第76話 『古曲鑑賞会(八) 続、渡辺やな師』

 河東節をやる人達の数は十九世紀以降、減少し続けて、しかも、川柳などで見ると、その多くは老人になっていたようである。

『藤岡屋日記』の弘化三年(1846)のところに出ている『贅沢高名花競』という見立番付に「蔵前河東連」とあるのは札差連中を指していて、どうやら幕末の助六の芝居は彼等が中心となって十寸見連を形成していたものと思われる。勿論、素人ばかりの集団ではどうにもならず、そこは金にまかせて取り巻きの芸人達を動員していたらしい。

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 明治二十九年(1896)五月、歌舞伎座の九代目團十郎の助六の時、九代目團十郎は四回、「助六由縁江戸桜」を演じているが、最初は幕末の文久二年(1862)、明治になってからは、明治五年と明治十七年、そして、この四度目の助六が團十郎最後の助六となったのだが、この時、平岡大尽といわれた平岡吟舟は、やはり取り巻きの清元の弥生太夫と魚見太夫、長唄の伊十郎、孝次郎、喜代八などに河東節を急稽古させて、河東節連中として一緒に出演させている。

 明治の終わり頃には、前出の山彦秀翁の花柳界の弟子達が成長して、その後各自、自分の土地の芸妓達を指導して、やがて十寸見連を作って出演するようになるのである。大正から昭和の戦前にかけて、赤坂、新橋、下谷の芸妓連による河東節連中が歌舞伎の助六の芝居を支えた。

 このことは、この稿の(二)、「古曲への案内」の中の「古曲は現在どうなってゐるか」に出ているのだが、その紹介のところで、「一般的にあまり知られていないことも書いてある」とちょっと断わっておいたのはこのことである。

 花柳界の連中が出演するようになったのは十五代目羽左衛門が助六を演ずるようになってからだというが、最初からグループを作って出た訳ではなく、他の出演者に混じって出たということである。美男で有名な十五代目羽左衛門の初助六は明治三十九年(1906)五月の歌舞伎座だが、この時に芸妓連中が出演したか、どうかは知らない。昭和十年代の話だと思うが、渡辺やな師によると、羽左衛門は各花柳界の河東節連の中で、下谷が一番いい、といっていたそうである。

「妾が若い妓を大勢集めて出たからよ」とやな師はいっていたが、山彦さわ子(高橋さわ子)師の話では、「その頃、橘屋の彼女が下谷にいたからですよ」だそうだ。松菊という妓だったという。

 やな師が前田さん(露友師)から誘いを受けて悩んでいた頃だったと思うが、人気役者の市川海老蔵は團十郎を襲名できない、という噂が世間に流れて、週刊誌にも取り上げられて話題になった。

 その理由は菊村さんと前田さんの確執だった。このお二人は前田さんの五世露友襲名以来、相反する立場にあった。菊村さんは名実共、芸界のトップにあって大臣や財界のお偉方も一目置く実力者で、菊村さんが首を横に振ったら芸界では何も出来ない。

 一方、露友師の前田家と成田屋一家は海老蔵の養父の三升以来、親密な間柄にあり、一方を立てれば一方が立たないという、確かに難しい状況にあった。

 海老蔵の團十郎襲名の機運が高まる中、我々末端の者にはわからない所で着々と話が進められていたようで、とにかく、襲名ということでお二人の了承を取りつけ、昭和三十七年に海老蔵の團十郎襲名が実現する。

 一方、やな師は散々悩んだ末、露友師の方へ行く決心をする。山彦八重子の名がどうしても継ぎたかったようである。

 平成の今、私の手許に二本の扇子がある。一本は山口蓬春画の桜、もう一本は橋本明治画の桔梗の画で、扇面の裏側には、いずれも「二世 山彦八重子」の文字が見られる。これらは山彦八重子襲名の為に、やな師が用意されたものだったが、遂に使われることがなかった。

 というのは、結局、やな師は露友師の許へは行かず、山彦八重子を襲名することもなく終わったのだった。

 扇子、手拭など引出物まで手当ずみであったにも拘らず、どういう事情でそうなったのか、について直接やな師から聞いた訳ではないが、十寸見会がそれこそ必死になってやな師を説得して前田さんの側へ行くのを阻止したものと思われる。

 やな師が前田さんの傘下に入るということは確言すれば、敵方につくことで古曲会を抜けることになる。まして、山彦八重子の襲名となれば河東節の名であり、今まで荻江節だけの問題であったものが、今度は河東節まで波及して十寸見会まで同様なことになりかねない。古曲会、十寸見会が危機感を募らせたのもうなずける。

 そればかりでなく、やな師が脱会するということは下谷の河東連がなくなることになりかねない。そうなると、團十郎襲名を控えた十寸見会には大きな打撃である。

 また、昭和三十四、五年頃には、山彦秀翁の教えを受けた河東節の師匠連の多くは亡くなり、次世代の人達の時代になっていた。

 十寸見会の主流は菊村さんをトップにして三代目山彦紫存(加藤いね)師、六代目山彦河良(飯箸文子)師などを擁する新橋だったが、大きく分けると、山彦秀子(片山ふさ)師の系統の新橋、赤坂。山彦八重子(佐橋章)師の系統の下谷。それに山彦栄子師の系統の新富派、新富派は栄子師が柳橋の船宿、藤岡の娘だったことから藤岡派ともいったが、これら三つの系統があった。

 山彦秀翁から、その直弟子、孫弟子と世代交替があった中で、秀翁が江戸時代から伝承してきた曲も次第に失われたものも多く、三系統の各グループに残っている曲も夫々、まちまちになっていた。十寸見会では、会として現存の曲をなんとか残そうと、自分の所にない曲は他の系統の所から取り入れることが出来るよう、三派の交流を図った。

 私の記憶では、「鑓をどり」は藤岡派に残っていた曲で、「弓始」、「江戸鴬」などはやな師が御存知の曲だった。他にもいろいろ、やな師から聞いたのだが、残念ながら失念してしまった。

 その頃、藤岡派の代表だった千葉不二子師が「傀儡師」を習いに、やな師の稽古場に暫く通ってみえていたのを覚えている。こうした状況下で、やな師が前田さんの方へ行くと云い出したので、十寸見会では慌てて引き止めにかかったのだった。

 何しろ、既に引出物などまで用意していたやな師の決心を変えさせるのは大変だったと思うが、とにかく、やな師は山彦八重子襲名を諦め、十寸見会に残った。上の方でどういう話し合いがあったのか、末端の我々には分からなかったが、今となっては真相は全く闇の中である。

 昭和三十七年に海老蔵が團十郎を襲名。東京の歌舞伎座を皮切りに、京都、大阪、名古屋と翌年まで襲名披露興行が続いたが、それが一段落した昭和三十八年の秋、美術倶楽部で、「山彦やな子の会」が開催され、新橋をはじめ、十寸見会挙げての大会となった。

 その会が、どうやらやな師が山彦八重子襲名を諦めたことに対する十寸見会の見返りだったようだ。それまで、「助六」以外、荻江節しか習っていなかった私に、やな師は、

「今度は河東節の会なので、河東節をやってほしい」

 といった。曲目はやな師が選んでくれた。私は「きぬた」をやることになって稽古に入った。

「山彦やな子の会」を開くにあたって、新橋の方々に全面的にお世話になる御挨拶として、三代目山彦紫存師と山彦河良師のお二人をお招きすることになった。場所は上野の「山下」だった。「山下」は今はもう無くなってしまったが、やな師がいつも温習会で使っていた所で、弟子の我々にはお馴染みの料理屋だった。

 やな師は、その席に私も出てくれ、といった。話を聞くと、招待する側のやな師の方は、やな師と私の二人だけだという。私のような若造が弟子の代表として出て行ってもよいものか、どう考えても任が重く、大いに悩んだが、幸い東北タンク社長の横内忠兌氏(十寸見東雪)が一緒に出て下さることになってホッとした。

 紫存師は、荻江は私と同じ竹村さんの弟子で、稽古場で何度かお目にかかっていたが、河良師は、私の方では勿論存知上げていたが、お話したのはその時が初めてだった。私以外の四人の方々は皆、今は故人になってしまわれた。四十余年前の話である。  やな師や横内氏については、個人的には書き切れない程の思い出があるのだが、切りがない上に主題から外れてしまうのでこれまでとして、一応、この稿はこの辺でまとめさせて貰うことにする。

 美術倶楽部の「山彦やな子の会」は大盛況裏に無事終わった。私は「きぬた」をやな師の三味線で唄った。翌昭和三十九年は東京オリンピックの年で、それに合わせて十月の歌舞伎座では「助六由縁江戸桜」が出た。それが海老さまといわれた十一代目團十郎の最後の助六となった。その助六に私はやな師と一緒に出演した。

 平成十八年の現在、一時盛んに活動していた露友師の真守会も、露友師没後はすっかり影をひそめてしまい、今は唯一人、竹村さんの御養子の二代目寿友師だけが、古曲会にも属さずに孤軍奮闘されている。

 古曲会の方の真茂留会も、いつの間にか、元の荻江会に戻り、無形文化財のグループ指定を受けているが、昔のような活気は残念ながら今は無い。一方、河東節十寸見会の方は、昭和六十年の十二代目團十郎の襲名以来、昔と形は違っても安定した河東節人口を維持しているのは喜ばしいことである。

                          

第75話 『古曲鑑賞会(七)、渡辺やな師』

 渡辺やな師は、
「浚ってあげるから、ウチへいらっしゃい」
 と声をかけてくれた。
 やな師は蔵前の柳屋という和菓子舗の娘で、やなというちょっと奇妙に聞こえる名は柳屋という屋号の柳をとってつけたのだそうである。
 やな師は下谷の花柳界で松栄家という芸者置家をしておられた。
 下谷の花柳界は上野の不忍の池に面した南側の一角で、今の春日通りを挟んで、池寄りの数寄屋町と反対側の同朋町を合わせて下谷とか、池の端の花柳界とか、呼ばれていた。
 やな師のお宅は数寄屋町にあった。
 玄関を入った左側の下駄箱の上に、「てんじん」と書いた板看板が立てかけてあった。
 終戦直後のまだ、食料の統制時代、料理飲食業は正式に認可されず、法の目を潜った裏口営業が密かに横行していた頃は、花柳界なども公然と営業できなかったので、やな師は「てんじん」という甘いものの店を開いておられたそうで、看板の字は小杉放庵画伯がやな師のために筆をとってくれたものだった。
 料理飲食業が正式に再開になったのは確か昭和二十四年だったと思うが、新橋、赤坂、柳橋を除く東京中の花柳界が、その再開を祝して「東京をどり」というイベントを、今はない東京劇場で催した。
 歌舞伎座は戦災で消失したままで、まだ再建されていなかった。
 料飲再開とともに、やな師は甘味処の店を罷めて、戦前からの松栄家という芸者家に商売替えされたようだが、小杉放庵筆の看板だけは大事にとって置かれたのだろう。
 下谷の花柳界は戦前、上野という場所柄、画壇、特に日本画壇の方々との交流が深かったようだ。
 五世露友師が前田青邨夫人となったのも、下谷という土地とまるで関係がない訳ではない。
 やな師の師匠の佐橋章師は露友師の姉で下谷の花柳界で八重といった人である。
 その姉を通して青邨画伯と結ばれたのだから無縁とはいえない。
 昭和三十三、四年頃のことだが、私が松栄家へ稽古に行くと、やな師が私に、小唄をテープに録音したいので唄ってくれないか、といわれた。なんでも、日本画壇の先生方の集まりがあって、余興に橋本明治氏の三味線で山口蓬春氏が小唄を唄う、その稽古用のテープをとりたいということで、確か「初雪」を唄ったことがあった。
 やな師はこの両画伯とは特に懇意にされていたようで、私は一度、やな師と一緒に湘南の山口蓬春邸にお邪魔したことがある。
 話が前後してしまったが、「浚ってあげるから、ウチへいらっしゃい」というやな師のお言葉に甘えて、竹村さんの会の時には松栄家に浚って貰いに伺った。
 その内、竹村さんが下谷へも出稽古されることになり、松栄家がその稽古所になったので、新橋よりも松栄家へ行くことの方が多くなった。当時、大学生だった私は上野を経由して通学していたので、稽古のためにわざわざ廻り道する必要がなくなり好都合になった。
 昭和二十八年に、私は竹村さんから荻江寿章という名を戴いて名取りになった。
 昭和三十年に、竹村さんは傘寿の会を新橋の新喜楽で催した。
 どうも私の記憶と人名事典の竹村さんの年齢には多少感覚的なズレがあるのだが、人名事典によると竹村さんが八十歳になったのは昭和三十年なので、ここはそれに従っておく。
 そのとき、私は「八島」を唄った。三味線は赤坂の晴也さんと秀蝶さんだった。
 会の間中、竹村さんは舞台のすぐ前に菊村さんと並んで坐って演奏を聴いておられた。
 それを見て赤坂のお二人は出番の前に、さかんに「こわい」、「こわい」を連発していたが、竹村さんは師匠だから当たり前として、やはり菊村さんは芸のわかる恐い人だったのだろう。
 会の終わりに踊りが何番かあった。
 新派の伊志井寛の唄で、水谷八重子(初代)が「松」を踊った。
 水谷八重子がとても美しかったのを覚えている。
 トリは尾上菊之丞(初代)の「八島」だった。
 この傘寿の会があったのを昭和三十年として、この後一年足らずで前田青邨夫人が五世露友を襲名されたことと思い合わせると、新喜楽の舞台の前で竹村さんと菊村さんが二人仲良く並んで演奏に耳を傾けていた姿がどうもピンとこない。  前田夫人から竹村さんに声が掛かったのが、もっと後のことで、その時竹村さんはまだ何も知らなかったのか。
 お二人が、五世露友の襲名により袂を分かつまで、あまりに時間が短過ぎる。
 私の記憶では、それは昭和二十九年のことだったような気がしている。
 昭和三十年の五月の末に、私は長年患っていた肺結核が悪化して都下の病院に入院、手術して二年半にわたる闘病生活を送った。
 昭和三十二年の秋、私が退院して来た時は竹村さんは既に隠退されていたので、ごく自然に私はやな師の許に通うことになった。
 稽古は専ら荻江節だったが、河東節は「助六」だけはやっておいた方がいい、といわれて「助六由縁江戸桜」を一曲だけ教えて頂いた。
 昭和三十四、五年頃のことだったと思う。五世露友師はやな師にも、自分の方へ来るよう声を掛けて来たようで、露友師が荻江節だけでなく、河東節も自分の傘下に入れたいと考えておられたのか、どうかは分からないが、露友師側に来てくれたら、佐橋章師の河東節の名、山彦八重子を継がせるといわれて、やな師は大いに迷っておられたようだ。
  やな師は、師匠の佐橋章師を「姐さん」、「姐さん」と呼んでまるで神様のように尊敬し、慕っておられたから、その山彦八重子の名跡を襲名できるということはやな師にとっては願ってもないことに違いなかった。
 この頃、私達弟子連中は度々、緊急召集されてやな師の相談を受けたが、我々に妙案がある筈もなかった。多分、やな師は一人で悩んでいて不安だったのだろう。
 昭和三十五年は、「助六由縁江戸桜」開曲二百年後に当たり、古曲会主催の古曲鑑賞会の昼夜の部、夫々の最後に「助六」が演奏されたが、唄は男性五十六名、三味線は女性で三十三名、真ん中に三味線の女性を挟み、左右に二十八名ずつの男性で、総勢約九十名が四列の雛壇に並んでの大演奏だった。著名人の方々も数多いが、全部の出演者の名を挙げていられないので、最前列の人達の名前だけにしておくが、それでも、当日の豪華なメンバーの想像がつくと思う。
(向かって左側、三味線の脇より)山田抄太郎、伊東深水、船橋聖一、小菅千代市、三宅藤九郎、池田弥三郎、遠藤為春。
(右側、三味線の脇より)馬杉秀、木下茂、花岡俊夫、岩村豊、安藤鶴夫、岸井良衛、斉藤恒一。
(三味線、向かって左より)水原玲子(新橋美代菊)、横溝マサ(赤坂笹川)、小林清子(都一中)、飯箸文子(山彦河良)、水野初(宮薗千寿)、渡辺やな、永井静子(新橋五郎丸)。
 この「助六」について、田中青滋先生は当日のプログラムの中に「世紀の演奏 助六大合唱」と題して一文を書いておられるが、その初めの所に次のようにある。
「宝暦十一年(1761)から今年、昭和三十五年(1960)は二百年になる。助六大合唱といふ途徹もない企画は、その作曲二百年記念といふ所から持上った。
 それには古曲を理解し、擁護してくれる人々の層に呼びかけるより他に手はない。現在河東節だけで五十人は集まりやうがないからである。そこで一中三派、宮薗二派、荻江と各流にはかると欣然これに参加を快諾してくれた。古曲一家の難有味、今度ほど身近に感じたことはない(以下畧)」
 どうも、この「助六」の大合唱は、二年後に行われた、この当時海老様といわれて人気絶頂の役者、市川海老蔵の團十郎襲名を睨んでの前哨戦ではなかったか、と思われる。
 團十郎の襲名には歌舞伎十八番の「助六」が必ず出る。それには河東節連中が出演する。襲名披露公演は東京ばかりでなく、名古屋から京都、大阪で行われる。そのためには河東節連中として、ある程度の人数の確保が必要、と考えてのその準備の布石だったのだろう。
 因みに、昭和三十四年の名簿によると、河東節の男性の名取り(本名取りのみ)は二十六名しかいない。手許にある平成十一年度の古曲会の名簿に載っている河東節の男性本名取りの数は奇しくも同じ二十六名である。
 出演者が河東節のプロの芸人ばかりであれば、ほんの一握りの人数で事足りるのだろうが、二十数名の素人集団では、それにかかり切りになれない事情もあって長期間の興行は無理である。
 そこで、助六名取りという、「助六」一曲だけ覚えて出演して貰う河東節連中が必要となる訳である。
 助六名取りという言葉がいつ頃出来たのかは知らないが、同様のことは昔から行われていた。しかし、その実体はかなり変わってきているようだ。
                     ―――この稿続く―――

第74話 『古曲鑑賞会(六)、思い出すこと』

 昭和三十二年一月十二日に、五世荻江露友の襲名披露を兼ねた初の演奏会が、帝国ホテルの演芸場で開催された。
 この演奏会に先立って各界の名士達に送られた挨拶状には、五世荻江露友の名に続いて次の方々の名前が並んでいる。
 まず、宗家顧問として牧野良三氏、久保田万太郎氏、出光佐三氏の三名。その後に、賛助御芳名(五十音順)とあって、安倍能成氏、 上野直昭氏(芸大学長)、加藤成之氏(元東京音楽学校々長)、小宮豊隆氏(ドイツ文学者、国文学者)、志賀直哉氏、高橋誠一郎氏(日本芸術院々長)、谷崎潤一郎氏、土岐善麿氏(歌人)の八名、相談役世話人として、柳原緑風氏の名が出ている。(カッコ内は筆者注) 安倍能成氏と小宮豊隆氏は夏目漱石門下の長老で、当時、安倍氏は学習院々長、小宮氏は学習院大学の文学部長をつとめられていた。
 牧野良三氏と柳原緑風氏については前に書いた。
 その他の久保田万太郎氏、出光佐三氏、志賀直哉氏、谷崎潤一郎氏については説明するまでもないだろう。
 その襲名披露演奏会の主な番組としては、竹村さんの荻江で「式三番叟」。長唄「松の翁」は芳村伊十郎の唄で、三味線は今藤長十郎。土岐善麿作詞で新宗家作曲の荻江の新曲「月結露友垣」は新宗家の五世露友師の唄で三味線は荻江露扇。舞踊として、荻江節の「梅」を立方、藤間宗家の藤間勘十郎、地の唄は荻江露舟(富士田新蔵)で、三味線は荻江露光(岡安喜一郎)だった、等々で大盛会だったという。
 というのは、その時、私は病院に入っていて、その会に出席していなかったのである。  これ以後の話については、私個人のことに少なからず係わっているので、まずは思い出話でも交えながら私の立場を理解してもらうことにする。
――安倍能成院長の思い出。
 いつ頃のことだったか、はっきりしないのだが、多分、昭和二十六年頃だったと思う。
 前にも書いた美術倶楽部での古曲鑑賞会で安倍院長に会った。
 その時、私は友人の嶋田厚君と一緒だった。後に筑波大の教授になった嶋田君は、幕末の剣客、嶋田虎之助の子孫で、私の江戸学の師、森銑三先生も島田虎之助の調査のため、嶋田家を訪問されたことがあったそうである。
 嶋田君は学習院大学では、フランス会というのを創って、研究というよりシャンソンを聴いたりして楽しんでいたようだったが、好奇心旺盛の彼は邦楽や邦舞などにも興味を持っていて、古曲鑑賞会や竹原はん師の地唄舞など、彼と一緒に見に行った記憶がある。
 古曲鑑賞会で、私と嶋田君が先へ来て窓際近くに並んで坐っていたところへ、安倍院長があとから見えて私達の隣に席をとられた。
 院長には老紳士の連れがあった。
 嶋田君は背広を着ていたが、私は学校の制服姿だったので、院長はすぐ私に気付き、
「君は何年生だ?」
 と声をかけてきた。
 それから、演奏の合間に短い会話を交わした。
「その内、君もあそこへ上がるんじゃないか?」
 と院長は、一段高い舞台を指差して悪戯っぽく笑いながら、いわれたのを思い出す。
 院長の連れの老紳士は、私は知らなかったが、嶋田君が、東京芸大学長の上野直昭氏だと教えてくれた。
 河東節の曲目は覚えていないが、演奏のタテ唄は山彦文子(二代目)でワキが山彦いね子(後の山彦紫存)だった。
 演奏を聴き終わった後、
「山彦いね子というのは声がよくて、なかなかすばらしい」
 と、お二人で話しておられたのが聞こえてきたのを、何となく覚えている。
 安倍院長と直接話をしたのは、その時が最初で又、最後だった。

――小宮豊隆先生については、直接的ではないが、次のような思い出がある。
 学習院大学の歌舞伎サークルを国劇部といった。
 創立したのは、拙著『江戸落穂拾』に序文を書いていただいた小山觀翁さんで、歌舞伎座のイヤホーン・サービスを始められたのも小山さんで、歌舞伎鑑賞に関する著書も枚挙にいとまがない程書いておられる歌舞伎のオーソリティーである。今では歌舞伎関係者で小山さんを知らない人はいないだろう。
 私が邦楽をやっているのを知って、国劇部に入らないか、と入部を勧誘してくれたのも小山さんだった。
 学生時代、小山さんにくっついて、まだ源平といっていた、先年亡くなった沢村宗十郎丈などと遊び廻ったのも、今は懐かしい思い出である。
 その国劇部で部報を出すことになって、B5判4頁の当時としては珍しい活版刷りの創刊号が出来上がった。コピー機などもない当時は、学生は金がないので、印刷物は殆どガリ版刷りだったのである。
 部報の巻頭には、部内切っての踊りの名手、後の白鹿酒造社長の鹿島君の「娘道成寺」の写真を載せ、その下に小宮先生の江戸文化に関する記事が出ていた。
 一面はそれだけで、後の方に、先日亡くなった吉村昭さんや私などが短いものを書いて出している。
 この部報は確か取って置いた筈だが、昨年の引っ越し騒ぎで、どこかに紛れてしまっている。小宮先生の原稿は、国劇部の友人で今も親しくして貰っている神山昭彦君が、
「僕が小宮先生に何か書いてくれるようお願いしてくる。そのかわり、先生がもし書いてくれたら、その原稿は僕が貰うよ」
 といって、小宮先生との交渉を買って出て書いて貰ってきたもので、内容は、江戸時代の文化というものは泥沼に咲いている蓮の花のようなもので、うっかり足を踏み入れると、ずるずると泥沼に体ごと引き込まれてしまう。魅力も大きいが、危険度も高いので、心してかからなかればいけない、といったようなことが書いてあったと思う。
 神山君に確かめていないが、あの小宮先生の原稿は今でも彼の手許にあるのだろうか。

 ちょっと脱線してしまったが、話を荻江節に戻す。
 昭和二十五年、私が竹村さんのところに入門した時、竹村さんは田中家での喜寿の祝を、済まされたばかりだった、と前に書いた。
 竹村さんから、そう聞いた記憶があったからである。
 しかし、平凡社の『日本人名事典』によると、竹村さんは明治九年(1876)生まれで、昭和二十五年には七十五才(数え年)である。私の記憶違いだったのだろうか。
 その当時、竹村さんの稽古所は新橋の板新道の中浜大和という芸者家だった。その後、竹村さんは赤坂や下谷へも出稽古に行かれるようになった。
 竹村さんの稽古所には、弟子の我々以外にも様々な方がお見えになった。五世露友になられた前田すゑ師もよく見えて浚って行かれた。すゑ師の姉の佐橋章師は竹村さんの相三味線だった。
 竹村さんは普段弾き語りで弟子に稽古をされていたが、すゑ師は私がたまたま稽古をしているところへお見えになると、「妾が弾いてあげる」といって、伴奏して頂いたことが何度かあった。
 渡辺やな師(荻江やな、山彦やな子)は佐橋章師の弟子で、師匠のワキを弾いておられた方で、荻江の現存曲はすべて御存知だったようだ。よく稽古日には出てこられて、竹村さんが弟子に稽古をつける、その三味線を弾いておられた。
 ある時、私が居合わせた時だが、竹村さんがやな師に向かって、
「あんたに教えるものはないけど、[紅筆]という唄、やってみる?」
 といった。やな師が、「結構です」と辞退されたので、どんな唄なのか、聴きそびれてしまったが、今の『荻江閑吟集』に載っていない荻江の曲だったのか、或いは、地唄か、何かの唄だったのか、今となっては確かめようがない。「紅筆」という曲名だけが記憶に残っている。
 竹村さんの稽古は、前回までに習った所まで、初めから通してやり、その後の稽古本の二、三行分をまず竹村さんが一人で唄い、それから、その部分を弟子と一緒に三回程繰り返して終わり、という簡単なものだった。経験の浅い私などは、竹村さんクラスの師匠の稽古はそういうものと思っていたが、正直なところ、三回位の稽古ではとても覚えられなかった。カセット・レコーダーなど、まだ無い時代で、持ち歩くのがやっとという程、ばかでかい携帯用録音機が出てきたのは、昭和二十年代の後半だった。後の山田流の人間国宝、中田博之先生も竹村さんの弟子だったが、その中田先生が稽古所に大きな箱型の録音機(テープ・レコーダー)を持ち込んできた時の竹村さんの驚きよう、呆れようは大変なものだったのを思い出す。
 三回稽古で覚えられないのは、何も私ばかりでなく、他の弟子連中も同様だった。
 特に、荻江節などの古曲をやる人達は、色々な邦楽をさんざんやってきた年輩者の方が多かったので、夫々随分苦労されていたようだ。
 普段の稽古の時はまだしもだったが、お浚い会の時はなかなか一人だけで唄えるようにならず、本当に困った。
 そんな時、声をかけてくれたのが渡辺やな師だった。

第73話 『古曲鑑賞会(五)、五世荻江露友』

 昭和三十一年一月に前田すゑ師が五世荻江露友を襲名して、明治十七年(1884)に四世露友が亡くなって以来絶えていた荻江露友の名が七十二年ぶりに復活した。
 前田すゑ師は、著名な日本画家、前田青邨画伯の夫人で、『菊がさね』にも出ていた佐橋章師の実妹である。
 この五世露友の誕生は荻江節の世界だけに限らず、当時の古曲会にとっても一大事件だった。
 というのは、それまでの古曲の関係者は師匠をはじめとして、すべて古曲会に属していたのだが、前田すゑ師は古曲会とは全く別個に襲名して、云わば別派を立てたのだから色々な意味で大変なことだった。
 五世露友師は昭和四十三年に『宗家五世 荻江露友』という本を出版されていて、その跋の中で同書の上梓の動機について次のように述べている。
「前から、系統だった荻江の歴史と現在の動きを後世に残しておくことは、宗家であなたの責任、と人に言われていたが、今年(昭和四十三年)は先代(姉の佐橋章師)の二十三回忌にあたり、自分の喜寿の祝を兼ねた会を二月に歌舞伎座で催すことになったので、長年の懸案だった荻江の歴史と現在の動きを町田佳声先生と仁村美津夫先生にお願いして、やっと出版の運びとなった」(要約)
 同書の最初の方には、五世露友師に関連した写真と各界名士から寄せられた祝詞が載っているが、主要部分は町田佳声氏の『荻江節の起こりとその芸を伝えた人々――初代露友から四代まで』と仁村美津夫氏の『宗家五世 荻江露友』で、町田氏は初代露友から、ひさ、うめの姉妹に至るまでの荻江節の歴史を、仁村氏はそれに続く五世露友師の伝記等について書いている。
 仁村氏の書かれたものは、題名が書名と同じなので、区別するために、仁村氏の方は以下、単に『五世露友』とさせて貰う。
 仁村氏の『五世露友』には、露友の姉の佐橋章師のことや、五世露友襲名の経緯が出ているので、その部分を挙げる。
「章(佐橋章)は周囲からすすめられて、昭和九年、四世荻江露友の娘である飯島すみから正式に露章の名をもらうことになった。これは荻江の後継者を約束されたものであり、荻江では露友の露は門下にもほとんど使わせなかったのに、特に露を冠した露章の名が許されたわけである。
 この飯島すみも四世荻江露友こと飯島喜左衛門の養女だった。すみの生まれは加藤家で、その家はやはり維新前は名門だったが、世の中が変わって没落した。
「今紀文」とまで言われた深川木場の大金持ち飯島喜左衛門の娘として、蝶よ花よのお嬢さん育ちをしたそのおすみさんも、四世露友として大きな財産を蕩尽し、四十九歳で亡くなった義父とともに数奇な運命を辿った女性だった。
 飯島すみは、荻江露章の披露があったときにも、将来、よい機会を見て、五世荻江露友を露章が継いで呉れることを希望していた。
 そして当時、それらの事情は笹川臨風博士がすべてを知っていたし、また任されたような立場にあった」
「佐橋章が荻江露章になったとき、その仲立ちは笹川臨風博士だったが、四世荻江露友(飯島喜左衛門)の娘の飯島すみとともに、笹川氏は露章披露の式に立ちあい、そのとき二人から露章が必ず機会を見て五世露友を襲名してくれるようにと希望が述べられた。(中畧)ついに五世露友の襲名は実現を見ずして世を去ってしまった」
「露章の死後、(笹川臨風博士は)北鎌倉の前田家を訪れ、姉の遺志を継いで、すゑに五世露友を襲名することをすすめた。しかし、すゑはそれをも断ったが、笹川氏は二度、三度繰り返し、荻江のためにも家元が必要であることを説いた。
 それでも、すゑが承諾しないので、笹川氏は四世露友の娘の飯島すみから一切を任され預っていた家元の書類、いわゆるお墨付きを、すゑにその書類が手渡されたのだった』

 昭和三十年に、すゑ師の夫の前田青邨画伯が文化勲章を受けたのを機に,邦楽界の先輩達から,「この辺で,家元になって荻江再興のために尽力してほしい』といわれて,すゑ師は夫に相談したところ,心よく許してくれたので,決心がついたという。
 それで,翌昭和三十一年一月六日、姉露章の命日を選んで,赤坂加寿老での宗家荻江露友襲名となるのだが,当日の出席者は特別な関係者のみに限られていたが,久保田万太郎、土岐善麿、牧野良三、出光佐三、山田抄太郎、宗家藤間勘十郎、芳村伊十郎,杵屋六左衛門、市川海老蔵(後の十一代目團十郎),清元延寿太夫、柳原緑風などで,荻江ひさ師の甥の柳原緑風氏から,すゑ師が荻江宗家を継承することに異存がない旨の証書が,正式にすゑ師に手渡された。緑風氏はひさ師の妹、荻江うめ師の息である。
 この披露宴の後,各新聞社などのジャーナリズムへも襲名の発表を行った。

 以上の記述の中に,四世露友の飯島喜左衛門のことを,深川木場の大金持ち,とあるのは,同じ深川ではあるが,北川町の間違いで,また四世露友の養女という飯島すみについても,これで見ると,四世露友の没落以前からの養女のように受け取れるが,四世露友没後、妻のいくが柳橋で守竹家という芸者家を営みながら荻江を教えていた,その守竹家を継いだのが飯島すみで,前身は守竹家の抱妓で小よしといったという説もあり、すべてそのまま鵜呑みにできないところも多い。
 しかし、『宗家五世 荻江露友』の見返しの後に載っている写真の中に,笹川臨風博士の前田すゑ師宛の荻江節の家元を一時お預けするという書付と柳原緑風氏の同じく前田すゑ師宛の、貴下が荻江節宗家を継承せらるる事に異存ありません,と書かれた承認書が出ている。
 仁村美津夫氏の『五世露友』は、前田すゑ師の五世露友の側から書かれたもので,古曲会に関する事は全く載っていない。
 五世露友襲名の動きは,その前年の昭和三十年から始まっていて,古曲会はその対応策に追われていたようである。
 古曲会の中で,一中節は都,菅野,宇治の三派、宮薗節は千之,千寿の両派,河東節は十寸見会で、夫々まとまっていたが,荻江節は特にこれといったまとまりがなく,新橋の師匠である竹村さんが赤坂や下谷にも出稽古に行っていて,古曲鑑賞会の荻江というと竹村さんの一門が常連を占めていた。
 その竹村さんが五世露友師の方へ行ってしまうという事になったのだから,一大事だったに違いない。
 聞いた話だが,五世露友襲名に当たって,前田すゑ師は竹村さんにも声をかけた。
 何しろ,すゑ師の姉の荻江露章師は竹村さんの相三味線だった。
 そのことについて,菊村さんが竹村さんに,
「あんたはどうするの?」
 と訊いたそうである。
「あたしは前田さんの方へ行く」
 と竹村さんが答えたので,竹村さんは新橋を首になってしまった。
 竹村さんが何故,前田さんの方へ行く気になったのか,色々な理由が考えられるが,いずれも推測になるので,今は深く穿鑿しないでおく。
 新橋は荻江の師匠がいなくなってしまったので,高松あぐり師を引っぱって来て,荻江の師匠とし,亡くなった片山さん(荻江房)取り立ての師匠連、荻江ふみ(飯箸文子)師や荻江しづ(五郎丸)師、また竹村さんの息のかかっていない柳橋や芳町、浅草などの花柳界の名取り連中を糾合して荻江真茂留会を設立して荻江節関係者の結束を謀って五世露友師に対抗した。
 昭和三十一年五月の事である。
 五世露友師の活動は華々しいものだった。
 邦楽界の一流の演奏家達を続々と傘下に集め,襲名の翌年の昭和三十二年一月、帝国ホテルの演芸場で襲名披露演奏会を開く。
 五世露友師一門は真守会と稱した。
 荻江節は,真茂留会と真守会に真っ二つに分裂したが,ジャーナリズムの脚光を浴び,お陰で多少世間に知られるようになった。
 真守会のメンバーには,次のような人達の名が挙がっている。
 荻江露夕(中山小十郎)、荻江露舟(富士田新蔵)、荻江露英(杵屋栄三郎)、二世荻江露章(今藤長十郎)、荻江友次郎(清元梅吉)等々。その他に、竹村さんの御養子の荻江之友(後に,二世寿友)、荻江露光(岡安喜一郎)など、いずれも錚々たる方々である。
 帝国ホテルの襲名披露演奏会については次回に――

第72話 『古曲鑑賞会(四)、「菊がさね」』

 古曲会が財団法人になったのは昭和三十七年九月のことである。
 その年に十一代目市川團十郎(先代)丈の襲名披露興行が、四月、五月の二ヶ月にわたって歌舞伎座であり、河東節の十寸見会連中が出演した。
 新古曲会の会長には旧古曲会の委員長だった篠原治氏が就任、理事長には吉田幸三郎氏、常任理事には田中秀夫(青滋)氏と池田鉄之助氏、理事には旧古曲会の委員がそのまま移行する形となった。委員という名稱が理事と変わっただけで、大きな変化はなかったが、一中節菅野派の五世菅野序遊師と河東節の二世山彦文子(岡田米子)師が物故されて抜け、菅野派の代表には代わって菅野序州の中村孟之氏が、また三世宮薗千寿(槍田ゆき)師に代わって宮薗千幸(水野ハツ)師が四世千寿を襲名されたので、宮薗千幸の名が、消えている。
 新古曲会の会長になった篠原治氏は、前にも書いた通り、新橋花柳界の菊村のおかみで又、二世都一広として一中節の人間国宝だった。一般には篠原治さんというより、菊村のおかみさんで通っていたので、以下、菊村さんと呼ばせて貰うことにする。
 菊村さんは、大正十二年の東京大震災後、新橋の花柳界を逸早く復興させ、一花柳界として新橋演舞場を建設する等、その卓越した政治的手腕は夙に知られたところである。
 菊村さんは一中節の他、清元の名手としても有名だったが、河東、荻江、宮薗等、古曲にも通じておられ、その古曲の保存と普及に大きな足跡を残されている。
 それについては菊村さんが昭和三十一年に出版された『菊がさね』という本に載っている様々な挿話から窺い知ることが出来る。
 前章で引用した笹川臨風博士の『明治還魂紙』の文中に、「荻江の中絶したのを荻江ひさ氏が再興したが、私は家に招いて稽古した」とあった。荻江節は四世荻江露友の死後、妻のいくが柳橋で守竹家という芸者家を営みながら教えていたのだが、明治三十七年にいくが亡くなった後、暫く絶えていたのを復活したのが、ひさ、うめの姉妹だった。
 その後、姉のひさは自ら家元とは名乗らなかったが、世間的には荻江節の家元格として扱われていたようだ。
 ひさは秀翁のところへ河東節を習いに来ていた。以下は、町田佳声氏の『荻江節の起こりとその芸を伝えた人々』による。
 ――明治の頃は、常磐津清元ならまだしも、馴染の薄い荻江節など習っても生活の道につながらない時代であって、ひさ女の修行時代の生活は相当に苦しかったらしく、或る日、秀次郎(秀翁)に苦衷を訴えたところ、秀次郎は「お前は荻江節という特技を持っているから、俺のお客様に頼んで何とか生活の道が立つようにしてやろう」と贔屓先の新橋、赤坂、日本橋、下谷の花柳地の人達に紹介してやった、という。(要約)――
 菊村さんの『菊がさね』の「荻江」のところに、
 ――荻江のおひささんは、河東節のお師匠さん(秀翁)が皆んなの処へ連れて来て、「この人が荻江の稽古をするから習ってくれ」と頼まれた。そんな関係上河東節をやる人はひとまず稽古についた。
 このおひささんの芸風は至極淡々たる芸風なので、荻江と言ふものをまだ解しない人には本当に面白くないと感じたのであらう。一人へり二人へり殆ど終ひには稽古する人がなくなってしまったので、私がすっかり背負ってしまった。例の師匠の終列車だから―――
 とある。この「師匠の終列車」というのは「荻江」の前にある「薗八」(宮薗)のところで、
「そんな訳で仕合せにも、明治時代の女の三名人と言はれた人の教へをうけたが、それがみんなお師匠さんがたの終わりに臨んでゐるので、終列車に間に合ったやうな気がする」
 と書いているのを指しているようだ。
 明治の三名人とは、清元お葉、一中節の都一広、宮薗節の宮薗千之(おさな)の三人のことである。
 荻江ひさは晩年、妹うめの子の柳原緑風氏が営む緑風荘という中華料理店に引き移って、そこで稽古を続けた。
 ――その頃から片山(荻江房)さん、佐橋(荻江章)さん、岡田(荻江よね)さん、竹村(荻江寿々、後に寿友)さん等が本気に稽古をする気になって緑風荘へ通ひ出した。
 お師匠さん(ひさ)は緑風荘で身罷った。本当に終わりがいい。立派なお弟子も出来てよかったと、万事はその時からこの四人にお任せした。
 それで荻江といふものが、この四人の手にかかって面白くなった。
 或る時、「深川八景』をこの四人で放送した事があった。四人とも芸が円熟しきってゐた頃なので、この放送を聞いて実に荻江の前途を喜んだ。その後、片山さん、佐橋さんなどが亡くなられて今残ってゐるのは竹村さん、岡田さん位のものだ。
 この頃は荻江も少し面白くなり過ぎたのではないかと思はれる―――
 筆者の私は、戦後の昭和二十五年に竹村さんについて荻江節を習い始めたが、片山さんと佐橋さんは戦後間もなく相次いで亡くなられたので、お二人の至芸に直に接することは出来なかった。
 私が入門した時、竹村さんは喜寿の祝いをすませたばかりだった。
 その頃、新橋の花柳界では、河東節の師匠は岡田さん、荻江節は竹村となっていた。
 お二人とも河東、荻江に通じておられた筈であるが、新橋ではその分担が決まっていたようだ。
 亡くなられた片山さんと佐橋さんは両方教えておられたようで、門下のお名取りさんから古曲の師匠になられた方々も、いずれも両方教えておられるので、それで河東をやる人は大抵荻江もやっている方が多い。どちらに比重を置くかは人によって違うだろう。
 以前、河東節の師匠はどうして荻江節の師匠も兼ねているのか、という質問を受けたことがあるが、それは以上のような事情によるのである。
 竹村さんについての思い出話を二つ、三つ。
 竹村さんの話によると、おひささんの荻江節は水調子(調子が低いということ)で、単調でつまらないものだったが、それを今のように面白く聞けるようにしたのは自分だ、といっておられた。
『菊がさね』では、おひささんの芸風は淡々としていて、荻江をまだ解さない人にとっては本当に面白くないと感じたのだろう、といっているが、それを面白くしたのは片山、佐橋,岡田、竹村の四人としている。
 竹村さんが,他の三名の名を出さずに,自分がやったというのには,それなりの自負があったと思われる。
『菊がさね』には、竹村さんが菊村さんと同じ清元やなので、何度もその名が出てくるが「余興の盛んな頃,今の古曲の竹村さんが,まだ〆子さんと言ってゐた頃,今でも(昭和三十年頃)高い声が出る位だから,この方の三十代は大した声だった」
 とある。
 本当に大した声で,私が入門した頃,竹村さんは既に喜寿を超えた小柄なお婆さんだったが,初めてその声を聞いた時、その小さな体全体が共鳴するかのような響きにすっかり圧倒されてしまった。
 私蔵の録音テープの中に、昭和二十年代の後半にNHKで放送した竹村さんの「深川八景』がある。三味線は下谷のおやなさんこと、荻江やな(渡辺やな)師である。「深川八景」は三下りであるが、調子は八本で、八十才の人の唄とはとても思えない。
 清元の「かさね」の聞かせどころの「夜や更けて」の節は、五世延寿太夫が竹村さんのために今のような節に直した、というのが、竹村さんのご自慢で、そのことは『延寿芸談』に出ていると私に教えてくれたのは、竹村さん御自身だった。
 五世延寿太夫の『延寿芸談』には、次のように載っている。
 ――(「かさね」の)「夜や更けてノノ」の歌が昔はチントンシャンというようなものであったのですが、私が節をそっくり取り替えて今の節に直したのです。それはこの時には新橋の芸妓連中が清元を勤めたので〆子が非常に高い調子の出る人でしたから、こういう高い調子のものにしたのですが、それが後に市村(羽左衛門)や寺島(梅幸)が演るようになると、私が語らなければならなくなったのですから、女の高調子をそのままやるのはかなり苦しみました ――
 この、新橋の芸妓連中が清元を勤めたというのは、竹村さんの話では、東をどりの前身である東会の時だそうである。
 菊村さんが『菊がさね』という本を出されたその年、昭和三十一年、荻江節の世界に歴史的な事件が起こるのだが、それについては次回に―――

第71話 『古典鑑賞会(三) 笹川臨風博士と山彦秀翁』

 笹川臨風博士は、人名事典には、文学博士で評論家と載っているものが多いが、俳人でもあり、また歴史書から美術批評、小説まで多数の著書があり、その活動は多岐にわたっている。
 博士は『明治還魂紙』(めいじすきがえし)という随筆を昭和二十一年に出しているが、それをみると、邦楽界はもとより、和洋画壇から文壇、学者など、その交遊関係の広さに驚かされる。
 此処では以下、主として邦楽関係のことに限らせて貰うことにする。
 博士の『明治還魂紙』には「十寸見会」という章があって、そこに邦楽関係のことがまとめられているので、以下要約して説明を加えていく。
 博士は初め謡曲を習った。その後、歌沢(寅派)を稽古し、長唄や清元もやったが、長唄は「吾妻八景」、「松の緑」、「娘道成寺」の三番、清元は「北州」、「梅の春」、「喜撰」の三番、いつでも三つ、だった。「傾城水調子」を見て、河東節がやりたくなり、山彦秀翁に入門して、「熊野」から始める。
 山彦秀翁は、幕末最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶(死後、九代目河東を追号)の息の秀次郎で、後に秀翁と稱した。
 天保十二年(1841)生まれの秀翁は、山彦秀次郎の名で三味線方として活躍したが、維新後、河東節に見切りをつけたのか、道具屋となって渡米する。
 明治八年の『諸芸人名録』には秀次郎の名はなく、河東節の頭取世話人には山彦栄子の名が挙がっている。
 明治十八年刊の『東京流行細見記』の「十寸見や河東」のところに、山ひこ秀次郎とあるので、その少し前には帰国したと思われるのだが、どうもアメリカではあまりよいことがなかったらしく、渡米中のことを秀翁は口にしなかったので、渡米の時期や期間はもとより、アメリカでのことは殆ど不明のようだ。
 秀翁の話はちょっとおいて、山彦栄子についてーーー
 山彦栄子は柳橋の藤岡という船宿の娘で本名を大深ていと云い、天保九年(1838)に生まれた。
 秀翁より三才年長である。
 栄子は初め河東節を藤岡の女主人である母親のとくから習ったという。
『十寸見編年集』には、とくも栄子も山彦文子の弟子として出ている。
 山彦文子は可慶の妻、つまり秀翁の母で、安政五年(1858)に亡くなっている。
 河東節の「秋の霜」はその追善曲である。
 栄子の母のとくは、藤岡のお徳として知られた女性で、明治十一年頃の新聞には、荻江節の家元の四代目露友と一緒に、その名がよく出ている。露友とかなり親しかったと思われ、近江屋喜左衛門が四代目露友を襲名した経緯についてはよくわかっていないが、もしかしたら、この藤岡のお徳が仲介をしたのではないか、と密かに思っている。露友が米沢町に待合を出したのも、お徳の世話だったのかもしれない。
 露友は明治十七年に、お徳は明治二十四年に亡くなった。享年は、露友は五十九才、お徳は不明である。
 お徳の話はこれ位にして、娘の栄子の方に話を戻すが、秀翁が外国へ行ってしまった留守の間、河東節の連中は山彦栄子が中心となって活動していた。『諸芸人名録』の頭取世話人に、河東節では山彦栄子の名があったが他流はいずれも家元の名が出ている。ということは、栄子が河東節の家元的役割を担っていたということである。
 秀翁は九代目河東の十寸見可慶の倅であって、本来ならば当然、家元になるべき人物だが、河東節を捨てて外国へ行ってしまった。その秀翁が突然、また戻って来たのだから、栄子達は驚き、困惑したに違いない。
 帰国した秀翁にしてみれば、糊口を凌ぐ手段として手馴れた河東節を教えるのが一番手っとり早い。そうした秀翁をどう扱ったものか、栄子達は戸惑ったと思われる。
 秀翁は河東節の師匠を始めたが、栄子達とは別行動をとった。
 元々、父親の可慶の下で盛んに活躍していたこともあり、芸は確かな上に何といっても栄子と違って男性だったので、次第に弟子も増えて行った。その中に、アメリカで知り合った平岡吟舟がいた。
 吟舟は明治大正時代の実業家で、本名を煕(ひろし)といった。安政三年(1856)生まれの吟舟は明治四年十六才の時に渡米、汽車車輌製造技術を習得して、明治十年に帰国、車両製造工場を起して巨利を得た。各種の音曲に通じ、遊芸に散財したので平岡大尽と稱された。明治三十五年以来、伝統的声曲諸派の粋を集めて「東明節」を創始した。東明節は昭和五年に東明流と改稱。吟舟は昭和九年に死んだ。享年、七十九才。(平凡社『日本人名大辞典』より要約)
 吟舟と秀翁はアメリカで知り合ったというのが通説だが、それ以前に既に知己の間柄で、秀翁は留学のため渡米した吟舟の跡を追ってアメリカへ渡ったと書いてある本を見たことがある。どちらが本当なのか。日本出国の時、吟舟はまだ十六才だから、やはりアメリカで知り合ったという方が自然な気がする。
 帰国後、吟舟は熱烈な河東節の後援者となる。
 明治二十九年歌舞伎座での九代目團十郎最後の「助六由縁江戸桜」の時、頼まれて河東節連中として出演した吟舟の江戸時代の十寸見連を彷彿させる数々のエピソードは今でも語り草になっている。
 その時の助六は勿論、九代目團十郎で、揚巻は福助(後の五代目歌右衛門)、意休は有名な四代目芝翫で、古今無双の意休と評判が高かった。
 吟舟の他にも、愛知県選出の代議士の三浦逸平(十寸見東甫)、大和田主人の味沢貞次郎(十寸見東和)など、秀翁には有力な後援者が大勢いた。
 そんなわけで、河東節は自然、秀翁の派と栄子の派の二派に分かれることになった。
 栄子のグループを藤岡派と云い、秀翁のグループを真澄派といった。
 両派は反目し合っていた訳ではなく、両派の間には交流があって、芝居や河東節ゆかりの故人の追善会などには一緒に出演して協力し合っていた。
 山彦秀翁という人は奇人で数々のエピソードが伝わっているが、芸の方は正統派で、稽古はなかなか厳しかったという。
『明治還魂紙』に秀翁の奇行がいくつか出ているが、ある時、演奏の途中で突然三味線を下に置いて立ち上がってどこかへ行ってしまい、暫くして戻って来て演奏を続けた、という話などは中でも傑作だ。演奏仲間が後で、どうしたんですか、と訊くと、何小用に行ったのげす、と平気な顔で答えたという。
 秀翁はアメリカで生活したこともあってソーセージが好きというハイカラな一面もあったが、やはり生来の江戸っ子で、金持ちの贔屓や後援者より、当時の笹川臨風氏のような若い書生っぽが好きというつむじ曲がりの所があった。
 臨風博士は秀翁に好かれて、
「時々モンぺの股引に尻っぱしょりで、首に小さな風呂敷包を巻きつけた、翁の不意の訪問を受ける。風呂敷の中から取出すのは小鴨で、お土産である」
 と『明治還魂紙』に書いている。
 昨今の河東節の師匠は大抵、河東節と共に荻江節も教えている。実は、これには秀翁が係っているのだが、それについては長くなるので、次号で委しく触れることにする。
 秀翁は大正八年四月に不帰の人となった。行年、七十九才。
 秀翁の長男は河東節とは無縁で他家へ養子に行き、次男の猛次郎は山彦小文次といったが、父の秀翁との折り合いが悪く、喧嘩別れをして出て行ってしまい、その後間もなく秀翁は死んだという。秀翁の死後、小文次は家元を襲名、主として上方で活動していたが、昭和九年に亡くなった。
 以下、『明治還魂紙』に次のようにある。
「不思議な縁で、私(臨風)は最後まで出入をして、其(秀翁の)面倒を見てゐた。
 翁の歿後、此の流儀の絶えんことを遺憾とし、三浦東甫君と謀って十寸見会を起した。又翁の追善のために長命寺に碑を建て、後に之を三囲神社の境内に移した。(この碑は三囲神社に現存)邦楽調査会邦楽会も夙くに廃絶してゐたから、私は古曲鑑賞会を起して河東節の他に薗八、一中、荻江及地唄の保存を謀り、第一回を三越のホールに開催し、後には産業組合中央会館のホールを用ひ、事変まで二十何回となく開いた。正会員五百名余、臨時会員二三百名、此う云ふ会合では最も盛んであった。
 或時は京都の松本おさださんを招いて地唄舞をやり、又或時は文楽座の吉田文五郎、桐竹紋十郎を聘して薗八節の「小春治兵衛」を演じたりした。荻江の中絶したのを荻江ひさ氏が再興したが、私は家に招いて稽古した。振をつけたらば盛んになるだらうと、古曲鑑賞会で初めて若柳吉与志に「八島」を踊って貰ったが、果して之は中って盛になった。薗八の家元は都一中が之を預ってゐたが、一中歿後は私が之を預ることにした。
 斯ういふわけで警視庁が芸事を統制することになると、素人の私は実行委員にさせられ、長唄と三曲とを除いた邦楽のために邦楽協会が設けられて、其会長に挙げられ、一昨年(昭和二十年)の三月まで在任した」(以上、『明治還魂紙』の「十寸見会」より)
 山彦栄子はその後新富町に居を移したので、藤岡派は又、新富派ともいうようになった。栄子は秀翁が没した三年後の大正十一年、八十五才の生涯を終えた。
 古曲を心から愛していた笹川臨風博士は昭和二十四年四月十三日に死去した。享年、八十才だった。博士は亡くなったが、しかし、その遺志は現在の古曲会に受け継がれ、今も脈々と生きている。
                       —–この稿続く—–

第70話 『古曲鑑賞会(二)、「古曲への案内」』

 牧野良三氏(1885~1961)の「おもい出」には、上野の芸大に邦楽科が創設された経緯が書かれているので、次に挙げる。
「日本音楽について、わたくしには深いおもい出がある。
 大正七年の秋のことである。
原(敬)内閣が成立して政党内閣というものが初めてでき上がると、その文部大臣に中橋徳五郎さんが選ばれた。世間は、原首相の文教一新に関する大きな志を知らなかったものだから、この意外な人選に驚いた。文部省というところは、宮内庁と相並ぶ別格な役所であって、その大臣には、華族とか、役人を長くしてきた特別な人物とか、何れにするも社会から別格扱いをされる人物でなければならないものとされていた。そこへ、関西の実業家で、長い間大阪商船の社長をしていた民間人を選んだのだから、驚いたのは無理もない。今の東宮妃が選ばれた驚きと喜びとを逆にしたような空気だった。それで、政界も、言論界も、意地の悪るい小姑のような態度で、新文相の一言一行を、目ひき袖ひきして問題にしたものだった。
 その際のこと、文部大臣が当時秘書官をしていたわたくしを連れて上野の音楽学校へ出かけた。一と通り見てまわってから、先生や、父兄や、それに新聞記者を前にして、この学校では西洋音楽は教えているが、なぜ日本音楽を教えないのかといわれた。すると、それが忽ち問題にされて、翌日の新聞にデカデカと書き立てられて、文部大臣は学校と待合をゴッチャにしている、卑俗な文相の面目躍如たりと悪口した。日本の音楽というものはそんな風に、全く卑俗なものとされていたのである。
 すると中橋文部大臣は、サンザン悪口をされた揚げ句のこと、一つ世間の眼を開いてやろうじあないかといい出して、音楽学校に邦楽科設置の立案を命じた。それが、その後いよいよ実施されることになって、音楽学校に長唄科、清元科、常磐津科、義太夫科といった意外な学科が設けられ、高輪の家元(清元延寿太夫)を始め各家元の代表者が官立学校の奏任待遇の先生に任命されたんだから愉快だ。全く驚くべき教育界の革命で、三味線音楽のために万丈の気焔を吐いたものだった。
 この革命を心から喜んだ人に、当時の東大の教授笹川臨風博士があった。笹川さんの喜びといったらたいへんなもので、それ以来わたくしは大の仲よしになったのだが、その笹川さんが、いつも心にかけていたものが、この古曲であった。古曲には大衆性がとぼしいから、このままにして置いたら亡びてしまうといっていろいろに苦心し、保存に鑑賞に、それから歌詞の整理に、その心つかいは並み大抵なものではなかった」
 牧野良三氏は、この当時、文部大臣の秘書官だったが、後に代議士となり(岐阜県選出)、第三次鳩山内閣では法務大臣を務められた政治家である。
 中橋徳五郎氏(1864~1934)は此処にあるように実業家としても秀れた手腕をお持ちだったようだが、政治家として数々の実績を残された方である。即ち、大正七年の原(敬)内閣の時、文部大臣となり、その在任中、大学の昇格問題を始め、その他新時代に適応すべき斬新な方策を実施して旧弊を打破した功は大きいといわれている。(平凡社『日本人名大事典』)大正十年、原首相が凶刃に倒れた直後、組閣された高橋(是清)新内閣でも、中橋氏は文部大臣として留任し、その後、昭和の初めにかけて商工大臣、内務大臣を歴任した。
 笹川臨風氏については別に後述する。
 以上のような諸氏の文の後に、一部、二部の番組と、その出演者名が出ている。
 それに続いて、「古曲への案内」として、「古曲とはどういふものか」、「古曲は現在どうなっているか」、「古曲はどう味はったらよいのか」についての懇切丁寧な解説が載っている。
 著者名がないので誰が書いたのか分からないが、文章やその内容からみて田中青滋先生ではないかと思われる。
 田中先生は河東節十寸見会の対外的な代表者でもあり、後に古曲会の理事長になられた方である。  最初の「古曲とはどういふものか」の冒頭に次のようにある。
「古曲といふ言葉は、三味線邦楽の内、常磐津、清元、長唄、乃至は義太夫節などと、何か一線を劃したい気持から、およそ大正はじめ頃から称へられた言葉で、一中節、河東節、荻江節、宮薗節を指し、その頃は上方の繁太夫ぶしなどもこの内に加へてありましたが、只今ではこれは地唄、箏曲の部にゆづり、前記四派を総括して古曲と呼ばれて居ります」

   私が古曲鑑賞会に行き始めたのは昭和二十年代の後半だったが、その頃の古曲鑑賞会の会場は美術倶楽部で、椅子席ではなく畳敷きの広間に一段高い舞台があって、出演者はそこで演奏し、聴衆は畳の上に座ったり胡座をかいたりして、それに耳を傾けたものである。
 その時分には、確かに演奏曲目の中に地唄が入っていて、いつも富崎春昇師が出演されていた。時には富山清琴師を伴って演奏されることもあった。繁太夫節の「千鳥」とか、「荒れ鼠」とか、聴いた記憶がある。
 いつ頃から地唄が無くなったのか、はっきり覚えていないが、昭和三十年に古曲会が設立されて古曲鑑賞会が演奏会名になってしまってからのことかもしれない。この「古曲とはどういふものか」の後の方には、一中、河東、宮薗、荻江について夫々簡単な説明があり、次の「古曲は現在どうなっているか」と合わせて、古曲各流派の成立から昭和三十四年に至るまでの歴史がコンパクトにまとめられていて、これらを読むと、古曲に関する基礎的な知識が得られるように書かれている。
 一般的にあまり知られていないことも書いてあるのだが、それにはいずれ後で触れることにして、以上で「古曲とはどういふものか」と「古曲は現在どうなってゐるか」については終わる。さて次の「古曲はどう味はったらよいのか」の章だが、なかなか含蓄に富んだ文で、古曲を鑑賞する上でのヒントにでもなればと思って、全文を挙げることにした。
 「古曲は武蔵野の紫(植物)である。放っておけば亡びてしまふ。それは何故か。
 わからないからである。ぴったり来ないからである。退くつである。くすみすぎている、等々々。
 それは一々御尤でありますが、およそ芸術には、早わかりのする芸術と、熟視玩味してはじめて味の出る芸術と、両様が存するやうです。古い芸術品は、とかく、さう易々と門戸をひらいては居らぬもののやうです。古曲は音楽を極めた人とか、芸術鑑賞に造詣の深い人とかから讃嘆の声を放たれることが屡々でありますが、これは古曲に、どこか古美術のよさに通ずるよさが蔵されている証左であります。一時、短歌の世界で、万葉にかへれ、といふ運動があった事がありました。古曲に対する私共の認識も、万葉にかへれ、のあの声に似、古いものに新しい美を見出しておどろくそれがあるのであります。この復古主義の精神は決してただ単なる老人好み、古さのみを求める頑迷な自己陶酔でないことは、古曲とお親しみ下さることによって、徐々に諒解して頂くことが出来るでありませう。
 各派鑑賞の基礎となるヒントを申上げておきますと———
 古曲は大別して上方系のものと江戸系のものとの二つに分けられます。一中、宮薗を上方系、河東、荻江を江戸系とします。
 上方系は大体情感を主とし、江戸系は情意を主としています。上方系の三味線の糸は太めなので、さわりと余韻がつけ易く、味が出ます。江戸系は三味線の糸が細いので、余韻がつけにくく、きっぱりとか、さらりとか、さうした音以外に生命を託します。化粧の濃くない、水髪の女などの好まれた、あの嗜好でせうか。
 一中節には師宣の絵の、あの大まかな、温いものが一本通って居ります。宮薗はただ嫋々と情痴の世界を語ります。河東は張りと意気地の吉原とか、市川団十郎の芸風に似ています。荻江は深川の素足でせうか。
 勿論、この基礎的なものを、各時代、各作曲者、各演奏者によって、千姿万様の差違を生ぜしめているのであります。
 これらの点を、古曲とお親しみ下さることによって、お究め下さることを望ましく存じます。
 以上がごく駆け足の、古曲の国御案内でありました」
 別会のプロでは、この「古曲への案内」に続いて、「古曲会会則」が出ているが、その最後に、古曲会とあって、次いで、前出の委員長、篠原治氏と三名の常任委員の名があり、更にそれに続いて、委員として各流派を代表する十五名の人達が並んでいる。カッコ内は筆者の注。
 都一中(十一世)、菅野序遊(五世)、宇治紫文(五世)—–[以上、一中節]
 宮薗千寿(三世)、宮薗千幸(後の四世千寿)、宮薗千之(四世)、宮薗千富—–[以上、宮薗節]
 中川とり(山彦寿美江)、山彦文子(二世)、山彦静子(新橋五郎丸)、山彦やな子、山彦河良(六世)—–[以上、河東節]
 荻江阿く里、荻江いね(山彦紫存)、荻江玲(新橋美代菊)—–[以上、荻江節]
 いずれも名人上手と誉れの高かった方々であるが、以来今年まで四十七年、半世紀になんなんとする歳月が流れて、今は皆、鬼籍に入られてしまった。
 時の重みを感ぜざるを得ない。
 別会のプロには、この頃の古曲鑑賞会のプロのすべてそうだったように、一番最後に各流派の名取の名簿が載っている。
 いま頁を繰ってみると、懐かしい人々の名前が数多くあり、今昔の思いに耐えない。

   次回は、笹川臨風博士について——-

第69話 『古曲鑑賞会(一)、別会のプログラム』

 昨年の八月、永年住み馴れた自宅地にマンションが建つことになり、出来上がるまでの間、近所に仮住まいすることになって引っ越したが、何分、何十年ぶりの引っ越しで荷物の整理が大変だった。
 結局、整理がつかないまま引っ越しの期日が来てしまい、何も彼も一緒くたに箱に詰めて新居に運ぶ羽目になってしまった為、どこに何が入っているのか、さっぱりわからずに困っている。今年の夏頃までには新築のマンションの方へ移ることがわかっているだけに、どうせなら多少不自由な思いをしても運んで来た荷物をそのままにしておけば、持って帰る時の手間が省けるのではないか、と決め込んでいるのだが、一番困ったのはメモや資料類の行方で、おかげで原稿を書くのに苦労している。
 しかし、引っ越しのせいで嫌な思いばかりした訳ではなく、荷物の整理中に全く忘れていたものが思いがけず出て来たというハプニングもあった。
 昭和三十四年二月二十一日に新橋演舞場で催された古典鑑賞会の別会のプログラムもその一つだ。主催は古曲会である。
 現在の古曲会が財団法人になったのは昭和三十七年であるから、それ以前の古曲会の時代である。
 この別会は古曲会としては画期的な大規模な会で、昼夜二部、各十二番づつ、第一部の十二番の内、舞踊が八番。第二部十二番では舞踊が七番で、立方は、武原はん、神崎ひで、川口秀子、花柳寿輔、花柳寛(芳次郎)、西川鯉三郎、尾上菊之丞、藤間勘右衛門、藤間友章などの錚々たる師匠連の外、新橋からは、まり千代、小くに、染福、ゆみ、赤坂は時丸、柳橋は津満子、芳町は二郎、浅草は光乃、といった芸妓達が顔を揃えての出演となっている。これらには、古曲会の並々ならぬ意図があったようである。
 それについて、プロには「古曲鑑賞会別会開催の趣旨」という文が出ていて、その後に、河竹繁俊、久保田万太郎、町田嘉章、牧野良三、篠原治、吉田幸三郎などの方々の寄稿文が載っている。
 いずれも短文ではあるが、古曲や古曲会について重要で興味深いことが書かれている。
 こんな五十年近くも昔のプログラムを持っている人も殆んどいないだろうから、以下出来得る限り紹介させて貰うことにする。
 まず、最初の「古典鑑賞会別会開催の趣旨」だが、次のように出ている。(要約)
「古典鑑賞会は昭和八年に笹川臨風氏が創始、昭和十六年春までに十六回開催した。戦後笹川氏より田中啓文、篠原治、吉田幸三郎氏が再建を依頼され、昭和二十一年十一月に復活発会し各派の独立の会をつくり育成の事業と共に二十一回開催したが、昭和三十年に古典鑑賞会を改組し各派を挙って糾合し古典会を設立、古典鑑賞会は演奏会名として二回開催した。合計すると古典鑑賞会の開催回数は三十九回でこの別会は第四十回目に当たる」
 と古典会の歴史についての説明があり、続いて、
「古典は如何にも繊細な芸風のため、多く小さな会場で催されるので、多数の方々の鑑賞を願うことが出来ず、限られた鑑賞者のみの世界に置かれていたといえる。多数の新しい鑑賞者を得るためにも大きな会場で開催することは年来の希望だった。昔は古典も大劇場で踊りがついて演じられたものなのだが、芸が進歩して繊細になるにつれて座敷に移り、素浄瑠璃となり渋く難しくなって来たのである。この芸風はあくまで保存すべきであるが、一度昔の舞台に返して昔の如く踊りをつけてみるのも古典発展のために必要と思っていたので、この別会開催に当たり舞踊をつけた番組を多くした訳である」
 と開催の趣旨を述べている。
 最後に、古典会とあって、続いて、都会、菅野会、宇治会(以上、一中節)、十寸見会(河東節)、千之会、千寿会(以上、宮薗節)、荻江会(荻江節)と七行に各会の名が並んでいる。
 現在、古曲と呼んでいるのは、一中節、河東節、宮薗節、荻江節の四流だが、そのことについて、同じプログラムに載っている町田嘉章氏の寄稿文「古曲をもっと日の当る場所へ」に、次のようにある。(全文) 「河東、一中、宮薗、荻江などそれぞれ発生も伝承も異なっている音曲を一まとめにして「古曲」と呼ぶようになったのは大正の終わりから昭和へかけて以後のことで、大正十四年にラジオ放送が開始された当時は、これらの音曲を一般大衆は殆んど知らなかったので、その頃番組の編成のお手伝いをしていた私が便宜上附けたのでした。その当時のことを有体に申しますと河東や一中を他の長唄や箏曲等とおなじ扱いでプロに組みますと「放送局は何故あんな間のびのした面白くないものを放送するのか」といった攻撃の投書が山積したのです。つまり自分が高度な鑑賞能力が無いため理解することが出来ず、放送局を攻撃してきたのです。それでこれからの音曲は一般聴取者が理解する能力が出来るまでは娯楽番組としてではなく寧ろ教養番組として一ヶ月に一回位は「古曲の午后」とか「古曲の夕べ」というようなタイトルにして故笹川臨風博士などに簡単な解説をお願いするようにしたものです。然しその後間も無く「古曲鑑賞会」が結成され、関係者諸氏の異常なる努力により保存ということより寧ろ積極的に大衆を教育してその芸の妙味を理解させようとする啓蒙運動が着々として進んでいたのは、誠に心強い次第でした。然しそれも戦争という不祥事のために一時中絶を余儀なくされましたが戦後は古曲鑑賞会も復活、それが更に古曲会となって総ての点が整備されたのは嬉しい限りです。また放送などの場合にも、もう以前と違って長唄や清元などの種目に伍して宮薗や荻江の名が出ても別に聴取者は苦情を言わなくなったということは大変な進歩で、昔から邦楽ファンと呼ばれる人達の間でも非常な向上が見られている一つの証左だと思っております。
 今や古曲は日蔭の片隅に置かれるべきでなく堂々と堂々と日の当る所へ出て自己の存在を主張すべき時期に到着したと思います」
 古曲と言う名稱は町田嘉章氏がつけたと聞いていたが、この文から正にその通りとわかる。文中に出ている笹川臨風氏は、前出の「別会開催の趣旨」にあったように古曲鑑賞会の創始者である。古曲会の歴史について述べている同じ文中に出ている人名の内、田中啓文氏については全く存じ上げないが、篠原治氏は有名な新橋の菊村さんで、一中節の人間国宝、都一広師でもある。又、吉田幸三郎氏は古曲会の大恩人ともいうべき方で、表立つことを嫌って陰で経済的援助も含めて古曲会のために尽力された。古曲関係者で氏の恩にあずかった者は数知れない。我々は氏を吉田先生と呼んでいたが、先生は目黒の大地主の跡取りだった。先生は今村紫紅等、日本画家の後援もしておられたが、その中に速水御舟もいた。その御舟は先生の家に滞在して画を描いていたのが縁で、先生の妹の弥さんと結婚した。
「御舟はボクの義弟なんだよ」
 と先生が私にいわれたことがあったのを思い出す。
 先生は裏方に徹しておられたので、人名事典などには載っていないが、西の武智(鉄二)に東の吉田、といわれたこともあったようだ。
 町田嘉章氏に続いて、河竹繁俊氏の「国宝的な古曲」と題する文を次に挙げる。
 文の前後の半分位は儀礼的な祝詞やお定まりの挨拶なので、その部分は省畧する。
「(前畧)さてまた、古曲がいかに大切な無形文化財であるかは申すまでもありません。今の世の中にジャズや歌謡曲のように、むやみにワイワイされずとも、江戸時代の音楽の中での古典的価値あるものとして、また現行邦楽の源泉としてこれほど大切なものはないと信じております。これを保存し研究して下さることは、国の文化財——国宝をまもっていただくことに相当します。そうしてこの古曲が保存されていてこそ、新らしいよい音楽も生まれてくるのであります。
 一例をあげますと、長唄の「勧進帳」がいいたとえです。歌舞伎十八番の「勧進帳」が初演されるときの作曲者杵屋六翁は、一中節の「勧進帳」を大変参考にしたということは広く知れわたっております。わたくしどもが聴きましても、至るところに一中節の「勧進帳」のにおいがいたします。つまり名曲と呼ばれる長唄の「勧進帳」も一中節があったればこそ生まれてきたのでありました。ここに古曲のネウチ有難味があるではありませんか。ちょうど法隆寺や桂の離宮その他の国宝建造物が、文化財として保存されていたればこそ、新らしい時代の日本建築が生まれるのと少しも変りありません。(以下畧)」
 久保田万太郎氏の「春立の———」は、一ひねりしてはいるものの、内容はお付き合いに書いた御祝いの辞といった感じで、特に記すべき程のものはない。最後に出ている俳句だけを挙げておく。
 ——立春の日かげあまねき障子かな
 後先になったが、この時の古曲会の委員長は篠原治氏、常任委員として、吉田幸三郎、田中青滋、池田英之助の三氏が名を連ねている。
 この別会のプロに載っている篠原治氏と吉田先生の文は、夫々、委員長と常任委員を引き受けたことについての弁で、特筆すべきことはない。
 その他の牧野良三氏の「おもい出」と田中青滋先生が書いたと思われる「古曲への案内」については次回に——-