第124話 『一中節の三派(五)、幕末から明治』

 幕末から明治にかけての三派について整理して置く。

 先ず都派だが、七代目のお薦(こも)一中は素行が悪く門弟からも見離され、行き倒れて死んだと伝えられている。没年不詳。

 八代目一中については、『一中譜史』に次のようにある。

「現時の四世序遊と二つ年下の人にして、八歳の時家元を襲名す。時に安政二年(1855)なり。中橋西中通り千葉屋という足袋屋の倅仙之助なり。五代目一中千葉姓なれば、この千葉屋と何等かのゆかりあるものにや知らず。この人急病にて三十歳前後に死したり。(明治十年八月二十九日没)」

 とある。安政二年に八歳とすると、嘉永元年生まれで没年の明治十年にはちょうど三十歳になる。

 千葉屋と五代目一中の関係について平凡社の『演劇百科事典』には、「六世一中の従孫」と出ている(英十三)。

 従孫というのがあまり見かけない言葉でよくわからないが、中川愛氷の『三絃楽史』には「その甥」となっている。

 六代目一中の妻の一浜の門下から、一清と以中が出たことは前に書いたが、一清は後に一静となった。この一静は勿論、宇治倭文となった名人おしづの一静とは違うのだが、紛らわしいので、以下一清で通すことにする。

 一清は元深川仲町の芸者で、大吉という名で出ていたという。

 一清は嘉永二年(1849)に一清となり、明治十四年に死んだ。名をとったのは四十歳の時というから、逆算すると文化七年(1810)生まれで、享年は七十二歳となる。

 一清は作曲にも堪能で、作品に「猩々」、「道成寺」、「都鳥」、「石橋」などがある。

 一清は又、御船蔵の師匠といわれていた。

 御船蔵とは、今の江東区新大橋一丁目辺の隅田川沿いに幕府の御船蔵があったので、その辺りを御船蔵前町といった。そこに一清の住居があったと思われる。

 一清の門下から初代一広が出た。

 人間国宝二代目一広の新橋菊村のおかみさん事、篠原治師はこの初代一広の弟子である。

 菅野派は、嘉永四年(1851)十一歳で家元を継いだ四代目序遊は大正八年七十九歳で亡くなったが、美音で近世の名人と評判が高かった。

 宇治派は、初代紫文斎が安政五年(1858)に没した翌年の一周忌に、初代とおしづの子の福太郎(福之助とも)が二代目を継いだ。二代目は身体が大きいのに風采があがらなかったので、油徳利と呼ばれていたという。明治八年五月に隠居して閑斎翁と稱したが、明治十二年に亡くなった。享年五十九歳。

 三代目紫文斎は元幕府の御家人での四代目菅野序柳が宇治に転じ、紫京の弟子となり紫鳳と稱したが、後に三代目紫文斎を襲名した。

 初代紫文斎とおしづの血筋は二代目の死によって絶えた。

 三代目紫文斎は明治三十六年十月に七十七歳で死去した。

 この稿を締め括るに当たって、これまで参考にしてきた各書から三派の芸風に関する記事を次に挙げる。

 今では全く一変しているかもしれないが、当時の芸風や芸に対する考え方、感じ方を知るのも一興と思う。

 芸談としてもなかなか興味深い。

 菅野派、宇治派について、

「宇治派の曲は琴曲の影響を受けたるをもって、悪評家は盲人節などといえりという。しかし、いづれも菅野より出たる人々なるをもって、宇治と菅野とは、一脈の通ずるところあり。都は然らず」(『一中譜史』)

 以上は、「一中節の三派(三)」に引用済で重複するが、一応再掲させて貰った。

 宇治派について、

「昔の一中節は面白くないものとなっていました。咽喉がころころかへると師匠(名人おしづ)は嫌がって、あれはお浄瑠璃ではないと申されました。咽喉がよくて意気に語りますのは大禁物、仮令どんなに咽喉がよくてもころりと言はせず、唯ふはりふはりと丸く節を語るのが一中節の本分ださうでございます」(『名人お静』の後記)

「(師匠は)浄瑠璃の方で申さうなら、かるい物でどうしても人に真似の出来ないうまいところがございました。先づ、三度笠の「寝まきながらに送られし」とか、椀久の「たどり行く」、駒の泪の「ほうれい」、若衆万歳の「袖なし羽織たづな帯」など、これらはまったく無類で、誰にも師匠のやうにはできませんでした」(『名人お静』の後記)

「また師匠の三味線は撥もあざやかでございましたが、指に妙を得たお人です。チンとかツンとか弾きますと、指の方にうなりのやうな響があります。それが為め露の滴るやうにうまく聞えます。賎機帯の前弾などを弾きますと、皆さんがぼうっとしてほれぼれと聞いておいでになります。前弾が済むと皆さんがムウと溜息をおつきなさいました。又掛声のうまい事は無類で、どんな出来ぬ者でも、師匠の掛声に逢ふと、それにつり出されて語られた位でありました。それに語る方へ咽喉の労れぬやう息のつづくやう弾きますから、語る人が皆うまく聞えます」(『名人お静』の後記)

 おしづの芸について、『名人お静』の後記に、河竹黙阿弥が絶賛した三番叟のエピソードなども出ているが、長いので割愛した。

 最後に都派についてだが、明治三十九年六月の『趣味』という雑誌に「一中節」と題して高橋清子女史談として、都一清の芸のことが出ている。清子女史は内閣書記官長高橋健三氏の未亡人で、一中節は御船倉の師匠一清の弟子だったという。

 以下は、いずれも同書からの引用である。

「一中節で最も面白いのは賎機(帯)、手附も節附もよく出来て居ます、先ず真正(ほんとう)の一中節ですね。それから品のよいのは松の羽衣、私(女史)の一番好きは網島、例の近松の作で、道行の件(くだり)です。人によっては傾城浅間嶽がよい意気だとか何とか仰しゃいますが、吉原雀のチョボクレが第一下品、節附も大挺(たいてい)富本で、先づ彼の畑のもので、それよりか同じ浅間でも夕霞の方が品もよし、一中節としてはずっとよく出来て居ます」

「今日の一中節は声を出すと清元、又は富本になります。調子ばかり高くても弱いから致方(いたしかた)がありません。だから一中をなさる奥様方にもさう申すのです。声は十分にお出しなさい、成丈太く強くお腹からお出しなさい、今日のやうに高い 調子でもって口先で細くする必要はない、どんなに強くお語りなさっても義太夫にもならず、高くても長唄にはなりません、ちゃんと節がならないやうに附て居るのですから遠慮なさるには及びませんと」

「全躰(ぜんたい)一中節の三味線は弾くのではなく、打つとか押すとか申す方がよろしい。肩から充分に力を入れまして、其の力が撥に這入って絃を押すのですから、力のある三味線、それを知らないで長唄や清元のやうに派手に弾て居ます。こんな不心得な者が多いから今日の一中節になるので、只の一人でよろしい、上手な人が欲いものです」

 例の『一中譜史』にも、

「都の芸風今の様に派手に語ったものにあらず。一清あたりより大分派手になせり。一清の語れるも今の風にはあらず。一広以中などよりずっと崩せるものならん」

 とある。

 樋口素堂著の『一中譜史』は大正四年刊であるが、その頃既に江戸時代の一中節の芸風は大分変化していたようだ。

 私が古曲に接するようになったのは、戦後の昭和二十四、五年頃、古曲鑑賞会に行くようになってからである。

 その頃、都派の一中節について、「あれが一中節かよ」という人の声が聞こえて思わず耳をすませたことがあった。

 その言葉には侮蔑というより驚嘆の響きがあった。

 その人の話によると、新橋の(都派の)一中節は高い調子でテンポが速く、まるで今までの一中節とは違うということだった。

 同じ頃、昔の一中節について、どういうものだったか故老に尋ねたことがあったが、ちょっと考えられた後、

「今の菅野が一番昔の一中に近いのではないかな」

という返事が戻ってきた。

 菅野はその頃、四代目序遊師の甥で大正十年に家元を襲名した五代目序遊師が確かまだ御健在だったと思う。

 古い記憶を思い起こして、一応書き添えてこの稿を終わることにする。

第123話 『一中節の三派(四)、続、宇治紫文斎』

紫文斎について『名人忌辰録』に、「勝田の隠居」とあったが、その前身についてはあまりよくわかっていない。

当然妻もあり、子供もいたと思われるのだが、それについて書かれたものを見たことがない。

後年、妾のおしづと夫婦同様に暮していたというから、何か事情があったのかもしれないが、勝田家には本家と分家があって、本家の主人を権左衛門、分家の主人を茂左衛門といったということはわかっている。

紫文斎とおしづの子、後に二代目紫文斎となる福太郎は文政四年(1821)に生まれた。

時に紫文斎三十一歳、三つ歳下のおしづは二十八歳。
この少し前あたりから、二人はもう夫婦同然に暮していたのだろう。

おしづについて『日本音曲全集、古曲全集』の一中節の解説に、

「この人(初代宇治紫文斎)の妾がおしづといって宇治倭文を名乗り、近頃の名人といふ評判を取った。高浜虚子氏の傑作、『杏の落つる音』、林若樹氏の『おしづ籠』は此女の半生を詳かに説いた小説で、江戸末期の変遷を語る貴重な文献である」

と載っている。

高浜虚子の『杏の落つる音』は読んだが、それによると、おしづ(小説では宇治紫津となっている)は元ホリ(山谷堀)の芸者で、ホリの芸者だったことを誇りにしていた、と出ていたので、おしづはてっきり山谷堀の芸者だったと思い込んでいた。

しかし、前出の『名人お静』の後記によると、おしづは深川櫓下の芸者だったとある。

初代津藤の竜池の取り巻きには深川の遊民が多かったというから、竜池の供をして深川に出入りしている内、紫文斎とおしづの出会いがあったのかもしれない。

また、おしづは慶応三年(1867)に七十四歳で亡くなっているのに、『杏の落つる音』をよく読んでみると、小説の背景は全く明治であって、『古曲全集』の解説にあったように、おしづの半生を詳かにしているとは思えない。

要するに、この作品はどこまでも小説創作であって、考証するにはあまり参考にならないということである。

虚子の書いたものよりも『名人お静』の記事を信用するのは、著者河竹繁俊氏の義母は河竹黙阿弥の娘のお糸で、おしづの晩年唯一の弟子だったことからもはっきりしている。

深川の芸者といえば辰巳芸者である。

深川は江戸城の辰巳(東南)の方角にあることからそう呼んだ。また、深川芸者を羽織芸者ともいった。
芸者は羽織や足袋を身につけないのだが、深川の芸者だけは羽織を着ていたので、俗に羽織芸者といった。

一説には川風が冷いので羽織を着るのを許されていたのだという。

深川の岡場所というのは、鶴ケ岡八幡や永代寺の近辺ばかりでなく、越中島の方まで含むかなり広範囲の地域を指していたようであるが、櫓下というのは永代寺門前にあった火の見櫓の脇の岡場所で、その火の見櫓は今の門前仲町交差点の丑寅(東北)の方向に清澄通りに面してあったという。

石塚豊芥子の『岡場所遊郭考』の深川の所に、

「○表櫓 当時繁昌 (写本)町鑑ニ、永代寺門前山本町(里俗やぐら下、裾継と唱ふ場所有之)」

この後に、「○表櫓○裾継(すそつぎ)」という地名が出てくるが、どうやら、それらを引っくるめて「櫓下」と稱したようである。

ここに「当時繁昌」とある「当時」とは、深川の岡場所は水野越前の天保の改革の厳しい取り締まりによって衰微したといわれているので、文化文政から天保改革以前の天保十年頃までを指していると思われる。

余談になるが、辰巳芸者を詠った小唄がある。新しい唄だが、よく唄われているようなので、次に挙げて置く。作詞は伊東深水である。

「辰巳やよいとこ 素足が歩く 羽織やお江戸の誇りもの 八幡鐘が鳴るわいな」

おしづについては後述することにして、紫文斎に話を戻す。

紫文斎が独立して宇治派を起したのは嘉永二年(1849)のことである。

その年の八月十五日、湯島天神境内の松金亭で宇治派創立の宴を催し、自ら家元となり、それまでの都一閑斎を改め宇治紫文斎と稱することを披露した。その時、おしづの都一静も宇治倭文と改名した。

宇治流を名乗ったことについては、元禄以前に主として京都で活躍した浄瑠璃の太夫、宇治加賀椽を遠祖としたという説が普通にいわれているが、別説によると、一中節の古い正本『都羽二重拍子扇』の初篇巻頭におかれている曲、「辰巳の四季」の文中に、「辰巳にあたる宇治の里」とある、その宇治をとったというのである。

紫文斎の最も信頼するパートナーのおしづが辰巳の芸者であったことを思い合わせると、確かに有力な説だが、今のところ、はっきりしたことはわかっていない。

松金亭での披露の会で、「月見酒」という曲を新作し、「月の筵」として、河東、山田、宇治の三流掛け合いで演奏披露したという。

時に、紫文斎は五十九歳、倭文は五十六歳だった。
新派創立を祝って、二代目津藤の香以から、

「声すずし都はなれて宇治の水」

という句が贈られた。

二世千種庵諸持の紫文斎は初代津藤竜池の眷遇を受けた取り巻きの一人だったが、初代津藤の竜池が安政六年(1859)に死んだ後も引き続き、倅の福太郎共々、二代目津藤香以の愛顧を受け、その贔屓に与っていた。

香以が九代目團十郎を河原崎権十郎時代から贔屓にしていたことは有名だが、その権十郎の為に荒磯連という見物講を作り、その講の規約書、掟書を紫文斎に作らせた。

その荒磯連が連中見物の嚆矢であろうと『名人お静』の後書にある。

紫文斎は狂歌の庵号を香以に譲り、香以は三世千種庵と稱した。

紫文斎から又、香以は一中節の一閑斎の号も譲り受けたとみえて、香以の一中節の稽古本には「一閑斎冬甫蔵」と自書してあるという。

こうしてみると、紫文斎と二代にわたる津藤親子との関係は深く、宇治派独立に当たってもその後ろ盾が大きくものをいったと思われる。

都派、菅野派にしてみれば、後脚で砂をかけるように出て行った者に対して反感を抱くのは当たり前の話で、仲間内では容易に宇治派を認めようとはしなかったという。

そんな中、新しい流派を独立させることが出来たのは、吉原の玉屋山三郎という大物の仲介や津藤香以の後援があったからで、都派や菅野派連中はしぶしぶ承知させられたのであって、心から納得した訳ではなかったのである。

明治十年に大槻如電翁が、三派親睦提携の議を唱えて一種の和解に至るまでは、互いに容認することを回避していたという。

初代紫文斎は宇治派を旗揚げしてから九年後の安政五年二月二十三日に六十八歳で没した。

初代紫文斎、おしづ、二人の子の二代目紫文斎、この三人の菩提寺は浅草清島町の常林寺だったが、今は中野に移転している。

墓碑だけは谷中に移されている。初代紫文斎の法号は静心院圓山道永居士、おしづは宇治倭文信女である。

以上、『名人お静』の後記によった。

前章でカットした『一中譜史』のおしづに関する残りの記事は、

「菅野しづは、慶応三年十月二十五日、七十四歳にて没す。浅草清島町常林寺に葬る。菅野の女弟子四人中の一人なり(四人とは、おしづ、おきを、おくに〈すなわち序国〉、おふじなり)。

平常は琴の師匠をなせりという。紫文が名をなせし時は倭文と稱し、倭文の名は後おやすに譲り、おしづの名は弟子のおいと(川竹新七の娘)に譲れり。

○初代紫文の法名 静心院円山道永居士」

とある。墓についてはいずれ触れることになるかもしれないが、非常に複雑で不明な点が多い。初代紫文斎の法名だが、『名人お静』の後記、『一中譜史』共に間違っている。道永ではなく道栄が正しい。二代目紫文斎は法名を宇治紫文道永居士と云う。この二人の法名の下の部分が入れ違っているようだ。

二代目倭文は蔵前の医師坂ノ上氏の娘のやすで盲目だったという。

しづの名を譲られた川竹新七の娘は、河竹黙阿弥の娘お糸で、河竹繁俊氏の義母である。

年齢はすべて、数え歳とした。

第122話 『一中節の三派(三)、宇治紫文斎』

 初代宇治紫文斎について『名人忌辰録』には、

「浅草材木町名主勝田権左衛門隠居五代目一中の門に入り都一閉斎と号す嘉永三年(1850)三月七代目一中と不和になり別に一派を開き宇治紫文斎と改む安政五年(1858)二月廿三日没す歳六十八浅草常林寺に葬る」

 とあり、五代目一中の弟子としているが、『一中譜史』には、四世序遊の談として、

「二代目序遊の弟子なり」

 とある。以下、

「序遊没後三代目序遊芸道未熟なるより、菅野家元株を引き受けんの相談ありしも、初代序遊の女房不承知にて止む。(この婆さん四世序遊の記憶にもこわい顔の女にて、九十歳迄生き、万延年間に死す、中々の理屈やにて、かれこれと口を出せり)
 勝田氏は芸道も秀れ、ことに菅野しづという二代目序遊の弟子を妾にしていた関係上、芸の発達をも助けたるものならん」

 このあとの記事は一先ず後回しにして、ここまでの記述によると、紫文斎は二代目序遊の弟子になっている。

 かなり細かい経緯まで書いてあるので、二代目序遊の弟子だったという方が正しいのかもしれない。

 菅野しづというのは後に名人と云われた宇治倭文のことである。

 紫文斎は又、狂歌をよくし、初め青雲亭、後に二世千種庵諸持と号して、摂津国屋(つのくにや)藤次郎の初代津藤竜池の取り巻きの一人だった。(竜池の子が、幕末に金を湯水の如く使って遊蕩の限りを尽し 今紀文といわれた二代目津藤の細木香以である)

 水野越前による天保の改革は厳しいもので、歌舞伎の三芝居は危うく取り潰しを免れたが、七代目市川團十郎は奢侈の咎で江戸追放になり、為永春水は『梅暦』などの人情本作品が幕府の忌諱に触れ、手鎖五十日の刑を受け、版木は焼却された。

 春水は古くからの竜池の取り巻きの一人で、『梅暦』に登場してくる千葉の藤兵衛事、千藤は竜池の津藤で、話のわかる訳知りの金持ちの旦那として出てくる。

 竜池もすんでのことで罰を受けるところだった。

 というのは、竜池が『女郎買案内』というものを作って知友の間に配ったとることが町奉行の耳に入ったからで、それを知った加賀町の名主田中平四郎が密かに竜池に知らせてきてくれた。

 竜池は急いで諸役人に手を回し金を贈って弥縫し、自らは妾に暇を出し、別宅を売って遊所通いを止めた。

 加賀町は、津藤の本宅がある山城河岸のすぐ隣町である。

 自粛後の竜池は内山町の百島勾当の家を遊び場にして、後の紫文斎の諸持など、取り巻きを呼び寄せた、と森鴎外の『細木香以』にある。

 竜池の取り巻きは深川の遊民が多かったという。

 竜池の遊びは、狩野派から北斎の門に入った浮世絵師、岩窪北渓に席画を描かせ、諸持に狂歌の判者をさせたりしたというが、河竹繁俊の「名人お静」(『日本及日本人』大正七年春期増刊号所載)の後記によると、その時竜池は百島勾当の所で一中節を習うのを楽しみにしていた、とある。

 百島勾当は一中節は二代目菅野序遊の弟子だったという。

 百島勾当の所には諸持もよく呼ばれたようで、勿論一中節も一緒にやったと思われる。

 百島勾当は後に、諸持が宇治紫文斎となって宇治派を創派した時、行動を共にし、宇治派に加わったのは、竜池以来の長い交誼があったからに外ならない。

 竜池は一中節と狂歌が好きで、狂歌は初代弥生庵桃の本雛丸の門人で雛亀と稱し、晩年には桃の本鶴盧また源仙といった。(前出『細木香以』)

 二代目津藤の細木香以は一中節はやったが、狂歌よりも俳諧を好んだようで、数多い取り巻きの中に特に側近の俳人として、關為山と晋永機がいた。自ら香以と稱した外、好以、交以、孝以とも署名したという。

 紫文斎については津滕抜きで語ることは出来ない程、関係が深いのだが、今はとりあえず津滕のことはさて置いて、『一中譜史』の前出の記事の続きを挙げることにする。

「(菅野を離れて)一時都へ入り、一閑斎と号す。しかるに都派にてもおこも一中の跡とて、適当のあとつぎもなき時なりしが、一らく、一なみ、一はま、などの不承知のため、家元をつぎ得ず、ついに別派をたてることになれり。この際、芳原の角の玉屋、幇間の朝顔吟平、河東の東阿さんなどの奔走あり。四世序遊の父の家などへも、たびたび交渉の末成立せしものなり。時に嘉永二年(1849)八月、五代目一中死後二十七年に当る。
 別派後、菅野しづをはじめとし、菅野二松という盲人、これは菅野初代序遊の姪を妻にしておりしが、初代二代の稽古を受けたる人なりしが、宇治に入って紫京と改名す。またおしづの琴の師匠なる盲人百島という検校あり。これらの人々総がかりにて新曲を作り、または増補など行ない、数年のうちに宇治の別派も独立したのである。
 以上の人々によって作られたる宇治派の曲は、琴曲の影響を受けたるをもって、悪評家は盲人節などといえりという。
 しかし、いづれも菅野より出たる人々なるをもって、宇治と菅野とは、一脈の通ずるところあり。都はしからず。
 初代紫文は安政五年二月二十二日、六十八歳にて没す。紫文の紫という字は、吉原の玉屋山三郎の家で重んじた名であるという」

 以下、菅野しづについて書いてあるが、それについては後述する。菅野から都に転じた紫文斎について、「名人お静」の後記には次のようにあるが、長文なので、一部要約して挙げる。

「二代目序遊が亡くなったのは天保十二年一月十日で、諸持がいつ都に転じたのか、はっきりしないが、都一閑斎を名乗ったのは同じ天保十二年の十月、河東一中掛け合いの「邯鄲」を作曲した時といわれているので、二代目序遊没後、間もなくのことと思われる。

 一閑斎は、妾の名人お静、菅野二松など、実力者を引き連れて一緒に都派に転じたので、都の中でも陰然たる勢力を持つようになったと想像するに難くない。

 お静は都一静、二松は都二松と稱した。

 その頃、都派では、六代目一中が天保五年に没して以来、家元がいなかった。

 一閑斎は、その都の家元たらんとしたが、弘化四年(1847)、千中という者が家元を継ぎ、七代目一中となった。

 一閑斎は行きがかり上、新家元と確執を生じ、家元と一閑斎の弟子達の間にも軋轢が起った。(以上、要約)」

「(以下原文)そこで一閑斎は一分派を起さんものと企て、在来の都派の語り物全部にわたって増補を加へんとした。が、これに対して七代目一中より抗議を申込んだが、一閑斎等は容易に応じなかったので、終に嘉永元年(1848)の四月に一閑斎及び一閑斎の子和中、並びに一静の三人を破門する旨を申送った。此の事件の為めにだいぶ問題がやかましくなったが、この時に、その頃荻江の家元を預っていた、通人の新吉原角の玉屋の主人山三郎が中間に立って、一閑斎の為めに奔走し、分離して新流派を興させることにし、家元には黙認せしむるの態度を採ることに取計らった」

 これら二つの文書を読み較べてみると、例えば百島勾当(検校?)についてのように、様々なことがわかるが、二、三註を加えておくと、吉原角の玉屋とは江戸町一丁目通りの角にあった大店で、角玉屋とも又、暖簾に火焔玉を染めていたので、火焔玉屋ともいった。

 当時の主人の山三郎については『せんすのある話』の「荻江節」に詳しく書いておいたので省畧するが、西川流を破門された西川芳次郎の面倒をみて、自分の花柳園という号を与えて花柳を名乗らせるなど、多くの人物が彼の世話になったようである。
 因みに、前出の西川芳次郎は後の花柳寿輔である。

 玉屋では太夫がいた時代、小紫という店固有の太夫名を持っていた。太夫が姿を消してからは御職といわれた店第一の遊女に若紫などと紫という字をつけて紫の字を大事にしていたようだ。

 四世序遊の家(『一中譜史』)とあるのは初世序遊の実家、吉原の引手茶屋桐屋のことである。

第121話 『一中節の三派(二)、菅野序遊、半太夫』

 文政五年(1822)七月五日、五代目一中が亡くなった後、跡を継いだ六代目について『一中譜史』には、

「五代目一中の弟子にして万太千中というが、師没後襲名、天保五年(1834)三月十八日没」

 とある。

 しかし、中川愛氷の『三絃楽史』には、

「六代目一中、五代目の倅で、十一歳の時若太夫となりし人」

 とあって、五代目の子としている。

 この六代目の妻が都一浜で、名人の誉れが高く、その門下から都一清(後に一静)、都以中が出た。その一清の弟子が初代都一広である。

 一方、文政六年十二月十二日、初代菅野序遊が亡くなった後、二代目は倅の山彦文次郎の菅野利三が継いだ。

 二代目序遊は、その後都派を離れて独立するのだが、その時期について、六代目一中の時、と書いてあるもの(英十三説)もあるが、前出の『三絃楽史』では、

「合方たる七代目一中の放埒により不和を生じ、天保十年(1839)初代序遊の作曲三十六段に自作五、六を加へて、正式に菅野派として独立、同十二年五十八歳にて没」

 とあり、天保十年のこととしている。

 七代目一中は『一中譜史』に、

「五代目の弟子にして栄中と稱し、河六また半中ともいう。のち一中を相続す。素行修まらず門中共よりも見はなされ行方不明となる。俗にお薦(おこも)一中という」

 とある。七代目一中については、どの本にも、芸は秀れていたが素行が悪かった、ということで一致している。

 河六が嘉六とすると、七代目は吉原の幇間だった都嘉六ということになる。

 二代目序遊は妹つるの子の幾三郎を養子にしていたので、その幾三郎が三代目を継いだが、芸道は全く未熟だったという。

 三代目序遊は嘉永四年(1851)九月十七日に死んだ。

 四代目の序遊について、『古曲全集』(『日本音曲全集』)の菅野派の解説に、

四代目序遊は初代序遊の実家、吉原の引手茶屋桐屋の倅、藤次郎が嘉永四年、十一歳で襲名した。(逆算すると、天保十二年の生まれである。)

 これについては、初代序遊の弟子だった品川芸者のおくに事、菅野序国が大いに関わっていた。序国が奔走して桐屋を説得して承諾を取った結果だった。

 藤次郎は四代目を相続して、その時「江戸むらさき」を作曲した。(実際の作曲は安政四年(1857)とする別本あり)」(以上要約)

 以下の『一中譜史』に、幕末の半太夫節についての興味深い記述も出ているので、そのまま挙げる。

「十一歳の時の「江戸むらさき」の作は、半太夫節より取れるものにして、その頃半太夫節はほとんどすたれ、知るものなき際、浅草仲ノ町に住せる狂言作者の妻お糸なるものによって、半太夫の「助六」を習いたるなり。前弾きも三下りも、「江戸むらさき」と同様にて、ただ二上りだけ節を新作せるのみなり。而して四世序遊は大正八年九月二十三日没」

「半太夫の家元は山谷とよし原の間の田中という所に住せり。当時半太夫ものも河東風に節崩れ、純粋の半太夫を語れるものはお糸と馬喰町旅館主人とよし原土手下の駕籠屋の親方の三人位なりきと」

「かくて半太夫の面影は、今の河東の「助六」よりは一中の「江戸むらさき」に近きなり」

 田中というのは、吉原近くの元吉町(現日本堤一、二丁目辺)の俗稱で、当時半太夫の家元が住んでいたというが、三升屋二三治の『紙屑籠』に載っている半太夫の歴代は次のようになっている。

元祖半太夫
二代目半太夫
三代目半太夫
四代目半太夫
五代目は半治郎と云い、御蔵前代地に住んでいて、男女蔵、三津五
郎の助六を勤めた。
六代目は半蔵と云う。村松町力屋の千代と云う人。後に半太夫。
七代目は田町の駕籠屋で、八代目團十郎の初助六を勤める。連中無
人にして、一中節よりスケに出る。

 元祖から四代目までは何も書いていないが、『江戸吹き寄せ』の「河東節の謎」の中で半太夫の歴代に触れて書いたことを勘案すると、元祖(生没年不明)、二代目は元祖の長男で宮内といったが早世(これを二代とするかで諸説ある)、三代目は元祖の次男(『関東名墓誌』に、「寛保三年没」とある半太夫はこの人と思われる)、四代目は三代目の長男(天明七年の中村座で、この半太夫の七回忌追善興業があり、四代目となっている)

 五代目が勤めたという初代市川男女蔵、三代目坂東三津五郎の助六は、文化四年(1807)三月の中村座で芝居の外題は「猿若栄曾我」、半太夫節の名題は「助六桜の二重帯」で、助六と意休を男女蔵と意休が交替に勤めた。揚巻は五代目岩井半四郎。

 六代目に関する記述はよくわからない。初めに「半蔵と云う」とあるのに、「村松町の刀屋の千代と云う人」とあって、男だか女だか不明。

 七代目は、「田町の駕籠屋で、八代目團十郎の初助六を勤める」とある。八代目團十郎の初助六は天保十五年(1844)三月、中村座の「助六廓の桃桜」で意休は六代目幸四郎、揚巻は七代目岩井半四郎だった。

 この「田町の駕籠屋」が『一中譜史』に出ている「よし原土手下の駕籠屋の親方」と思われる。とすると、半太夫節の家元であり、「家元は山谷とよし原の間の田中に住んでいた」という記述と矛盾する。

 実は「江戸むらさき」を四代目序遊に教えたのは「田中のお糸」と云うものといわれており、そのお糸なるものは河竹黙阿弥の娘という説もあり、それについて『江戸落穂拾』の第十九章「襲名披露興業(五)」で、黙阿弥の娘のお糸ではないことを考証しておいたが、何者なのかは不明だった。
 一応、『一中譜史』の記事から、何という狂言作者かは分からないが、その女房のお糸というものと判明した。住所については『一中譜史』の著者が混同したものか、或いは「田中のお糸」という言い伝えが間違っていたのか、今のところは分からない。

 この「江戸むらさき」作曲のエピソードから、菅野派と半太夫との関係が感じられ、『一中譜史』のその後に、「連中無人にして一中節よりスケに勤める」とある文章からいって、八代目團十郎の初助六、天保十五年三月の中村座の時と思われるが、八代目團十郎は嘉永三年(14850)三月の中村座でも助六を演じており、或いはその時のことかもしれない。

 その嘉永三年の半太夫節の名題は「助六廓の花見時」で、お糸が四代目序遊に教えた助六は、その「助六廓の花見時」で、四代目序遊が「江戸むらさき」を作曲したのを安政四年とすると、八代目團十郎二度目の助六の六年後となる。(安政四年説の方が自然と思われる)

 歌詞(「江戸むらさき」)を調べてみたところ、半太夫節の「助六廓の花見時」と全く同じだった。

 菅野と半太夫との関係が何故それ程密だったかについては今のところ推測の域を出ないが、一中節からスケに出たのは都派の連中ではなく、菅野派だったことは確かなようだ。

 ついでにいっておくと、嘉永三年三月、八代目團十郎の助六の時、助六が入った天水桶の水がお銚子一本一分で飛ぶように売れ、忽ち売り切れたという。

 今年の五月、新橋演舞場で海老蔵丈が水入りの助六を演じて評判だった。

 水入りの助六は二十三年ぶりというので、手許にある「助六由縁江戸桜」の台本を調べてみた。

 といっても、歌舞伎十八番を制定した七代目團十郎の初助六、十五代目羽左衛門が大正四年歌舞伎座で彼としては二度目の助六を演じた時のものの二冊であるが、いずれも水入りになっている。

 今は別演出になっているが、昔の助六は水入りが普通だったのかもしれない。    

第120話 『一中節の三派(一)、五代目一中以後』

 一中節中興の祖、五代目都一中は本名を千葉嘉六と云い、寛政年間の初め頃、上方から江戸に下ってきたといわれている。

 寛政四年(1792)の『吉原細見』の「男芸者の部」に、都太夫一仲(一中ではない)の名が初出する。

 しかし、同じ細見のあとの方に都嘉六の名がある。
 これは一体、どういうことなのだろう。

 その後の『吉原細見』にも、この両名の名が出ていることから、二人が別人であることがわかる。

 竹内道敬先生は『五代目一中について』(雑誌『古曲』第二十六号)の中で、都嘉六は後に栄中から七代目一中となった人物で、五代目とその七代目を混同しているのではないか、といっている。

 都一中ではなく都一仲としたことにも意味があるとして、前年の寛政三年まで吾妻路宮古太夫と名乗っていた人物が寛政四年に都一仲と改名したのでは、と考証しているが、五代目一中については、まだ不明のことが多いようだ。

 五代目一中は大変な美音家だったというが、三味線が出来ず、園という妹に三味線を弾いて貰っていたという。

 寛政四年の中村座の「傾城浅間獄」に初代鳥羽や里長の三味線で出演したが、客の入りが悪く、評判もあまりよくなかった。

 五代目一中がいつ頃、河東節の三味線弾き、三代目山彦新次郎と接触したのか、はっきりした時期は不明だが、文二郎から三代目山彦新次郎を襲名したのは文化二年(1805)で、彼が作曲した一中節の作品の開曲年代も文化年中とされるものが多いことから、山彦新次郎襲名後ではないかと思われる。

 三代目山彦新次郎については『江戸落穂拾』の第二十八章「山田検校」(二)に書いておいたが、ざっと畧歴をなぞると、新次郎は吉原の引手茶屋、三代目桐谷五兵衛の長男として生まれたが、生来の芸好きで義太夫は二百番余りも覚え、長唄、常磐津、謡曲、箏曲等、なんでもござれで、特に琴は山田検校について奥許しをとる腕前で、山田流の琴爪を丸くするよう進言したのは、この新次郎だったという。

 好きな芸事に専念するため、稼業を妹婿に譲って河東節の三味線弾きになったといわれている。

 云い伝えによると、五代目一中は新次郎に、どうしたら一中節を世間に流行らせることが出来るかを相談したという。

 新次郎は五代目一中が語る「夕霞浅間獄」を聴いて、結構なものだが節が難し過ぎて素人向きではない、もう少し柔らげてはどうか、と一中のために作曲したのが、「吉原八景」(「花紅葉錦廓」はなもみじにしきのいろざと)である。

 五代目一中は新次郎を見込んで自分の相三味線になってくれと懇願する。

 新次郎もその熱意に負けて承諾する。

『一中譜史』(樋口素童著)によると、その逆で、新次郎が五代目一中に惚れ込んで相三味線になったとしている。

 一中節の三味線弾きが山彦新次郎では可笑しいと、初代一中の須賀千朴と初代の門人で名人といわれた都序遊の双方の名をとって菅野序遊と名乗った。

 初代の菅野序遊である。

 一時衰微した一中節を復興させ、今日まで綿々と続く基礎を築いたのは、五代目都一中と初代菅野序遊、この両名のお蔭で、今日の一中節の稽古本の表紙に、上部に都の定紋「藤に沢潟鶴」を付け、下部に菅野の「花桐」の紋を比翼に付けたのは、長く初代序遊の功績を伝えるためといわれている。

 山彦新次郎の初代序遊は作曲の才にも長けていて、一中節として四十数曲を作曲しているが、その中には今でも名曲として評判の高い曲が何曲もある。

 その初代序遊の息子は山彦文次郎といって、やはり河東節の三味線弾きだったが、文次郎も父親同様、一中節の三味線弾きになり、菅野利三と稱した。

 五代目一中は文政五年(1822)に亡くなり、新次郎の初代序遊もその翌年の文政六年に死んだ。

 父、初代序遊の没後、文次郎がその名跡を継ぎ、二代目序遊となった。

 二代目序遊は俳諧の方は万来庵雪庵の弟子で千来庵と稱し、彖刻を好み貴重な印材などを収集していたといわれ、また、思声と号し頗る能書家であって、その後の一中節の稽古本の板下の字はこの二代目序遊が書いたものという。

 前に挙げた『一中譜史』に、

「序遊(初代)自家の者に告げて曰く、河東節はもはや発展の余地なし。予の家をつぐもの必ず一中節たるべしと。当時も倅も河東の方にて文次郎といい、名をなしておりたるに、河東を捨てしめた」

 とあり、三代目新次郎の初代序遊も、その息子の文次郎も、河東節を捨てたように書いてあるが、これは間違いで、二人共全く河東節をやめたわけではなく、河東、一中共、併行してやっていたようだ。

 初代序遊は山彦新次郎として河東節家元の補佐になっており、そう簡単に一中節に転向出来たと思えない。

 現に、文化十二年(1815)には酒井抱一作詞の「七草」、文政四年(1821)には「秋のぬるで」を河東節として作曲している。

 また、倅の文次郎も同様で、文政七年(1824)に酒井抱一作詞の河東節「江戸鴬」を作曲している。

 これらのことから、二人共全く河東節をやめたわけではなく、どうやら、河東節の時は山彦新次郎で、一中節の時は菅野序遊と、また、河東節の時は山彦文次郎で、一中節の時は菅野利三、後には二代目菅野序遊といった風に二人共、夫々河東と一中の二足の草鞋をうまく使い分けていたようだ。

 一中節の名曲、「安宅勧進帳」は初代と二代目の菅野序遊親子の合作である。

 長唄の有名な「勧進帳」は、池の端の六翁と呼ばれた四代目杵屋六三郎の作曲だが、節付けするに当たって、一中節の「安宅勧進帳」をお手本にしたという話はよく知られている。

 初代序遊が、ある時、吉原の湯屋に行くと、湯の中で元山伏の豆腐屋の売子が、いい気持ちで唄を唸っていた。

 その独特な節回しが序遊の興味を大いに唆った。

 それを研究して、「安宅勧進帳」の名乗りや読み上げの節を作曲したといわれている。

 また、火事に会って駒形の住まいを焼け出され、箔屋町の秤座に仮寓していた時のことである。

 箔屋町とは今の日本橋三丁目辺の一部で、そこに守随彦次郎の秤座があった。

 寓居で序遊が「天の網鳥」の作曲をしているのを見た人があきれて、

「こんな時に、作曲でもないでしょう」

 というと、

「財宝など、物はすべて火事で焼けてしまうが、芸だけはその心配はない」

 と答えたという。

 初代序遊の芸熱心なエピソードは多い。