三治によれば、荻江風とはいったようだが、荻江節とはいわなかった。

 幕末の天保の末頃(1840年代)に、吉原の大妓楼の主人、玉屋山三郎が吉原の音曲を創る運動を始め、従来の吉原流(荻江風)長唄に加えて、地唄をとり入れたり、新曲を作ったりしたが、自らを荻江嗣流とは稱したものの荻江節の家元とは名乗らなかった。

 玉屋の主人は代々山三郎といったが、この山三郎は花柳園と号して文才もあり、吉原俄の荻江風長唄の作詞もしているし又、西川流を破門になった西川芳次郎の面倒をみて、俄の舞踊の振り付けをやらせたり、自分の花柳という名を彼に与えたのもこの花柳園山三郎で、西川芳次郎は改名して花柳寿輔となった。

 初代の花柳寿輔である。

 花柳園山三郎は万延元年(1860)六月に亡くなった。享年は不明。

 話が脇道に逸れたが、吉原の男芸者・幇間が荻江姓を名乗ったとしても、それは長唄を持ち芸としている芸名であって、荻江節の師匠になった訳ではないのである。

 さて吉川英治の『松のや露八』という小説だが、土肥庄次郎の露八は荻江節を習って、その荻江節で京都の町を流して歩いたりしている。

 この小説には、荻江節をやっている三人の姉妹が出てくる。

 お鳶、お里、喜代の三人で、特に真ん中のお里は荻江節の師匠をしている。

 三姉妹は板新道に住んでいる。板新道とは現銀座並木通りの一本西側、有楽町寄りの通りである。

 まだ、新橋の花柳界などが出来る前の時代で、何となく明治の雰囲気が漂う。

 三姉妹の父は二代目荻江露友といって、

「江戸唄の豊後節からわかれたこの流派では、名人だったが、安政の大地震で亡くなるし(以下畧)」

 とあるが、二代目荻江露友は有田栄橘という人物で、寛政八年(1796)に五十三歳で亡くなっているので時代が合わないし、「江戸唄の豊後節」というのも豊後節は一中節から分かれた上方系の浄瑠璃で江戸唄ではないので全く意味不明。大体、荻江節は長唄から出たもので、唄であって浄瑠璃ではない。

 他にも、三姉妹の長女のお鳶が、初代荻江露友作曲といわれる「ねこの妻」というメリヤスを弾き語りで唄うところが出てくるが、その文句は、

「三とせ馴染みし ねこの妻 もし恋死なば かわいやの 棹はちぎりの たがやさん」

 となっている。

 この歌は荻江節正本と伝えられているものに載っているのだが、kの「ねこの妻」に相当する冒頭の部分の歌詞は、

「三とせ馴染みし ねこの妻 もし恋死なば、さみせんの かわいのものよ いろにひかるる なかつぎの 棹はちぎりの たがやさん(以下畧)」

 である。

 こうしてみると、吉川英治の小説はやはり創作であって、多少は事実に基づいているようだが、考証的にはあまり当てに出来そうにない。

 露八はいつ吉原の幇間になったのか、調べるために目を通すことが出来た『吉原細見』の内、明治五年の細見に、荻江露八の名があった。一年前の明治四年のものは見ることが出来なかったが、明治三年の細見には露八の名はないので、それは明治四、五年頃といっていいだろう。上野の戦争から、まだ、三、四年しか経っていない。

 明治の細見で調べることが出来たのは、五年以後、十四、十五、三十二、三十五年だけで、十四、十五の両年に露八の名がないのは、どういう訳か不明。三十二年にないのは病気で休業中とわかっている。三十五年の細見には松迺家露八と出ている。

 荻江露八から松迺家露八に改名した時期については、明治八年刊の『諸芸人名録』を調べることは出来なかったが、明治九年の東京の芸人登録の中に「松迺家」で十五名とあるので、その頃のことと思われる。なお、明治十五年の調べでは「松迺家」の登録者は五名になっている。

 因みに、明治十四、五年の吉原細見には、松迺家姓の幇間は一人も見当たらない。

 露八の幇間としての持ち芸について、『明治人物逸話辞典』に、

「露八は武士から早替りしたのにも拘わらず、多芸であった。その内でも得意としたのは、布袋の川越し・はらみ娘・狸の腹鼓・仁王・泣虫の子供・仁王の蝦蟇・屋根船の堤燈などだった」(『文芸倶楽部』増刊)

「露八は、故人千代太夫から譲られた芸をするが、大兵肥満の同人には、ぴったりはまったもので──(以下畧)」(『文芸倶楽部』)

 露八が大兵肥満だったことは知れたが、芸を譲られたという千代太夫という幇間の名は幕末の吉原細見には見当たらない。

 千代がつくのは荻江千代作一人で、千代太夫というのがこの千代作だとすると、弘化二年(1845)から吉原細見にずっとその名が見える。最後は明治三年で、前述のように 明治四年の吉原細見は未見だが、明治五年以後の細見には荻江千代作の名は出てこない。

 その明治五年の細見に荻江露八の名が千代作と入れ替わるように出てくる。

 露八の荻江という姓も、もしかしたら荻江千代作から受け継いだのかもしれない。

──この稿続く──

第110話 『松迺家露八(一)、明治のプログラム』

 先日、杵屋寒玉師から明治時代のプログラムのコピーを二枚頂戴した。

 いずれも、たいこ持ち主催の会で、年代順に古い方から取りあげていうと、桜川善六が会主の方は明治三十二年五月八日、井生村楼での会で、番数が七番、それぞれ三番叟、あやつり獅子、吉原雀、花の街、ゆかりの江戸桜、鶴亀、御祝儀となっていて、出演者は順に、すさき幇間連中、はやし連中、深川芸者連、吉原幇間連中、吉原芸者連中、松永和楓、各地の幇間連中となっている。

 井生村楼というのは向両国にあった有名な貸席で、番組中、ゆかりの江戸桜とあるのは河東節と思われるが、吉原の中の町芸妓連がつとめている。

 花の街というのは、多分、「はなのさと」と読んで、吉原のことを指しているものと思われるが、長唄なのか、何なのか、わからない。出演者の真ん中に、桜川太夫善孝と一人だけ太夫とついているのは桜川の家元である桜川善孝で、他の十一名の吉原幇間出演者はすべて桜川姓である。

 この善孝は維新後、三代目の都民中と吉原の人気を二分していたという三代目善孝だろうか。それとも四代目か。

 鶴亀は松永和楓の独吟で、三味線は杵屋正三郎の一挺一枚。この和楓は元清元叶太夫といったが、五代目松永忠五郎の女婿となり、後に七代目忠五郎から明治十三年に三代目和楓となった人である。

 最後の御祝儀というのは、どういうことをしたのか、よくわからないが、神奈川、横浜、水戸のたいこ持ちなど、九名が出ている。  番組の後に、会主の桜川善六の名があり、続いて、補助とあって、富本半平、松乃家露八、松乃家平喜、哥沢芝喜太夫、都民中、清元喜代寿、松乃家喜作、松乃家米二の八名の名が出ている。

 プログラムのコピーはカラーで、番組の前のスペースに、竹真という画家の竹に赤い紐で吊されている、扇子を持った幇間と思われる人形と、鉢巻をして鈴と扇を持って多分、三番叟を踊っている蛸の画が描いてあり、番組の上部に腹鼓を打っている狸の腹の部分の画が出ている。竹真という画家については不詳。

 番組の表の部分、つまり、表紙にあたる部分のコピーがないので、これがどういう趣旨の会なのか、わからないが、番組の内容からみて、お祝いの会と思われる。

 昭和三十四年に出た桜川忠七という吉原の有名な幇間が書いた『たいこ持ち』という本がある。

 忠七は明治二十二年生まれで、十九歳の時に幇間になったというから、明治四十年のことになる。

 その忠七の『たいこ持ち』に、桜川善六の名が出てくる。

「ちょうど、大角力の初場所。そのいく日目かに、お客のおともをして国技館へいった君龍(柳橋の芸者で、忠七の最初の女房)が、ひょっこり善六に出会ったのでございます。

 この善六と申しますのは、やはり吉原のたいこ持ちで、わたしの仲間でございます。その頃、桜川の孝六、善六、忠七といえば、ほうかん仲間での三人組といわれまして、ま、どっちかというと、あまり程度のいい方ではございませんでしたな。

 この善六が、家内(君龍)に飯を食おうと、まあ、誘うんです。飯を食うってことは、いまでもおんなじでしょうと思いますが、口説きの初手なんですね」

 とあるように、善六は忠七の最初の女房になった君龍を口説いた吉原の幇間なのである。

 忠七が幇間になったのは明治四十年であるから、この善六の話はそれ以後のことになる。

 寒玉師から頂いたプロのコピーには、善六以外の三人組、孝六、忠七の名は出ていない。

 これらのことを考え合わせると、この井生村楼の会は、会主である桜川善六の名弘めの会ではなかったか、と思える。

 三人組の中で、善六が一番の先輩だったのかもしれない。

 幇間の名弘めについて『たいこ持ち』の中に次のようにある。

「そこで、いよいよ本番、一人前になった名びろめ式をいたします。

 わたくしの名びろめ式は、わたくしの二十八のとき、常盤木倶楽部と日本橋倶楽部でいたしました。(大正五年と思われる)

 この名びろめ式には、染手拭に、会の出演番組を書いたプログラムなんかを、友だちや同業、お得意さんから芸者衆、料理屋さんにまで配ります。

 いかに、わたくしどものお附合いが広いかがお分りになると存じます。お得意さんにしたって、政界、実業界、文化人とまったく数多いのでございます。

 また、この名びろめ式は、ひと口に申しますと、たいこ持ちのおさらい会のようなものでして、役者衆から、寄席の芸人、花柳界のお姐さんたち、といった芸人衆が、大挙出演してくださいます。

 もちろん、無料で、おまけに手弁当というありがたいものでございます。が、まあ、何と申しましても、ひっきょう旦那方のおたすけが、いちばん大きゅうございましたな」

 つまり、出演者はすべて無料奉仕という仕来たりだったようだ。

 しかし、この稿を書くために目を通した、明治十四年、十五年の『吉原細見』の男芸者、幇間の中に桜川善六の名があった。

 この善六とプログラムの会主の善六を同一人とすると、明治三十二年の会は善六の名弘めの会ではあり得ない。

 或いは、前者の善六は一代前の善六で、プロの会主の善六はその名を継いだ新善六なのかもしれない。

 また、桜川の家元の善孝も維新後三十二年経っているので、四代目になっている可能性が高い(四代目は関東大震災後、洋服屋になったという)。

 そうすると、同じプロの載っている都民中も四代目かもしれない。

 同じ吉原幇間連中の中に、〆孝とあるのが、『たいこ持ち』の著者、桜川忠七の師匠で、前名の〆孝から後に改名して三孝となった。

 ドドイツの名人だったというが、善六のプロには、まだ〆孝の名で出ている。

 プロの会主の後に、補助として挙がっている八名は、どういう順序で並べられているのか、よく分からないが、何か基準があるのかもしれない。

 その中で、哥沢芝喜太夫と松乃家露八は、二人とも元幕臣で、維新後、幇間になった変わり種である。

 寒玉師から頂いた、もう一枚のプログラムのコピーは、明治三十五年十月二十九日に 松迺家露八(松乃家が 松迺家になっている)が会主として、日本橋常盤木倶楽部で催した会の番組で、それについては次回に触れることにする。